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目次(新聞販売店の仕事)

1995年9月~2008年10月までやっていた新聞配達
2008年10月~2009年3月まで新聞販売店で事務補助として仕事していた頃の出来事を扱ったカテゴリ。


新聞販売店で働くのはおすすめしない 新聞販売店の仕事内容を軽く紹介

新聞販売店の仕事TIPS集(登場人物・舞台背景の解説) 本文を読んで疑問に思ったことはここで解説している


まず最初に上記2つを読むことをオススメする。


交通事故で死にかけたときの話 出勤途中に寝不足で事故ったときの話

13年続けた新聞配達 中学2年から不純な動機で始めた新聞配達も気づけば10年以上続けていた...

新聞販売店での失敗談の数々 睡眠不足から来る単独事故で何度も死に目に遭った出来事

年末進行&大量のチラシと戦う新聞販売店 忙しかったが普段ダメなヤツらが団結する面白さはあった

新聞販売店の様々な事情 折り込みチラシを作る仕事は果てしなく地味である
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新聞販売店の仕事TIPS集(登場人物・舞台背景の解説)

新聞販売店のカテゴリに出てくる登場人物や舞台背景をここでは紹介する。
各エントリの出来事を読む前に、このエントリを読んでおくことで、断片的に出てくる人物や状況が理解できるだろう。
該当エントリを読んでいる間に疑問に思ったときなどにも、ここをひらいてもらえれば解決する(と思う)。
いわゆるTIPSのような場所。

・新聞販売店

舞台となる新聞販売店。
創業時は空き地ばかりで文字通り何もなく夜は真っ暗で寂しい。舗装されている道路のほうが少なく、片田舎と呼べる寂しい区域だったが、20年余りの時を経て、発展を遂げる。
今では家がびっしり立ち並び、大手ショッピングスーパーや家電量販店、パチンコ屋などが軒を連ねる賑やかな地区となった。
事務所は大きな道路(通り)に面した、ぶっちゃけ、新聞販売店としておくには勿体無い立地の良さで、地価も購入時に比べ数十倍以上に跳ね上がっていると思われる。

2008年9月末をもって、創業時から尽力した社長が引退し、販売店の権利を売り渡すことになった。
新聞社の100%子会社で、新聞販売店を管理する会社が新会社となり、ここを買い取った。

従業員の解雇などはなく、人員の入れ替えはバイトにいたるまで一切なし。

ただし、業務内容に関しては段階的に見直しが入り、徐々に効率的なやり方へシフトしていった。
だが、顧客管理など事務仕事は短期間で大幅に改革が行われ、従業員たちは混乱を強いられた。
なぜかというと、仕事のやり方が旧世代的で非常に非効率的だったからだ。
パソコンを使うべきところでパソコンを使っていなかった。
古くからいる人間にしかわからないようなやり方をずっと続けていたため、新しく来た所長はそれでは仕事が成り立たないと、
わずか半月で強引に改革を推し進め、PCを使ったことがない年配ばかりの社員たちに強制的にPC操作を強要した。

こういった頭ごなしなやり方は当然、従業員からの反感を買いお互いの軋轢がひどくなっていった。

元社長は、立地が良かったせいか、販売店の権利だけを売り、土地や建物は明け渡さなかった。
そのため、移転先を探さなければいけなかった。移転先が決まる半年間は、旧事務所を間借りしていた。
2009年5月に新社屋が完成し、事務所を移転する。

・新聞販売店を管理する会社

ネットの普及で近年新聞離れが進んでおり、新聞社としては何とか部数を維持したかった。
しかし、新聞社の主な販売経路は、個人経営の新聞販売店である。
そのため、新聞社の営業部が直接販売店の経営方針に口出しするのが難しい立場にあった。

そこで生まれたのが、新聞社が100%出資の子会社の新聞販売店を管理する専門会社である。
個人経営の新聞販売店を買収してこの子会社の管轄にする。

私が働いていた市内では、2つの販売店がこの子会社に買い取られていた。私が籍を置いていた2009年3月末の段階であって、今はどうか知らない。

ちなみに、新聞社としてはこの会社の存在を公にしたくないらしく、会社案内や求人を出す際は別会社として出している。
不良やヤクザのような柄の悪い社員が多い。

・安西爆弾(私)

私のことだ。
1995年9月から、当時中学2年生の時に、この新聞販売店で夕刊配達をはじめ、以降ずっと籍を置いていた。
基本的に学生時代は夕刊配達をしていたが、都合が悪い時期は、日曜代配という、平日の配達員の代替要員をやっていた。

2004年春、大学卒業後、就職できず、新聞配達(朝刊)をしながら正社員の仕事を何年も探していた。

2008年10月、会社が新しくなったときに、長年ここで働いていたコネで募集していたバイト(配達員ではなく事務の仕事)の面接を受けた際、
所長の気まぐれで契約社員として採用が決まった。

しかし、新聞販売店の過酷なスケジュールや、人間関係の悪さについていけず、わずか半年で退職する。

会社をやめるのも実は楽ではなく、角の立たない理由を探さなければならなかった。
私はここを受ける直前、2008年9月末に自衛隊の試験を受けていた。
結果は健康診断で落とされてしまったが、受かったことにして、入隊日が丁度2009年4月1日だったので、実は自衛隊に入るかどうか迷っていたというそれっぽい嘘をついて会社を辞めた。

そういう話を新会社から来た社員に話すと、こう言われた。

「ここではずっと働いてられるけど、正社員は足りてるから出世はないよ」

これが事実なら、やめて正解のような気がするし、人材流出が悔しくてわざとこう言ったのかは分からない。

・(元)社長

新聞販売店の社長だった人。
温厚で物腰の柔らかそうな人。お腹がでっぷりと出ていて、頭は白髪。メガネを掛けている。

2008年9月末をもって、販売店を売却譲渡する。
晩年は、好き放題やって手の付けられない従業員たちに愛想を尽かしたのか、事務所にはほとんど顔を出さず放ったらかし状態だったらしい。
同時に新聞社の営業部からの突き上げもうるさく、本業は適当にして昼間っから趣味のダンスに打ち込むようになっていた。
これでも、開業当初は鬼社長で厳しかった人らしい。

しかし、引退理由は、会社経営に嫌気が刺したからというだけではない。

実は新聞販売店の経営者になるには、定められた研修を受けて資格を取らなければならない。誰でも簡単になれるというものではない。
そして、この資格には年齢制限があり、経営者としての資格を失効したというわけだ。
普通は自分が現役でいられる間に後継者を育てたりするものだが、そこまでの情熱を持てなかったのだろう。
家族に娘がいるが、継がせるつもりは全くなかったようだ。そりゃそうだ、自分が経営者になった頃と違い、新聞業界も今は下火になっているのは見るからに明らかだ。
その娘さんは、新聞販売店に興味は全くなく、女の子らしくパン屋を独立開業して、そこそこ成功しているようだった。

かつて新聞販売店の事務所として使われていた建物は、今はその娘さんのパン屋(2号店)になっている。大きい通りに面した、店としては非常に立地の良い人目に付く場所だ。

嫌気が刺していたとはいえ、定年まできっちり勤めきるのだから、社長なりの優しさを感じた(私にはほとんど関係ない話だけど)。
もう経営者を放棄しても遊んで暮らせるだけの金は稼いでいただろうと思う。

家は社長だけに立派であった。私は一度正社員にして欲しくて直接家に行き、頭を下げてお願いしたことがある。

・所長

新聞販売店を管理する会社から来た、新しい所長。40代なかばで、うだつのあがんなそうなパッとしない感じの人。
眼鏡をかけていて、根暗っぽくて性格が悪そうにみえたが、実際見た目通りの人間だった。

今は雇われ所長をやっているが、いずれは独立開業を夢見ていることを面接の時に語っていた。

市内にもう一つ、買収した新聞販売店があり、そっちの所長も兼任していた。

業務改革を強引に推し進め、従業員から反感を買う。

例えば、積極的でなかった訪問営業を強化したり、事務所内での仕事にPCを導入する。
しかし、従業員はPCを全く使えない50代の高齢な社員ばかりだったので、浸透させることに難航する。

あまりの使えなさに呆れ返ったのか、見た感じ明らかに小学生向けといったキーボード操作方法というA5型のカードをどこかで買ってきて全PCの横に置くという人を小馬鹿にした行為をやっていた。
その割には、私から見て、この人もさほどPC使えてないなと言う印象があった。

あからさまな嫌がらせを古い社員に対して行っていたが、本音を言えば全員リストラしたかったんだろう。それをやると労働基準法にでも引っかかるため出来なかったんだと思う。
中に使える社員がいれば、キープしたかったのだろうが、中を見てみれば、PCすら使えず定年間近の年を食った社員ばかり。これにはさぞ手を焼いただろう。

私の販売店では、柄の悪い部分を隠して猫をかぶり続けていた。
本来はヤクザの組長のような人間で、口も悪く、影で弱い者いじめをするような悪人だった。

現在は転勤してこの販売店にはいない。

・スキンヘッドのメガネをかけた社員

販売店の従業員の一人。私の直近の上司でもあった。趣味はパチンコ。50代後半。
CRエヴァを極めたことをやたら自慢していた(2008年11月当時)。

性格が悪く、人によって態度を変える。
主婦や事務員の女には優しく接するが、私のような学生(新聞配達を始めたのは中学生の時である)には時折怒ったりして厳しく接する。

私に良く八つ当たりしたり、給料が下げられたことを愚痴ったりしてきた。
気分屋で機嫌がいい時と悪い時で態度が違う。だから契約社員として入社してからはあまり関わるのを避けていた。

車が好きで、実は車の整備工場で働きたかったらしい。

私が仕事をやめる直前、母親を亡くした。

チラシ折込の機械の扱いに自信があり、私に自慢していた。

・主任(社員)

主任でも何でもないが、何故か主任と呼ばれ続けていた。
60歳を超えていたが、再雇用制度で現役と変わらないポジションで働いていた。

元大手家電メーカーの営業をしていたことがあるせいか、販売店の中でも最も人当たりが良く本人は嫌がっていたが営業向きの人間にみえた。
性格も悪くなく、数少ない「話せる人物」の一人だった。

背が小さく、話しやすい雰囲気の人。スキンヘッドの男と非常に仲が良い。

この人とは契約社員で働いていた頃、面白いエピソードがあった。
社員が使う駐車場に雪が積もりに積もって使い物にならないというので、私と2人で除雪することになった。

主任は使えもしない小型の除雪機に乗り込み、エンジンをかけた。
その駐車場まで距離があるということで、私も乗るように促された。

こうして本来1人乗りの除雪機に2人で無理矢理乗り込み発進した。

…明らかに暴走していた。普通の車とは勝手が違うのだ。工事現場にあるショベルカーのような構造になっていた。
主任はなれない手つきで運転するが、どう見ても危なかった。動きはガックンガックンしてるし、関係ないところでショベル(?)が突然動き出すし。

しかも、車通りの多い広い道路を縦断しなければならなかった。

肝心の駐車場についてからもスムースに除雪は進まなかった。
私は降りて機械では出来ない部分を手作業で片付けていたが、除雪機の動きはたどたどしく、いつ轢かれてもおかしくない状態であった。

この明らかな人選ミスで、どうにもならない状況にぶちあたって、私たち2人は大笑いしていた。

「ふだんショベルカー使ってない俺らがこんなの使ったってどうにもならないべやなあ!」

確かにその通りだ。私も笑った。そもそもここまで事故無く辿りつけた事自体が奇跡だった。

ネチネチとしたいやらしい性格の所長を嫌っており、2009年3月末をもって退社した。
体の具合も良くなかったようで、退職する月に1週間入院していた。

・Kさん(社員)

田舎にいそうな頑固者の親父といった感じで、取っ付きの悪い人だった。
悪い人ではないのだが、まともに話ができないので、訳もわからず突然怒鳴られたりする。

どうやら、長い時間かけて付き合って心を許した人としか、うまくコミュニケーションがとれない気質の人のようだ。

その性質上、主任とスキンヘッドの男とは仲が非常に悪く、半年間ここにいたが、一度も2人と話している姿を見かけたことがない。

60歳を超えており、再雇用制度で働いていた。

会社が変わって、方針転換で対面営業に力を入れ始めたが、この人は間違っても営業が出来る人には見えなかった。
PCも使えなかったため、2009年2月末をもって退職。

・課長(社員)

なんともこれといった特徴のない、温厚で物腰の柔らかそうな人。
新しい会社に変わったときに、一応、課長という肩書きをもらっていた。
理由は単純で、再雇用の人をのぞいて年功序列で最も年上だったから。

私が契約社員になって以降、仕事の指示を仰いだりする人だった。

所長の強引なやり方に不満はありながらも、我慢して付いていく社会人の鏡とも言える人だ。
人間関係の悪い職場だったが、他人に左右されずに誰とでも仲良く付きあおうとしていた。

PC操作が出来ず四苦八苦していたが頑張って勉強していた。
定年後も再雇用してもらおうと言う意図があったようだが、多分その望みはかなわなかっただろう。

・Mさん(社員)

50代以上が大半を占める販売店の社員の中で、唯一40歳だった人。でもPCは出来ない。

話のできる数少ない人の一人で、私は良く電話で相談に乗ってもらっていた。

Mさんも、入社してみてこの販売店の人間関係のあまりの悪さに参っていたようだった。
しかし、我慢して10年間働き続けていた。

この人とだけ話していたらわからなかったのだが、どうも口ばっかりうまい傾向があって、
自分をでかく見せようとする節がある。

別の人(主任やチラシ折込のバイトのおばさん)に話を聞いて真実が見えてきた。

どうも、Mさんはこの販売店にあまり馴染めていなかったようだ。だれかれ構わず悪口ばかり言っていた。
また、チラシ折込のバイトのおばさん相手にしょっちゅう漏らしていたことがあったという。

「この会社早く辞めたい」

10年間言い続けていたのだそうだ。
私は会社をやめるときに非常に悩んだ挙句、この出来事を思い返し、無職になって困って親にすら後ろ指さされようともこの人のようになりたくないと思って、
勇気を振り絞って会社を辞めたのだった。

Mさんとは電話で何度もこの職場について相談をしていた。
しかし、Mさんにも後ろめたい事情があったことを当時の私は知らずに頼り切っていた。申し訳ないと思っている。

Mさんは、私が入ってきてすぐに別の販売店へ転勤することになった。
販売店を管理する会社が買収したもうひとつの方の販売店だ。

そこの販売店は、柄の悪い不良のたまり場のようなところで、転勤早々全員からいじめられていたようだった。
転勤から一ヶ月後、ウチの販売店に顔を出したことがあるのだが、たった一ヶ月で痩せこけて、別人のようになっていた。
Mさんは決して太っていたわけではない。あまりの豹変っぷりにみんなびっくりしていた。

・Iさん(新会社の社員)

Mさんのかわりとして入ってきたのが、柄の悪いヤツらの溜まり場の販売店から来たIさんである。
年齢は30で、出世のことばかり考えていた。こっち(地方)にいても偉くなれないから早く本社に戻りたいと良く愚痴っていた。

仕事をテキパキとこなすように見えて、自分以外の仕事はやりたくなくて、他人に押し付ける。決して出来た人間ではない。

そのくせ、私が入社初期の頃、早朝5時出勤になかなか慣れることが出来ず、4,5分遅刻してタイムカードを押していたのを見て、
怒号を飛ばすなど、他人には厳しい一面を見せていた(ちなみに会社が変わってから2ヶ月ぐらいで、タイムカードは不要ということで撤去された)。

私が休みの日にこの人の管理する区域の朝刊配達員で欠員が出たときに自分がやりたくないものだから私に仕事を押し付けてきて、せっかくの休日を何度も台無しにされたりして内心相当嫌いになっていた。

この人には、良く怒られることが多かったのだが、いつの日かいつも通り怒られていたら、怒られた後の私の冷めた態度が目についたのか、2週間近く距離を置かれるという時期があった。
何を勘違いしているのか、元から嫌っているだけで、それがたまたま目立ってみえただけなのではないかと思う。
機嫌がいいときはIさんから絡んでくるが、私は怒られ続けて初期の頃からとっくに嫌気が刺していて、できるだけ関わりたくないので、いつも上っ面だけ聞いたふりして避けていた。

・事務員の女その1(社員)

私のいた販売店に古くから事務員として働いていた女性の一人。
かわいい声をしているが、40代である。
かわいい声をしているが、結婚出来ていない。
かわいい声をしているが、性格は悪い。

契約社員になってみて人間性がはっきり分かってきて、私は関わらないようにしていた。

・事務員の女その2(社員)

私のいた販売店に古くから事務員として働いていた女性の一人。
いまどきの若者が聴きそうなJ-POPを着メロにしたり、ビジュアル系バンドを自分のノーパソの壁紙にしてみたり、若作りをしているが、その老け顔だけはごまかせない。
というか、ごまかさなくてもアラフォーなのは一目瞭然である。

既婚で性格は悪くないが、天然っ気があり、簡単な宛名印刷が出来ずに泣いてわめき散らしたり、
印刷機が壊れたことを全部私のせいだと決めつけて報告しにいったり、仕事はあまり出来ているようにみえなかった。

私はこの人とも関わり合いになりたくなかった。なぜなら、面倒事から逃げようとする癖があるからだ。

・チラシ折込のバイトのおばちゃん2人

たった半年の付き合いだし、特徴もないので2人にまとめて紹介する。
一人は最も古株らしい50前後の主婦。ハキハキ喋るけど、うるさい。
この人が「販売店の人間関係が悪い」ことなど、事情を色々教えてくれた。

もう一人は60超えたおばちゃん。
仕事が長丁場になってくると、黒い本音を漏らす。結構性格悪い。

ちなみに、2人とも、長く勤めている割に、私が指示書と言われる、どうやって折り込みチラシをつくっていくか?という
スケジュール表みたいなものを作ってやらないと、さっぱり動けない。5,6年も働いているなら、少しは自分で考えて動いて欲しいと思う私はバイトに求め過ぎなのだろうか。
もうちょっと、感覚的に分かって欲しいと思った。たった半年しかいなかった私でも、曜日ごとに来るチラシにある程度の法則性があり決まりきったものが多いことは理解できるのだが。

・チラシ折込のバイト マンション経営の50代のおっさん

3階建てのマンションと、2階建てのマンション2つを経営している一家の主。
こんなところにきてバイトする必要がないと思っていたのだが、不動産経営だけではやっていけず、ここで働いているのだそうだ。

実際にそのマンションを見に行ったことがあるのだが、立地が悪く少々交通の便が悪いが、1階にはラーメン屋、2階には会社が事務所として借りていて、羽振りが悪いようには見えなかった。
ちょっと空き家の張り紙が多い気はしたが。

ちなみに、私は美味しいとすすめられたので1階にあるラーメン屋に食べに行ったことがある。人はさっぱりいなかったが中々美味しかった。
再び食べに行こうと思ったら、なんと潰れていた。

チラシ折込の機械の使い方をマスターしているが、頭がぼけているところがあり、稀に重大な間違い(普通間違えるとこでない場面でやらかしてしまう)をしてしまうことがある。
そのせいか、主任にはとても嫌われていた。

チラシ折込のバイトの他に、朝刊配達のバイトもやっている。

冬でも自転車で通勤している。また、ラジオを常に携帯しており暇なときにヘッドフォンをつけて聴いている。

こんな冴えない親父だが、子供は才能に恵まれており、私が働いていた頃ちょうど国立大に合格していた。

毎日、折り込みチラシが届く倉庫にチラシを取りに行っていたが、その際に一度、不注意で前の車にぶつけてしまい、厄介な事故を起こしてしまった。
私は、早朝に配達の仕事をして、昼前にチラシ折込のバイトをやっているせいで、私と同じように寝不足になっているせいだと思っていた。

だから一度、この事故を起こす前に、同じお金を稼ぐなら多少給料は落ちるかもしれないけど、もっと別のバイトをしたほうが良いというようなことを話したことがある。

なんだか、毎日一緒にチラシ折込の仕事をやっている主婦2人にも嫌われているようだった。どうしてそうまでしてここに固執するのか疑問に思っていた。


(あとがき)

以上、登場人物や本文で解説しきれなかった出来事をここで説明させてもらった。
今回は思った以上に長文になってしまった。
こうやってエントリしていると、またいくつか細かいエピソードが思い出されるのだが、本当に些細な話なのでこれ以上は書かない。
大体9割以上はもう書いたはずである。
このエントリで本当に新聞販売店の話は最後になる。

素人の仕事の苦労話なんて、なんの面白味もない話だっただろうが、自分の為に細部まで思い返して書かせてもらった。

私は年齢の割にあまり働いてないので、仕事の話はもうあまりない。後はバイトの話ぐらいしかない。
次は気分転換に別の話題を更新していこうと思うが、仕事の話題もまだ全部書ききったわけではないので、別の職場の話もまた取り上げるつもりだ。
ただ、新聞販売店ほどの超大作にはならないかと思う。
まさかここまで重い長い話になるとは自分でも想像がつかなかったために、書き終えてみてちょっとびっくりしている。

新聞販売店の様々な事情

前回のエントリでは、やはり書きなおしのせいもあって、所々文章が荒っぽく説明不足な部分が目立ってしまっていた。
今回はその補足も付けながら、新聞販売店時代のまだ語っていないエピソードを載せることにする。

●チラシ折込の作業風景

前回は軽く説明した程度なのだが、あれだけでは要領を得ない内容だったと思い、反省している。

やはりここは文章で長々と書き出すよりも、現物を見てもらうのが一番早いと思う。
というか、文章で書くならあれが限界とまでは言わないが、機械が特殊な形状をしているので、説明しにくいし、そこから想像を広げるのも中々難しい。

まず、私がそうだったのだが、一目見ただけでは何の機械かすらわからないというぐらい、変わった代物なので、動画を見てもらい、それに対して私が解説を入れる形式を取りたい。

YouTubeで「新聞販売店」と検索をかけると、非常に沢山の件数がヒットすることに驚いた。
しかも、デジカメで断片的にだが、新聞販売店の仕事風景を撮影して公開している。
ただ、その動画だけ見ても、意味が通じないと思うので、私が今回それに対して解説をしていくことにする。



※非常に音が大きいので、ボリュームを小さくして再生してください。

真ん中に鎮座する大型の機械が、チラシ折込機だ。
両側に段々になって飛び出している部分、ここにチラシの束をセットする。
機械を作動させると、セットされたチラシが中央部に1枚ずつ入っていき、折り込みチラシが作られる。
そして、一番下のトレイに出来上がったチラシが排出される。

この動画では、セットしたチラシがなくなるたびに機械を止めているが、私のところでは一々ストップしていたら仕事が終わらないので、機械をまわしたまま、チラシの残り枚数を見ながら補充しなければならなかったので、かなり大変だった。

補充と言ったって、ただ放りこめばいいというわけではない。
動画(0:37)でやっているが、チラシの束を揃えるだけでは駄目で、機械が一枚ずつ取りやすいように、ずらしてから補充している。私は不器用で、こういった作業が苦手で素早く出来なかった。

機械の両側にいる2人が、チラシを補充している。

手前の一番下のトレイに出来上がったチラシが出てきているが、この動画の機械は私がいたところで使っていたものより、古い機械のようだ。
私のところで使っていた機械は、トレイに一定数溜まると勝手に止まり、取りやすい位置までスライドしてリフトが上がって来たものだった。

机の上で出来上がったチラシをいじっている人、これは私が丁度やっていた仕事だ。
機械が折り込んだチラシは、綺麗に整ってないので、「たたき」をする。
文字通り、机に折り込みチラシの束をたたいて、綺麗に揃える。このとき、機械が間違って折り込んでないか(同じチラシが2枚入っているとか抜けているとか)チェックする。

動画ではあまり写っていないがもう一人いて出来上がったチラシをどこかにしまっているようだ。

私のところも、4人で作業していた。私以外は全員バイトだ。代わりを雇っていないので、休みは日曜日だけだし、風邪とか何かで欠勤されるとかなり困ったことになったものだった。
私も12月中頃に風邪を引いたが、代わりがいないので、休むわけにはいかず、マスクをしながら無理して働いたものだった。販売店に働きに行っていると病院に行く時間も取れず、市販の風邪薬でしのいだものだった。

ただ、この動画の販売店は、規模が小さく扱ってる部数も少ないようだ。
私のところと違って、土日を休みにして、金曜に3日分作っているそうだが、その割にチラシの量が少ない。というか作業スペースも全然狭くて、私のところではこの状態だとお話にならない。

まず、机を設置している部分。ここで「たたき」をしているが、私の販売店では、ここもチラシ置き場に使っていた。
じゃあどこで「たたき」をしているのかというと、手前にも机が置いてあって、そこで仕事をやっていた。

みんな素手でやっているが、これはかなり危険だ。
なぜなら、チラシの端は切れ味が良く、手を切ったりする。
私のところでは、必ず滑り止め付きの軍手をはいて作業していた。毎日同じ軍手を使っていると消耗してすぐ使えなくなるので、会社に常備してあり、すぐ取り換えれるようにしてあった。
また、チラシのインクで服がよごれるのでエプロンも付けていた。

私のところだと、一種類のチラシだけでも、床にチラシを置いて、腰の高さまで積み上がる。それが毎日数十種類。

見ての通り、かなり地味な仕事だ。おまけにここは、大概の販売店だと、新聞の搬入出に使うので、屋内とはいえ、車庫のような場所で戸は薄く、夏は蒸して、冬は寒いというあまりいい環境の部屋ではない。
この作業を毎日延々2時間は最低続く。

この機械は動かすと近所への騒音問題にもなる。動画でもうるさい音が聞こえていたと思う。
私がいた販売店では、でかい道路に面していた場所だったので、周りが店ばかりで、近所迷惑を気にする必要はなかった。

何度か触れているが、私の販売店は、個人経営だったものを社長が引退して別会社に売り渡したもので、しかし、全部を売り渡したのではなく、販売店の権利だけを売った。
土地と事務所は、立地が良いということで売らなかった。だから、買い取った別会社は新たな土地に新しく事務所を新築しなければならなかった。半年ちょっと新社屋が出来るまで旧事務所を間借りしていた。
だが、元社長は当然さっさと出ていって欲しかったらしく、しょっちゅう昼間、事務所にやってきて出てって欲しいという本音を愚痴っていた(何か別の用途に使う予定があったらしい)。
使っていた従業員に愛着も未練も何もなく、会社を経営することにほとほと嫌気がさしていたのだなあと、そんなやり取りを見ていてひとごとのように感じていた。

で、新しい土地を探して事務所を建てなければならなかったが、既に開拓されきった地域なので、難航していたようだ。
そして今度の事務所は住宅地のど真ん中に作られた。私は移転する前に会社を去ったのでわからないが、あの折り込みチラシの機械の騒音問題には頭を悩まされたのではないかと思う。

●押し紙や不正行為について

新聞販売店と切っても切れない問題が、押し紙行為である。
インターネットが普及してきた2000年以降に発覚した、販売部数の水増し行為のことだ。

新聞社の主な販売経路は、各地にある新聞販売店だ。この新聞販売店は本社とは無関係の会社で、販売店は個別に新聞社と販売契約を結んで、新聞社から印刷された新聞が毎日届けられる。
いわゆる、新聞の卸問屋みたいなものだ。

この新聞を販売店に出荷するとき、本来契約している部数より多く出荷すれば、それだけ販売部数を多くアピールできて会社としては好都合となる。
だがここで問題が発生する。通常の問屋や小売だと、いくつ売れるかは未確定なので、人気商品であればたくさん仕入れようとするし、これに反して市場の期待通りに売れなければ、余ってしまうことになる。
しかし新聞販売店の場合、基本的に契約販売なので、一日にどれだけ必要かが確定している。確かに店に来れば新聞を買ったり出来るが、一般的でない。
契約部数より予備として少し多めに販売店に渡すことはあるが、明らかに実売部数と比べかけ離れた部数を販売店に意図して多く出荷する。これが押し紙行為と呼ばれるものだ。

新聞社も販売店も見かけの販売部数を増やすことでメリットが発生する。新聞社は言うまでもなく業績と直結しているし、販売店の場合は折り込みチラシを実際より多く受注できて、その分増収が見込める。

だが。余った行き場のない新聞やチラシはどうなってしまうのだろうか?

それは当然、捨てられる。目立たないように梱包して、古紙回収業者に持って行ってもらうのだ。

私のいた新聞販売店ではどうだったのかというと、いたってクリーンな販売店だった。親会社がかなり景気のいい会社だったからだ。

しかし、不正行為が全くなかったわけではない。
新聞販売店では、地域によって親会社以外の新聞を取り扱ったりする。私のいた販売店では地方紙を主体としていたが、専門の販売店を持てない全国紙から要請があって取り扱っていた。

この全国紙を売るよりも、地方紙の売り上げをあげたほうがメリットがあるのは言うまでもない。

某全国紙から、販促のチラシなどが送られてくることがあった。
それを、新しく来た所長はこう言い放ったのだ。

「これ、捨てといて。ウチの部数減ったら困るから」

そうして、某全国紙から書面で販促の要望があって送られてきた沢山のチラシの束は、人目につかない古紙置き場に直行したのだった。
買い取られる前から販売店にいた古株の社員の一人は所長に聞こえないようにこうつぶやいていた。

「ホント器のちっちゃい所長だわ。これ読んでウチの新聞も読むきっかけになるかもしれないのに」

器が小さいどうこうというよりも、信用問題に関わる不正行為ではないのだろうか?と私は思った。

また、一時期ウィキペディアに載っていたものの、現在は荒らし行為として消去されているが、販売店の受け持ち区域内にある派出所へ新聞を無料で配達しているという行為が事実かどうかという話を暴露する。

私は直接そのやりとりを見ているわけではないが、古株の社員にこのことについて聞いたことがある。

それを聞くと、その人はこう答えていた。

「俺たちがそうすること(無料で新聞を渡すこと)で、交通違反を見逃してくれるんだから、持ちつ持たれつなんだよ」

これが意味することはなんなのか?を考えてみて欲しい。もう一度書くが、私は直接無料で派出所に新聞を献上している証拠を半年間販売店にいたが一度も見たことはない。

ちなみに、仕事中に「シートベルトをしてない」(頻繁に乗り降りするので面倒くさかったのだ)と警察に捕まったことがあるが、新聞販売店従業員であることを伝えても、見逃してなんかくれなかった。

●ホラー映画のワンシーンのような深夜の病院

私は朝刊と夕刊の配達をしていたが、バイトの配達員にまかせられないということで、とある病院にも毎日2回配達にまわっていた。
ただ受付にとっている新聞を受け渡しに行けばよいだけなのだが、一時期、入院患者が朝刊だけ新聞を取りたいと申し込みに来て、直接その人の病室に毎朝届けに行っていたことがあった。

朝とはいえ、冬なので朝の6時前でも外は真っ暗である。
稼動していればエレベーター、使えないなら階段で、病室へ向かう。

ナースステーション以外は消灯時間なので、電気は消されており暗がりの廊下を僅かに漏れる外からの明かりを頼りに移動する。
途中で通る病室からは、深夜にも関わらず「うぅ~」「あぁ~」といううめき声が聞こえてきていた。

「いったいどんな病人を抱えているんだ…」

私は毎日、ここの病院に来るたびに戦慄したものだった。

そんなに広い病院でもないし、結構看護婦さんがウロウロしているので、恐怖に打ちひしがれるほどではないのだが、一つ間違って真っ暗闇の病室に迷いこんでしまうと、抜け出せなくなってしまいそうな気持ち悪さを放っていた。

「あそこ怖いよなあ~!どんな年寄りを隔離してんだよ!」

新会社の営業社員の人も私に愚痴っていた。私が休みの日曜日に配りに行くことがあるためだ。

●ポンコツ印刷機

私の仕事の一つに、販売店からのお知らせを印刷機で刷る仕事もあった。
チラシと一緒に入っていることがある、「悪徳勧誘業者にご注意!!」とか言う内容の単色のみすぼらしい内容の紙だ。

事務員の女が作ったらしい(誰がやっているのか私は見たことがない)、原本を印刷機にセットして大量に複製する。

印刷機自体は、コンビニとかにあるコピー機と似たようなものだ。
ただ、アレと違うのはインクがなくなったら自分で取り換えないといけないし、使い古した機械のせいか、やたらエラーが出ることだった。

業務用なので、沢山印刷することを想定してか、かなりの速さで印刷してくれるのは良いのだが、紙が良く詰まったり、印字が上手く出来てなかったり、設定して機械をまわしてても、
結局くっついて様子をみてやらないと危なっかしくて仕方がないという困った機械だった。

紙が詰まったりすると、中を開けて取り出したりしなければならないのだが、この時気を付けてないと、手や服に簡単に取れないインクが付く可能性があり、厄介な仕事であった。

私が来る前は、事務員の女がやっていたようなのだが、私がやるようになってから、エラーが増えただの、

「安西爆弾くんが壊したー!!」

などと、余計な操作はしてないのに、機械の不調がいつの間にか全部私のせいにされていて、むかついたものだった。

前回のエントリで、新聞販売店のエントリは今回が最後という話だったが、「新聞販売店の従業員の紹介」の話題は、分けたほうが良いと思ったので、エントリを分割して更新することにする。
ただでさえ、長文で読む気の起きないブログだし、これまで断片的に登場してきた従業員について、ここでまとめるより、別エントリを作成したほうが分かりやすいと思ったのだ。
「口ばっかりでかくて使えないいじめられている人」の話もそこで書くつもりだ。
次回のエントリは間をおかず更新する予定だ。

年末進行&大量のチラシと戦う新聞販売店

私が新聞販売店で働いていた時期は10月~翌年3月末までであった。
この時期に体験した特徴的な出来事を今回も紹介していく。

●恐怖の年末進行

年末進行は編集業で使われる用語で、新聞販売店勤務には関係なさそうな言葉だが、大いにある。
本社の新聞社が編集業なので、特別体制が取られるのだ。

そもそも年末進行を取る理由は、新聞業界にはない。
なぜなら、新聞社は独自の販売ルートと印刷工場を持っているので、締切に追われる心配がないのだ。

新聞社が年末進行を取るのは、正月特別号のあの読みきれず持て余すだけの分厚い新聞の制作をするためだ。
新聞販売店もその影響を受けて、その特別号に対応するために通常業務と並行して新年特別号のバラバラに送られてくる新聞をチラシと同じ要領で一つ一つ挟めて新聞を組み立てていくため。

もうひとつは、関連会社が正月休みを確保するために年末進行を行う。

新聞は夕刊は年末年始休刊するが、朝刊は1月2日を除いて毎日発行される。
ここで何が問題になってくるのかというと、折り込みチラシだ。

送られてくる新聞をただ配るだけならどんなに楽なことか。
実際、折り込みチラシのない夕刊は、配達トラックが輸送してきたものをその場で梱包をといて、早くに来て待っている配達員へすぐさま手渡して配達に出てもらう。

朝刊はそうはいかない。
前日に作っておいた折り込みチラシを挟みこみ、配達員へ渡す。

この作業は配達員にさせる販売店のほうが多いかもしれないが、私のいた販売店は配達員も一人のお客として扱っていたので、極力こちらで出来る仕事はこちらでやっていた(新会社に変わってからは徐々に甘い体質を変えていたので、数年たった今はどうなったのか知らない)。

ポイントとなるのはこの折り込みチラシだ。
市内全域の折り込みチラシを管理している新聞社の子会社があって、販売店従業員は毎日、自店のチラシを午前中に取りに行く。
だが、この関連会社は正月休みをとるので、その間のチラシを先行して受け付ける。
で、12月下旬から当日の分と年末年始の折り込みを受け付けた分を順次販売店に受け取ってもらう。

通常一日一回行けばいいところを、向こうでは受け取った分をどんどん倉庫に置いていくので、邪魔になって困るってことで、夕方とかにまた、取りにこさせたりする。

ただでさえ週末みたいな特売日におあつらえ向きの時期はチラシの量が多いのに、正月という格好の時期ということで大量のチラシを先渡しされる。

販売店はチラシの山で溢れ、パニックに陥る。

そして、毎日一緒にチラシ折込をやっているバイトの連中も正月ぐらいは休みたがるので、現物は先に来ちゃってるから、出来る作業は年末のうちに終わらせておこうとして、12月下旬は異常に忙しくなるのだ。

まとめると。

普段は、次の日の朝刊の折り込みチラシを作るだけのところが、
12月下旬になると、年末年始の分で確定した折り込みチラシが先渡しされる。
それは、販売店で前日まで保管しておいても良いのだが、バイトに年末年始の休みを与えるために、チラシが全部揃った日の分は、溜めずにどんどん機械に入れて折り込みの作業を終わらせておく。
つまり、普段の仕事に加えて、数日後のチラシ折込をやるので、連日作業量が倍増するのだ。

2日分のチラシ折込はなにもこの時期だけやっているわけではない。
日曜日を休みにするために、毎週土曜日は、次の日の日曜の朝刊と、月曜の分を一気にやっている。
だが、意外に思われるだろうが日曜日のチラシは意外と少なく、言うまでもなく月曜のチラシはかなり少ないため、すぐ終わる(私のところでは折り込みチラシが3.4枚という薄っぺらさだ)。
また、祝日で連休だったりすると、その日数分先に作ってしまうが、正月のように毎日膨大なチラシが送られてくることは実は無い。
ただ、私はその季節が来る前にやめてしまったが、ゴールデンウィークなんかは連休が何日も続いて大変だったんじゃないかと思う。

一日にこなす日数が多いから、それに必ずしも比例して忙しくなるのではなく、その時期にどれだけチラシが来るかというのが作業量に関わってくる。

極端な話だが、4日分をいっぺんに作るって話になっても、その4日分のチラシが3,4枚のものばかりだったら、すぐ終わる。
私のいた販売店のように住宅地と店がいいバランスで密集しているところだと、週末には一日のチラシが25枚から30枚程度になる。
正月や春分の日など繁忙期は、30枚を超える分厚さになる。

反対に駅前などを担当する販売店では、広告効果が見込めないので、週末だろうがチラシは全然入ってこない。
これを知ったのは、私が去年市役所の臨時職員をやったときにわかったことだった。
恐らく、市役所に新聞配達している販売店はチラシ折込のバイトを雇ってないんじゃないかと思う。
それぐらい少ない。わざわざ雇う必要もない仕事量だ。

私も当時があまりに忙しすぎてもう覚えていないのだが、12月24日ぐらいから、年末進行の話が来る。

…と、実はここまで書いて、筆が止まってしまった。

出来事の時系列がどうしても綺麗につながらない。断片的には覚えているのだが。

確か、12月30日まではバイトの人達にも来てもらってチラシ折込の作業をしてもらってた記憶はある。 手が空いてきたら、営業社員も総出で手伝っていた。
問題なのは、いつ正月版の新聞を作って配達員に持っていったかだった。

仕事量が多いが、私は相変わらず朝の電話番があるので、出勤時間はいつも通り正午であった(向こうは出来るなら早く来て欲しかったのだろうが)。

しかしこの日は、一日中雪が凄くて、既に正月休みに入っていた親父は、朝から除雪に追われていた。
私は9:00頃に一度帰宅するが、3時間後に再び仕事なので、いつも仮眠時間に当てていた。
9:00に帰ると、既に親父がせっせと除雪していたが、私にも事情があるので、逃げるように家に入ろうとした。

すると…

「少しは家のことも手伝えや!!バカ息子が!!」

すごい剣幕で激しく怒鳴られ、赤いママさんダンプで思い切り頭を殴られた。激痛が頭から足の爪先まで響き渡った。

この日は半端ない降雪量だったので、そりゃ私も手伝ってやりたい気持ちはあるものの、仕事も忙しく時間が取れないのでどうしようもなかったのだ。

そして、強制的に除雪を手伝わされ、余った時間をとにかく寝ようと思ったら、すぐさま親父が私の部屋に入りこう言うのだ。

「おい、屋根の雪落とすぞ。手伝え」

普段の親父は、こんなに真面目ではない。自分が長期休暇に入ったから張り切っているだけの気分屋だ。
私が家のことを出来るのは、1日の仕事が全部終わった夜でないと無理だ。

そう思っていたが、親父のペースに合わせなければまた殴られるので仕方なくやることになった。

終わるのがちょうど仕事に行くタイミングならまだ良かったのだが、11時前に終わってしまい、変に空き時間が出来てしまった。
疲労困憊だった私は、睡魔に負けてつい寝てしまうのだった。

再び目を覚ますと、余裕で昼を超えていた。時計を見ると12:15だった。
完全に遅刻である。
急いで販売店へ行く。さいわいこちらでは雷は落ちなかったが、「だらしないやつだな…」という沈黙のまなざしが痛いほど突き刺さっているのが鈍い私でもわかった。

年末進行の忙しさをねぎらうように、この時、所長が近所の美味しくないラーメン屋から丼ものを出前してくれていたが、私は寝坊したせいで食べそこねてしまった。

この日は仕事が中々進まず夜19時を回っても終わらず、家に帰れたのは20時過ぎだった。
途中で晩ご飯をコンビニに買いに走ったり、大変な一日だった。

31日は何をしていたかというと、元旦特別号の新聞を事務員の女2人を除く全従業員が総出で作っていた。手作業で4500部も作る骨の折れる作業だった。
この日は夕刊配達で仕事が中断することもなく、人海戦術のおかげもあって18時前には全部の仕事が終わって帰れたはずであった。

31日は、昼の出勤が一時間前倒しになり、11時から来て欲しいと言われた。

なんで前倒しになったのかというと、元旦特別号はとても分厚くかさばるため、31日のできるだけ早いうちに作って梱包して、全朝刊配達員の家に予め渡しておく必要があり、夕方には終わらせたい仕事なのだった。

こうして慌ただしい新聞販売店の年末は終わりを告げようとしていた。
が!
ここで一筋縄で終わらないのが新聞販売店がブラック企業と言われるゆえんである。

1日にも新聞が発行されるので、元旦の朝刊の搬入をするために誰かが出勤しなければならない。
当然元旦の朝まで働きたくないわけで、立候補するものはおらず、誰が出るかでもめていた。

新聞販売店の勤務形態は私以外は週休2日である。そのかわり、曜日は不定で勤務時間も早番、中番、遅番の3つあり、バラバラだ(ただし事務員の女2人のみ日曜は絶対休みで勤務時間も日勤と決まっていた)。
私の場合は、週休1日だが勤務時間も固定で、日曜、祝日の休みが保証されていた。1日は祝日扱いで休みになると思い込んでいた。

しかし、あまりに決まらないので、古株の営業社員が唐突にこう言い出したのだ。

「あれ?安西爆弾くんは?」

困ったときの契約社員というわけだ。とっさの出来事に私はあっけに取られた。

結局あまりに理不尽ということで私は候補から外れ、営業社員たちでじゃんけんをして出勤する人を決めていた。

私は正月に働きたくないという気持ちより、私よりはるかに年上の人達が、揃いもそろって休みの日に仕事したくないと、まるで子供みたいな態度をとっていることに呆れていた。

新聞は、夕刊については年末年始休刊するが、朝刊は1月2日以外は毎日発行される。
そのため、新聞販売店が完全に休みになるのは2日だけで、1日、3日は朝刊の搬入作業があり、4日からはそれに加え、5日分のチラシ折込と、夕刊もくるので、平常運転となる。

つまり、新聞販売店には、正月だろうが長期休暇など存在しないのだ。

●最後の慰労会

3月に入り、私は仕事をやめることが決まったが、油断していた私を狙っていたかのように次の魔物が襲いかかってきた。

3月第一週の日曜日に、配達員の慰労会がひらかれることになっていた。

この日は、慰労会の準備で忙しいので、普段は日曜で休みだけど、早朝の農家の新聞配達とクレーム処理を平日通りやってくれと言う話になった。
いつもなら8:30で女の事務員が出勤してくるから、その時間で帰れるが、その日は、11時から始まる慰労会にも出席しなくてはならないので、準備が一段落する10時くらいに会社に迎えに行くから待機しているように言われた。

この仕事の何が辛いっていうと、電話番だから、することがなくて眠くなってくるのである。いつもなら、何かしら仕事があったりするのだが、休日出勤ということもあり、やることが何もなかった。
とにかく、睡魔との戦いである。あいつらが絶対に来ないと確信できる時間、朝の9時ぐらいまで、事務室に置いてある映りが悪くボロいブラウン管のテレビをつけて、ひたすら耐えていた。
なぜ、テレビ一つ付けるだけでもコソコソしているのかというと、そうしないと、他の社員がサボってるだの言いだし、うるさいのだ(特に新会社の社員)。

こうして苦労の末、11時の慰労会を迎えた。慰労会では私の仕事はなかった。せいぜい後片付けぐらい。
私はひたすら肉を食べ、酒を飲みまくった。嫌なことを忘れたかったのだ。
それに、仕事仲間で一緒に飲みたいと思える人なんていなかった。はっきり書けば、目の前で同じちゃぶ台を囲んでいるヤツですら、仕事以外では顔を合わせたいと思わない。
飲み会といっても、私は楽しくなかった。
元々、酒はそんなに飲めないのに浴びるように飲み、具合が悪くなってトイレで吐いてしまったぐらい飲んだ。

慰労会は13時過ぎに終わり、家についたのは14時前。ちなみに、次の日も仕事である。振替休日など当然ながら無い。
この慰労会があったせいで、私は2週間連続出勤する羽目になった。

2週間目に入ると疲労が溜まっていたのか、足が重くなり歩くのすら辛くなっていた。事務補助という職業といっても、大半は寒い車庫みたいな部屋でチラシ折込という名の立ち仕事だ。足が棒になっていた。
昼の出勤は30分かけて徒歩で通っていたのだが、2週間目の終わりごろになると、動かそうと思っても思ったように足が前に出なくなるほどで、これは休まないとヤバいと自覚症状が出るぐらい危なかった。
しかし、私は足を止めて休んでいるわけにはいかなかった。

●お彼岸の伏兵

慰労会が終わっても、間髪入れず次の魔物がやってきた。

3月19日のことだった。
次の日が春分の日で祝日なので、その日は20日、21日の2日分のチラシを作ることになっていた。
だから、多少の忙しさは予想していたが、この日はまさに想定外のチラシの山が私を待ち受けていた。

2日分だろうと、特別な時期を除いて、市内のチラシを保管している(関連会社の)倉庫へは昼前に一度だけ取りに行けば事足りていた(ワゴン車2台で運ぶ)。
だが、この日は違った。20日だけでも元旦をはるかに超えるチラシがあって、暇を見て何度も往復して運んだが、全部持ってこれたのが15時前になった。

話が変わるが、普段のチラシの量について少し解説しておこう。
チラシは週明けが最も少なく、その後週末に向けて徐々に増え始める。ピークはいつか!?という話になると、これが意外に思われるかもしれないが、金、土が一番多く、日曜日は実は意外と少ない。
で、このピーク時でも、多くても20枚~25枚程度で、30枚を超えることはまずない。

私のいたところは、住宅地と大手量販店、スーパー、パチンコ屋がいい具合に密集していたので、集客効果を見込めるということで、チラシは多い方だった。新会社が高額な金を出して買い取るぐらい立地が良かったわけだ。
特にパチンコ屋が市内でも最も密集しているせいかチラシも最も多く、毎日少なくても2,3枚は紛れ込んでいるぐらいだった。ぶっちゃけ、パチンコ屋に支えられているといっても過言ではない割合だった。
よくもまあ毎日毎日、カラー印刷でいつも違う内容のチラシを、これだけ出せるなぁと、この景気の悪い時代にどこからその余裕があるのか不思議に思っていた。

どの販売店もこんな感じではない。極端な例になるが、私が市役所で働いていた頃、市役所を含む駅前とかを主な担当区域にもっているただろう販売店は、週末だろうが毎日、市役所に配達される新聞の折り込みチラシは薄っぺらくお寒い状態だった。
というのも、駅前になると、住宅地がなく会社関係ばかりになる。そうなると、集客効果が薄いので、そういった販売店にはチラシを出さない。
まあ、市役所で私は毎日来る新聞を管理してたが、チラシはすぐに全部抜き取ってダンボール箱に捨てるよう言われていたから、その読みは全くもって当たっているが。あんな扱いされている会社系にまでわざわざ広告料は使わない。
あれだけチラシが薄いと、チラシ折込のバイトなんか雇ってないと思う。

そうなると、そんなところを受け持っていいことがないじゃないかと思うかもしれないが、ここからは私の想像だがまんざらでもないと思う。
多分、営業が楽で、堅調な経営ができるのだと思う。チラシが少ないから大幅な増収は期待できないかもしれないが、契約は取りやすくやめにくい。
特に市役所なんか、そこだけで地方紙、全国紙、日経、など全部含めると10部~20部以上は契約しているはず。おまけに、朝刊しか取らないところが増えている中、資料と称してしっかり夕刊まで無条件に取る。
つまり、人件費を削れば、官庁関係を抱え込んでいるこういう販売店は安定性から言えば最強とさえ思えた。実際この販売店で働いたことどころか、その店を見たことすらないので、これ以上根拠のない想像はやめておこう。
この販売店でも、それなりに苦労はあるのだろう。

話を少し本題に戻すが、この春分の日だけで、確かチラシの枚数は38枚…だった気がする。35枚は確実に超えていた。元旦のチラシもかなりの量だったが、確か32枚だったはずだ。30枚は超えていたのは覚えている。

また、ここで解説を入れなければならない。
枚数が増えるとなぜ時間がかかるのか?という点について説明する必要がある。

折り込みチラシの作り方だが、基本的には特殊な機械に入れて行う。

普通は一回機械にチラシをセットして、作動し続ければ、勝手に機械がチラシ折込をしてくれるので、きちんと折り込まれているかチェックするだけで終わる。だから、大体1時間30分~2時間ほどで終わる。
チラシ枚数が極端に少ない3,4枚とかの日ならば1時間もかからずに終わる。

しかし、次に述べるような条件が重なることで、爆発的に時間が延びていくのである。

規格外のチラシが来た場合(チラシがでかすぎて機械に入らないなど。NTTのフレッツ光の広告が毎度毎度馬鹿みたいに分厚くいつも苦労させられた)、手作業で直接やらなければならなくなることもある。他にも紙質が機械と相性が合わずエラーを頻発させる場合も手作業になる。
もう一つ、機械に一度に入れられない量、チラシが沢山来てしまった場合も、通常は1回まわせば終わるところを、2回まわさなければならない。すると、時間も倍かかるというわけだ。

確か、ウチの機械に一度にセット出来る枚数が18枚~24枚ぐらいだった覚えがある。

というのも、実は私は契約社員ということもあり、この機械の使い方をマスターしなければならない立場だったのだが、どうにもアナログ的な扱いを求められるこの機械が苦手で、結局やめるまでずっと昔から働いていたバイト連中にまかせきりだったので詳しくないのだ。
途中少し触れたが、機械の使い方についてはすぐ理解できた。だが、チラシの紙質だとか分厚さを理解して、機械との相性を考える職人的な感覚を要求されるところがどうしても駄目だった。
何度もやって慣れてくれと言われたが、機械はどんどんセットしたチラシを中に吸い込んでいってチラシを折り込んでいくため、じっくり落ち着いてやることが出来なかった。
特に紙質だの機械の機嫌みたいな分かりにくいことまで考えてやってられず、内心「やってられるかこんなの!!」とさじを投げていた。ただでさえ、毎日の仕事こなすだけでも一日が終わるから、そんな勉強している暇すら無く、どうしろと言うのだ!!という状態だった。

大体、新会社の社員は、チラシ折込自体バイトにまかせきりで、こんな機会の操縦したことないようだった。

そんなわけで、この日は3回機械をまわさなければならないことが判明した。通常時でも、週末のチラシ折り込みで2回まわさなければならないことは良くあるが、2回目は入れるチラシも少ないので、1回目ほど時間はかからないのだった。
しかし、今回は事情が違った。まず、チラシが中々揃わないから作業ができない、でも、始まったら始まったで、今度はチラシが多すぎて、いつ仕事が終わるのかが見えない途方も無い状況。

全部のチラシを運んできたとき、販売店の中は、年末年始以来のチラシの山でパニックに陥っていた。
あの時は数日分のチラシだったが、この日は、わずか一日、二日のチラシだけで、この量である。

仕方が無いので、事務員の女を除いた全従業員で総出でチラシ折込を手伝っていたが、それでも人手が足りなかった。

そこで、別の販売店から応援を呼ぶことになった。
新聞販売店は基本的に個人経営だが、私のいた販売店は社長が引退してしまい、本社の100%子会社の販売店を管理する会社に買い取られることになった(前にも書いたが、100%子会社であることは伏せており、何か都合でも悪いのかこういった会社の存在自体隠している)。
他にも市内で同じように買い取られた販売店があり、内部的には同じ系列の販売店になるので、こういった人事交流が出来るわけだ。

夕刊の搬出が終わって手のあいたちょうど夕方、別の販売店からゾロゾロと営業社員が5,6人手伝いにやってきた。

第一声はこうだった。

「なんで、俺らがこっちのチラシ折込やらねーとなんねぇの?(笑)」

柄の悪そうな連中だった。スーツ姿だが、どいつもヤクザみたいな雰囲気を醸し出していた。
勿論、本物のヤクザではないので、こんなナリをしていても一応会社員なので、仕事自体はきちっとやる。

そして、こいつらが来た瞬間から、所長の態度と喋り方が一変したのを私は見逃さなかった。

「おい、口ばっかりでかくて使えないあいつどうなった?」

所長は、別の販売店の営業社員に話しかけ、勝手に盛り上がりだした。

実はこの所長、ここに来る前は、今手伝いに来ている、このヤクザ連中がいる販売店の所長をやっていたのだ。というより、私がいた時点では兼任していた。
つまり、今いる販売店の社員よりも、顔見知りで付き合いの長い人達なわけで、普段は柄の悪い所を出さないように猫をかぶっていたのだ。私にとっては、やっと本性を現したな!という感じ。

話の内容が嫌でも聞こえてくる。どうやら新しく入ってきた社員をいじめているようだった。
この、“口ばっかりでかくて使えない人”についての話はそれだけで一つのエピソードになるので、次回のエントリに譲る。

この所長、見た目通り、やっぱり性格の悪いヤツだった。
というか、所長というよりも、ヤクザの組長といったほうがしっくり来る雰囲気だった。

私のいる販売店の従業員とは、住む世界から既に違うというか、空気が違いすぎて、とても交流など取れそうになかった。私の販売店の従業員と、ヤクザの販売店の従業員とでは、明らかに隔絶された空気を醸し出していた。
私はこの日の空気を味わって、ヤクザの集まりに会社を買収されたのだな…と悟った。本物のヤクザじゃなくて、ただ柄の悪い不良みたいなヤツらなだけであって、怖がる必要はないが、複雑な気分だった。

買収した会社から来た所長からしてみれば、出来ればこんなPC一つ使えない定年手前の年寄り連中なんかさっさとリストラして、息のかかった社員で早く固めたいのだろう。
だが、労働基準法にでも引っかかるからか、生殺しのような状況に追い込むしかなかったのだろう。そう、ちょうど今のように。

私はこの光景を目の当たりにして、会社を辞める決心をしたことに間違いがなかったのだと改めて確信した。

嫌な空気に包まれる一方、人海戦術で仕事の方は非常にはかどっていた。
18時を過ぎて、ヤクザ連中も営業の仕事があるのか、帰っていった。わずかな時間とはいえ、手伝ってもらったことで仕事の終わりがなんとか見えはじめていた。

19時前になって。
所長が気を利かせてくれて、近くのすき家で牛丼を私たちに買ってくれた。そのタイミングで、ご飯休憩を取ることになった。
どうせ沢山チラシ来たんだから、もっと豪華なモンおごってくれてもいいじゃないか…と思った。しかも牛丼といっても並だし。前はラーメン屋の出前だったのに、どんどんケチになっている。

20日の分のチラシ折込が終わったのは、21時を過ぎた頃だった。
これ以外に、祝日明けの21日のチラシも作らなければならない。疲れた身体にむち打って仕事を続ける。

しかし21日のチラシは非常に少なく、1時間もかからずに終わった。

チラシ折込の仕事が終わらないと、他の従業員も帰れないらしく、私とバイト連中が必死に働いている頃、事務室でコーヒーを飲んでくつろいだり、PCでネットをやったりして終わるのを待っていた。
忙しさもピークを過ぎると、頭数だけたくさんいてもすることがないので、意味が無いのだ。

そうして、やっとこの日やるべき仕事が終わった。時計は22時をまわっていた。
会社の電気を消し、シャッターを閉め施錠して、みんな家路についた。外はもう真っ暗闇で、車もあまり走っていなかった。

バイト連中は嫌がっていたが、私はこの忙しさを半ば楽しんでいた。

というのも、普段は出社時間も帰宅時間も仕事もバラバラで、一緒に仕事しているのに、心ここにあらずといった感じで、人間関係が希薄だった。おまけにみんな性格も最悪で、責任をなすりつけあったり仕事を押し付けあったりばっかりだ。

しかし、否が応にもみんな一致団結して協力しなければならない状況が訪れたとき、こんな底辺のどうしようもない集まりでもみんな必死になって協力して仕事を片付ける。
普通会社とはこうあるべきではないのだろうか!?というより、普通の会社はこんな一体感のなかで仕事をしているのではないだろうか!?
普段が腐っているからこそ、ブラック企業と言われるのではないだろうか!?こんなひどい会社にいたが、この一瞬だけはまっとうな会社になれた感じがした。
いつもこれだけみんなが協力的だったら、どれだけ居心地の良い販売店になっただろうか!?そんなことを思ったりした。

この日の私は疲れきっていて身も心もガタガタだったが、いつもとやっている仕事は同じだが、どこか心地よい汗をかいたようだった。いつもは無い妙な高揚感すら味わっていた。

普段は、八つ当たりされたり愚痴られたり、ちょっとしたことですぐ怒ったり、ムカつくヤツらばかりだったが、この日のこの瞬間だけは、全てが許せた。

だが、数日後の3月25日、私は会社を去った。

(あとがき)
新聞販売店のエントリは、たった半年しかいなかったこともあって、話題のストックが本当に無いため、次回が本当に最後の更新になる。
話題が完了したカテゴリには、最後に目次のエントリを作って締めて、(終)や(完)、★といった印をつけようかと思っている。

ちなみに、他のエントリで書いたのだが、このエントリを執筆中、FC2管理画面の不具合に遭遇し、5時間以上かけて書いた文章があっけなく消失した。
このせいで、中盤以降の文章の書き直しを余儀なくされた。書き出しから序盤辺りまでは前日に書いていて、その分は残っていたが、そこまで書くだけでも2時間近くかかっており、
今回のエントリを書き上げるための作業時間は実に10時間を超える大作になってしまった。普段のエントリでも5,6時間以上かけているものはザラにあるが、今回はそのなかでも群を抜いて手間がかかっている。

惜しむらくは、消失した文書のほうが完成度が遥かに高かったことだった。
それは、書き上げた瞬間に訪れる、物書きをしている人間なら誰でも味わう、独特の高揚感のせいと思われるかもしれないが、少なくとも今回書きなおした再現文書よりも、消失した文章のほうがまとまっていて面白く書けていた。

昔の出来事を文章に起こすという作業自体、思いの外骨の折れる行為だというのは、実際やってみてわかったことだが、ロストした文章をサルベージするのはそれ以上に大変であった(特に精神的にキツイ)。

新聞販売店での失敗談の数々

気づいてなかったのだが、またWeb拍手をいただいていた。
こんなブログ見てるの、存在を教えたYさんぐらいしかいないと思うからYさんが拍手押してくれてるのかもしれないが、そうじゃなかったとしたら、ありがとうございます。

私は他にゲームレビューのHPをやっていて、長く更新しているからそれなりにアクセスはあるのだが、あそこは更新しても反応が何一つ無いからやり甲斐が全くない。
見てる人はいないか、もしくは、少ないかもしれないが、こうやって何時間もかけて書いた記事に対してちゃんと反響がかえってくるというのは、それだけでモチベーション向上につながってくる。

人がいないのなら、ここに私のゲームHPを紹介して、何がいけなかったのか、余所にどういった形でパクられてると思っているのか等本音を赤裸々にさらしていきたいと思っているが、そこまでやるとさすがにマズイだろうか。

でも、私は年齢の割に働いてないので、仕事の話、特に新聞販売店時代の話のストックはもう残っていない。
今回のエントリで大体書き終えると思う。
13年も働いてたらなにかあるだろうと思うかもしれないが、思い返してみても文章に起こすほどの出来事はやっぱり無いのだった。

今回は私が新聞販売店で事務補助の契約社員として働いていた頃のトラブルや失敗談をいくつかピックアップしていく。
といっても半年しかいなかったので、大した出来事は無い。

●恐怖!白銀の農道

私の販売店で割り当たっていた区画には、農業用地と店が密集しているショッピングモールが含まれていた。
その特殊性から、そこだけはアルバイトには任せられず、社員が直々に朝夕刊を配達していた。

契約社員として入社してからは、私がその仕事をやることになった。

農家に新聞を配りに行くのだが、たった25件しかないのに、そのほとんどが当然ながら畑だ。
一件一件が異様に離れていて、車に乗って回るのだがここを配るだけでも1時間近くかかっていた。
雪が積もった冬になると、除雪車が入らないような田舎道を走るので、さらにかかる。

通常は隣にあるショッピングモールとセットで配るのだが、冬場は時間がかかりすぎるため、朝刊のみ2人で分担して配達していた。

ショッピングモールは、私は夕刊だけ配っていた。
新聞ポストがあっても、飲食店などでは直接中に入って手渡すところも多くて面倒くさかった。

ショッピングモール(区画)の中にあったゴルフセンターにも配達に寄っていた。
正確にはその建物の中にある雑誌の編集社に新聞を配っていたのだが。

平日の昼間だというのに、毎日優雅にゴルフを打ちに来ている人達が多くて羨ましかったものだ。
一度だけついてきたことがある新会社の社員もそんな金持ち連中を見て愚痴っていた。

大変だったのは、農家の新聞配達だった。
ちょうど冬に働いていたので、雪に悩まされることになる。除雪車が入らなかったり、家によってはちゃんと除雪してくれてなかったり、
早朝なので、夜中に雪が降り積もるとそもそも家への進入が困難となり、とたんに暗い中一人雪中行軍させられるのだった。

中でも最悪だったのが、車一台やっと通れるスペースしか無い砂利道、おまけに両側は畑、道を踏み外すとその畑に転落、そのくせ事故防止の柵一つついていない道だった。

夏場はまだいい。いくら暗くてもヘッドライトでかろうじて状況がわかるからだ。
これが、雪の降り始めの頃で、周りは一面真っ白の雪化粧された日にゃ、「綺麗だ」なんて見とれてる暇なぞ無い。
どこまでが道でどこからが畑になっているのかが分からない。暗いから尚更だ。

さらにたちの悪いことに、配達する家は、この砂利道から途中で右折して文字通り獣道を通った先にあり、この曲る場所がとにかく目印一つなく分かりづらかった。

blog.jpg
そしてペイントで5分足らずで作成した上の図のように、雪が降りだして日の浅い某日、距離感がわからず曲がるタイミングを間違えて畑に落下させた。

しかもだ、この日はちょうど新しく転勤してきた新会社の営業社員に業務を教えるために同乗していたので、かなり気まずくなったものだった。

2人とも携帯を持たず外出したので、連絡手段がなく、近くの住宅地まで走っていき(ここから走っても5分かかる距離があった)、朝6時前からインターホンを鳴らし、電話を貸してくれる家を探すことになった。
幸い一件目で当たりを引いたので、探し回るハメにはならなかったのが救いだった。

ちなみに、この一ヵ月半後に、また同じ場所に車を落としている。吹雪でいつもより視界が悪かったのだ。
また、単純に毎日忙しく、ここで働いていた頃は寝る時間すら満足に取れず、常に眠気がひどくて生ける屍のような状態だったのもある。

その時は会社の安いモノクロ液晶のボロ携帯を持って出ていたので連絡手段に困ることはなかった。

戻ってきてからは勿論、私は厄介者の冷たい目線を受け、まるで公開処刑されているかのようだった。

●多発した交通事故

事務補助の立場だが、車を使う仕事が多かった。
過酷なスケジュールのせいで、さっきも触れたが、毎日寝不足で注意力が散漫になっていた。
そのために、不注意からくるケアレスミスがとにかく多かった。

中で仕事するようなときのミスなら重大な事故になることはないが、車を使っているときは身の危険にさらされて「命がヤバい」状態に陥ったことが何度もある。
今こうして生きているからなんてことないと思われるかもしれないが、割と危険な橋を何度も私は渡っている。

以前家の車で通勤時にでかい交通事故を起こした話を書いたが、あそこまで大きな事故を起こしたことはないが、危ない単独事故なら何度かやらかしている。

・その1

早朝のクレーム処理をしている時だった。
7時前。新聞がきてないと言うありえない苦情を片付けるため、私は客の家へ車で向かうことになった。

雪が積もり始めた時期で、一番冷え込む早朝、道路のコンディションは最悪だった。
かつ、通勤ラッシュと重なり、道路は渋滞していた。

渋滞していたからそんなに速度を出していなかったので、運転しながら配達地図を見てこれから行く家を確認していたその時だった。

前の車がブレーキを踏んだので、私も合わせるようにブレーキを踏んで停車しようとした。

すると、車は派手にスリップし、中央分離帯にぶつかり半回転。
二車線の道路を完全に塞ぐ格好で止まった。

後ろにも沢山車がいたのだが、道路がアイスバーンで滑りやすかったため慎重に運転していたらしく、突如スピンした私の車に接触することはなかった。

もしあの時不運にも玉突き事故が起こったら、新聞に載るぐらい大きな事故になって私は即座に首になっていたことだろう。

今思えば、この車は古くてきちんとメンテをしてなかったんじゃないかと思う。
他にも事故りかけたことがあるが、使っていた車はたいていこの車が多かった。

・その2

同じく早朝の未配の家に新聞を届けに行く時だった。
朝の電話番は一人で全部まかなわなければならず、その日はちょっと立てこんでおり忙しかった。

気分的に焦っていたときに事故は起こった。

目的の家の前に止まり、新聞を持って車を降りた。

すると、降りた車が勝手に動き出しているではないか。

そうなのだ。
ギアをDにいれたまま降りてしまったのだ。

私は焦った。

走って動いている車に飛びつきブレーキペダルを踏んだ。

早朝で誰もいなかったことが幸いし、周りは人っ子ひとりおらず人身事故には発展しなかったが、かなり焦った出来事だった。

・その3

最初に紹介した例の農道での出来事。車一台分しか通れない、あの忌々しい道と言えない砂利道のことだ。

冬になり雪が積もると、畑に落ちる危険はなくなるが路肩は雪の山になり、道幅はさらに狭くなる。

ある日の夕方のことだった。

いつも通りその厄介な砂利道に入ると、ちょうど対向車が向かってきていた。

「おいおい、ここ一台ずつしか通れないんだが…」

ところが向こうは空気を読まずどんどんこちらに向かって走ってくる。

「間に家があるんだからそこの道幅広いところで止まれよ」

心のなかでそう念じたが無駄だった。
私もかなり砂利道に入ってしまっていた。バックするわけにもいかなくなっていた。

しょうがないのでめいっぱい道の端に寄って、対向車をやり過ごそうとした。

ズボッ

路肩は雪の山だが柔らかく、簡単に車は埋まってくれた。
アクセルをふかすが出られない。降りて人力で持ち上げようとしてみたが無謀なことだった。

問題の対向車は素知らぬ顔で広い道路へと出て行った。

クソッ!!なんで私がいつもいつも貧乏くじを引かなくてはならないんだッ!!

会社の携帯は持っていたが、いつもトラブルばかり起こしていて、なんとなく電話したくなかった。

そうやって15分くらい、この問題を放っておいたらなんとかならないかな…と半ばやる気をなくしていた。

その時既に仕事をやめると言った後だったので、出来る限り面倒は避けたかったのだ。

すると、近所に住んでいる主婦が車でちょうど通りかかって、声をかけてくれた。

「どうしたんですか?」

事の次第をゆっくり丁寧に話すと、その人は車の救出に手伝ってくれると言う。

そのおばさんは近くにある自分の家に一端戻って、おじを連れてきて、ワイヤーをつないで車を引っ張り出してくれた。

私は感謝しきりだった。

販売店にいる間は忙しくて出来ないが、やめたらお礼にお菓子を持って行こうとその時は本気で思った。
(その時は本気で思っただけで実際は行動に起こさなかったのだが)

そうして危機を思わぬ形でまぬがれた私だが、普段より帰りの遅い私について販売店ではちょっとした問題になっていた。

私はまた車を畑に落としたとは言えなかったので、こう言い訳した。

「どうしても眠くなって、このまま運転してると危ないと思って、路肩に車を停めてちょっと休憩してたら寝てしまったみたいです」

この言い訳は完璧だと思っていた。
しかし、そんなわけはなく、私は所長の雷を全身に浴びた。

「おまえ!!わかっているのか!!仕事中だぞ!?」

説教で足止めを食らい、残りの仕事を片付けるのが遅くなってしまった。
事務所全体がシュンと静まり返っているところに、私の母親が珍しく迎えに来た。

私は仕事が残っているのでまだ帰れない旨を簡単に伝えて、早くこの場から離れさせようとしたが、鈍感な母親は事務室の窓を開けて挨拶しようとしていた。

とうぜんこの職場は空気が悪いので、もう身内となってしまった私の母親に愛想笑いなどすることはなく、全員がツンとした表情で無視していた。

「なんだ、態度の悪い会社だね」

ぼそっと一言いって母親は去っていった。

私は唯一信頼できる古株の社員の一人に事実を話しておいたのだが、後日あまりの自分で作った濡れ衣を見かねたのかその人はみんなに私が嘘をついていたことを話してしまった。

怒られ損というわけだ。

・その4

新聞販売店の駐車スペースはかなり狭く、会社の車を収容するのも一苦労だった。
狭いスペースを何度も切り替えしして、車を駐車していた。ぶっちゃけ、出入りがとても面倒であった。

中でもでかい図体のワゴン車を動かすのが本当にだるかった。

バックで駐車するのだが、というか、狭すぎてそれでしか駐車できないのだが、毎日何回もそれをやっていると、何度かやらかしてしまうことがあった。

そこには車止めなんて気の利いたものは置いてないので、隣にあるガソリンスタンドの頑丈な壁に背中から勢い良くガツンとぶつけてしまうことがよくあった。

それはもう、ぶつかったときは、自分でもびっくりするぐらい景気のいい音が出る。

壁はコンクリートで頑丈なので壊れる心配はなかった。
車のバックライトが破損すると面倒なことになるので、私はぶつけても知らぬ顔で黙っていた。

で、壊れたのが見つかると、犯人探しが始まる。
私はその時も知らない顔をしていた。

勘が鋭い人には感づかれていたようだが、あくまでシラを切り通した。

ちなみに、「その1」で書いた派手な事故も、目立った損傷がなかったので隠し通している。

どの事故も、単なるケアレスミスだ。当時は本当に休養がしっかりとれず働き詰めで、ただ注意力が不足していただけと言う印象を持たれるかもしれないが、そうならざるをえない状態だったのだ。

まとまって寝る時間が取れなかったので、しっかりと起きてない状態で毎日仕事をやっていた。

今回のエントリは事故を中心に書いたが、次回の新聞販売店のエントリでは、年末進行や繁忙期の出来事を書いていく。恐らくそれが販売店の出来事では最後のエントリになるだろう。

13年続けた新聞配達

1995年。中学2年生の頃のことだった。

当時、私はどうしても欲しいゲームソフトがあった。

しかし、私の家はお小遣いを一銭ももらえない家庭だったので、小遣いを貯めて買うということが出来なかった。
それどころか、他の友達が学校帰りに小遣いを使って買い食いとかをしているのに、私は親から一銭もお金をもらえないので、自分のお金というものがなく、肩身の狭い思いをしていた。

何度かねだったことはある。親の返答はきまって同じだった。

「おまえに小遣いやったって無駄遣いするだけだからあげれない」

親の言うことは道理が通ってなくても絶対服従しなければならなかった私は、親には逆らえなかった。
そのせいで反抗期がなかったのが、今の落ちぶれた人生に関係している気がしないでもないが、因果関係を証明することは不可能だ。

その、欲しかったゲームソフトというのは、スーパーファミコンの聖剣伝説3というものだった。

親父が買ってくる「ファミリーコンピュータマガジン」というゲーム雑誌で、ひときわ大きく取り上げられていた。
画面がとにかく綺麗で、登場するキャラクターも魅力的だった。中学生を夢中にさせるには十分な夢に満ち溢れたゲームソフトであった。

しかし当時のゲームソフトは1本一万円が相場で、安い買い物ではなかった。
実際このゲームも、店頭価格で割引されても1万を超えていた。

1995年というと、ちょうどプレイステーションやセガサターンが出てきて、ゲーム1本の値段が5000円ぐらいになったものもではじめていたが、まだゲームとしては実験段階のものが多く、遊べたものではなかった。

だから、金額的に親に簡単にねだれる代物ではなかったのだった。

余談になるが、いっぽう、当時唯一よく遊んでいた大親友のKは、親が優しかったので、発売日にゲームを毎月何本も買ってくれる羨ましい環境にあった。

すごいなあと思っていたのは、毎年訪れる年末商戦である。
ゲームも大量にその時期に発売されるが、毎年12月になると、新作ゲームを一ヶ月だけで7本とか買ってもらったりしていた(1993年の話)。

そんな恵まれた環境にあるKは当然この私が欲しがっているゲームを予約済みであった。

私は悩んだ。

そして、悩んだ末、近所の新聞販売店に新聞配達のバイトを申し込みに行った。

緊張しっぱなしで中に入り、キョドりながら私はこう言った。

「新聞配達がしたいんですけど、どうすればいいですか?」

スキンヘッドでメガネをかけた親父がこう答えた。

「いま空きがないから。そしたら、ここに名前と連絡先書いて。目処がついたら連絡するから」

ぶっきらぼうにそう言われ、差し出されたノートに自分の名前、住所、電話番号を書いてその日は帰った。

7月初めの土曜日、まだ蒸し暑くなるには早い午前中の出来事であった。

欲しいゲームの発売は9月。新聞販売店から連絡が来ないまま暇な夏休みは終わり、私はやきもきしていた。

これじゃ間に合わないじゃないか。内心そう思いながら最後の何も無い長期休暇を満喫していた。

自分がバイトを申し込んだことを忘れた頃、9月はじめのことだった。学校から帰ると、販売店から電話が入った。

「あんたの希望する配達地区で空きが出たから、明日の夕方から早速見習いで入ってもらっていいか?」

待ち焦がれていたバイトの連絡がついに来た!と同時に、いきなり明日からと言われ私は焦っていた。

「……いや、ちょっと……」
「なんかあるのか?」

特になにかあるわけではないが、心の準備が出来ていなかったのだ。

「それじゃ明日の16:30。ちゃんときてよ」

ガチャッと乱雑に電話を切られた。

次の日から、毎日学校を終え、家に帰ってすぐに夕刊配達という日々が始まった。

最初の3日間は見習いで、配る家を教えてもらいながら配達をした。

2日目までは優しいおばあちゃんに教えてもらっていたが、3日目は気の強そうな高校生の兄ちゃんが来た。
その人は、それまでこの地区を配っていた人で、受験があるとかで辞めるのだそうだ。

その兄ちゃんは、2区域(2人分)配っていて、とにかく効率的に素早く配っていた。

だが私はよくわからないので、2日間やってきたように一件ごとに自転車を止めて配達地図を確認しながらのろのろと配っていたら。

「そんなのんびりしてたら、何時まで経ってもおわんないよ」
「まだ配る家覚えてねーの?」
「お前体育の成績いくつ?走って配らないと間に合わないぞ」

そんな罵声を浴びたのだった。

「これじゃあ不安だな。もう一日ついてみてやらないと。全然地図も頭に入ってないし」

次の日は土曜日で学校は休みだった。
午前中、配達地図を見ながら、配る家を復習していった。夕方に訪れる、にーちゃんの厳しいチェックをクリアするためだった。

そしてなんとか地図に頼らずに配達できそうなところまで暗記出来たと確信して、夕刊配達に望んだ。

昨日言われたとおり、自転車で配達区域にきたら、降りてガバっと新聞の束をつかんで、走りながら一件一件てきぱきと配達していった。

午前中にやった予習の効果はてきめんだった。一々地図をみずに配ることが出来た。

そうしてなんとか厳しい兄ちゃんの最終テストに合格し、晴れて独り立ちすることになった。

厳しい監視の目がなくなってからは、こんな疲れることをする必要はなく、自転車を配達区域の真ん中にとめて、
歩いて住宅街を周り新聞を配っていた。

配る部数は100部前後で、歩いて配達すると、だいたい1時間程度で終わる。

仕事自体は別にきつくない。夕刊だから新聞も重たくなかった。
給料も、友達の小遣いよりはるかに高額だった。

欲しいゲームを買ったから、すぐ辞めますとは中々言い出せないものだ。
特に辞める理由がなかったので、その後もずっと新聞配達を続けていた。

自転車を使える夏場は良かったが、雪の降り積もる冬場は寒いことも手伝って、かなり大変だった。
かといって新聞配達は自転車を使うことが前提になっているので、雪がつもろうが自転車に無理矢理乗って配達していた。
前が何も見えない吹雪の日や、1月の氷点下まで気温が下がる時期が最も辛かった。

ただ…、放課後、1時間程度とはいえ、仕事に拘束されるというのは、年頃の遊び盛りの身分の人間には辛いものだった。

学校が終わって家につくのが16時過ぎ。そして着替えてすぐ新聞を取りに販売店へ出勤する。
配達が終わって家に帰れるのが18時前だ。なので自由時間が訪れるのが18時からとなる。

これでは平日は友達とは全く遊べない。また、土曜日も配達の仕事があるので、夕方の15時30分頃から遊べなくなる。

中学生の頃は遊ぶ友達がいなかったのでそれほど苦痛ではなかったが、高校生になってからカラオケなど遊びに誘われるようになってからは、放課後自由に時間が使えないのが物凄く辛かった。

かといって新聞配達をしていることを公言するのも、向こうが気を遣って遊びに誘ってくれなくなるんじゃないか…とか、貧乏な家なんだな…とか思われるのが嫌で言い出せず、隠していた。

しょうがないので不自然に用事があるなどとうそぶき、途中で抜けだしていたのだが、アレはかなり辛かった。

こんな経験をしたこともあり、私にもし子供が出来たとしたら、お金にだけは絶対不自由はさせたくないと思っている。

この方針について、高校時代に知り合ったYさんと銭湯に行ったときなどに未だに意見が対立している。

「子供が出来たら、小遣いはやらない。バイトさせる」

というYさんの意見に、激しく反発し

「俺は少なくとも学生時代は自分の子供にバイトさせたくない。遊べる時期にお金の不自由はできればさせたくない」

とでかい声でいつも反論している。

これは、(Yさんがまだここを見ているか知らないが)私の人生経験を踏まえた上での結論なのだ。

中学生の頃からバイトをしていた私に対し、周りの大人達はみな同じ反応をしていた。

「若いのにえらいね」

勤勉で良い子。
これが私の中2の時の周りからの印象だった。

以前のエントリで中1の時の私を書いたが、その時とは正反対の人間になっていた。

しかし、若い頃から働いていたからといって、将来素晴らしい人間になるかというと話が別だった。
その末路が今の人生につまずいた無職ひきこもりニートの私である(別に好きでやっているわけではないがな)。

そんなわけで私は中学2年の9月から新聞配達を始めたわけだが、金にはあまり困らなくなったが、正直失敗したと思っている。

というのもバイトをはじめてからの学生生活はなんだか慌ただしい毎日になり、自分の時間をじっくり取ることが出来なくなっていった。

この歳になって思い返すと、10代の大事な時期にバイトで時間をつぶすというのはもったいないものだと感じていた。

一日のうち、放課後のたかが一時間。たったそれだけだが、その一時間すらも、10代にとっては貴重で尊い時間だと今では思う。

毎日、新聞配達の時間を気にする日々。放課後に委員会の仕事など用事が出来たらマズイのでビクビクしながら過ごしていた。
学校が休みでも、夏休みや土曜日でも配達があるので午後からは時間を気にしなければならなかった。

そんながんじがらめの生活がいつしか窮屈になっていた。

新聞配達をする前は、もっと伸びやかに何も気にすること無く毎日を過ごすことが出来ていたのに、大切な何かを失ってしまったかのようだった。

ずっと夕刊配達をしていたわけではない。
受験の時期や都合のつかない時期は夕刊配達を断念していた。
そのかわり、日曜代配という、日曜日の朝刊だけ、もしくは、普段平日担当している配達員が休んだ時の代わりに配達するというポジションで仕事を続けていた。
基本的に一ヶ月4、5回の出勤だが、それでも結構な金がもらえた。

実は多くの同級生はこの日曜代配で小遣いを稼いでいた。私は欲が出てしまって夕刊配達をやっていた。
もちろん夕刊の配達をやっていた同級生は私だけではなく他にも何人かいた。

高校に入ってからも、3年間ほとんどの期間、夕刊の配達をやっていた。
高2の冬頃、MDウォークマンを買って、毎日ウォークマンを聴きながら配達したりしていた。
今思うと、なんとも楽な仕事である。

学生の頃から熱心にバイトしていたとはいえ、楽して金をもらっていたわけだから、決していいことではない。
人と話すこともない、きっちり決められた時間に行くわけでもない、仕事は一人だけでやって文句をいう人もいない。

大学に入ってからはまた授業の時間が重なるため、夕刊の配達ができなくなり、大学4年間は日曜代配をやっていた。
このころになってくると配達員の中でも古株になってきてて、色々な区域を配達したことがあるということで、時間が合えば、欠勤で穴の開いた区域の配達を代わりに受け持つことが増え、結構な金額稼がせてもらった。

その後、私はというと大学を卒業したものの就職浪人で無職となり、何ヶ月もバイトすら決まらず困っていたら、
その冬に朝刊と夕刊を配達していた主婦が突然やめるということで、私にそこの配達をやらないかと話が来て正式にその2つを担当することになった。

初めて朝夕刊の両方をやることになったが、思っていた以上に大変だった。
毎朝4時に起きて、朝刊の配達。終わったら今度は15時過ぎから夕刊の配達。
一日の労働時間は両方合わせても2時間にしかならないが、なんだか一日中拘束されている感じで大変だった。

まず、早朝4時起きで、配達終わって家に帰るのが朝6時前。で、7時過ぎにもなると眠くなってきて寝てしまう。
で、再び起きるのが昼過ぎ。2時間もしたらまた仕事。
毎日がこの繰り返しである。
おまけに、日曜代配も続けていたので、本来休みである日曜の朝も起きて仕事。

労働時間の割に給料は良いのだが、このヘビーローテーションに疲れはててしまい8ヶ月でギブアップ。

「仕事を探したい」という理由で夕刊だけ辞めた。
給料は減ってしまったが、自由に使える時間がかなり増えて、私としては満足だった。
実際いつまでも新聞配達などという腐った仕事をやっているわけにもいかないと当時は思っていた。

その後何年も、朝刊配達と日曜代配をずっと続けてながら、正社員の仕事を探したり別のバイトとかけもちしたりしていたが、
2008年の秋、転機が訪れる。

新聞販売店の経営者が変わることになったのだ。

わからない人へ向けて解説するが、新聞販売店というのは、個人経営の会社である(必ずしもそうではないが、大半がそういう業態をとっている)。
新聞社と販売契約を結んで、戸別配達や営業を行なっている。なので、実は新聞社とは基本的に無関係な組織だ。

私がバイトしていた販売店の社長が高齢となり、手の付けられない従業員や、新聞離れからくる不況による新聞社からの突き上げ(年一回開かれる慰労会でいじめられているのをチラッと見てしまったことがある)、
こういった面倒事を片付けるのに疲れたらしく、会社を9月いっぱいで手放すことにしたようだった。

で、買いあげたのが、ここからまた話がややこしくなるのだが、新聞社の100%子会社の販売店を管理する会社だった。
要するに、新聞離れで部数が落ち込んでいることに頭を抱えていた新聞社は、なんとかして見かけの数字だけでも回復したいと思っていた。
しかし、実際の販売は個人経営の販売店がやっているので、本社の営業部が直接口出ししづらい環境にあった。

そこで、販売店を子会社化し、他の販売店もどんどん取り込んで、本社の意向に沿った経営を出来るようにしている最中というわけだ。

ただし、直営店というわけではない。実態は子会社だが、あくまで別会社という体裁をとっている。
求人や会社案内を出す際も、新聞社とは違う会社名を名乗っている。
会社を買い取ってからというもの、本社の営業部の人間が頻繁に販売店に来ていたが、この販売店を管理する会社の幹部は別にいて、そっちはガラの悪いヤクザのような連中だった。

私がバイトしていた会社も、そんな時代の波に飲み込まれてしまったのだった。

これに激しく困ったのは私だった。
というのも、何年もここにしがみついていたのは、コネで就職できないかな?というしたたかな考えを持っていたからだった。
じっさい、買収される2008年の1月、私は販売店のスキンヘッドの社員にほだされて、社長の家に直接行き、頭を下げてこう言った。

「正社員になりたいんです。お願いします」

社長だけあって立派な家に住んでいた。
広い玄関で、私の声だけが響きわたっていた。
その一声を聞いて社長は苦笑いを繰り返すだけだった。

この時既に、会社を手放す考えがあったから、若い私に頼まれても困っていたのだろう。

そして9月末、社長は引退することを従業員全員へ発表し、お礼として社長の娘が経営している店の商品(プリン)を全員に配って挨拶していた。
勿論私も受け取った。

10月、新しい所長がきて、挨拶の書面を手渡された。

その文面を要約するとこうだった。

「突然会社が変わって戸惑ってる方も多いかと存じます。
 業務内容はなるべくこれまでと変わらないようにしたいと思っています」

一瞬で嘘だと見破った。
だいたい、それだとわざわざ会社を高額な金を出して買取る意味が無いのだ。

私は直感で、このままここにいると厄介なことになりそうだと悟った。
大学時代バイトしていた所に声をかけて、すぐさまこの販売店から離れようと思った。

そんなことを考えていた矢先だった。

私がいつも通り早朝出勤してくると、例のスキンヘッドの社員が不意に声をかけてきた。

「安西爆弾くん、ちょっといいか」

そして販売店の求人広告を持ってきて

「いまウチで募集かけてるんだよ。安西爆弾くん、応募してみないかね」

その求人広告の内容はこうだ。

1.早朝の電話応対(クレーム処理)
2.昼間のチラシ折込の仕事
3.朝刊の新聞仕分け

どれもバイトの募集で、時給はかなり高かった。

それでも、私はもうここにとどまるのは嫌だった。
適当に受け答えして、受けるだけ受けて後は逃げることを考えていた。

その日のうちに履歴書を作って、スキンヘッドの社員に提出した。
私はもう早起きが嫌だったので、よくわからないが昼間のチラシ折込に応募するつもりだった。

が、すっかり老けてシワだらけの事務員のババアに

「安西爆弾くん、チラシ折り込みなんてわからないじゃない、朝の電話応対やるんだよね!」

と、私の意思など無視して強引に朝のクレーム処理に応募させられた。

ありえねえと思った。だから関わりたくなかった、というわけだ。

数日後、面接に呼ばれた。
私はスーツ姿で通い慣れた販売店へと向かった。

応接室で初めて顔合わせする所長と、もう一人顔なじみの温厚で物静かな社員の2人相手に面接が始まった。

面接は実に2時間にも及ぶ長期戦になった。

その間に、バイトの面接だったものが、所長の鶴の一声で

「せっかくだから、朝の電話応対と昼のチラシ折込両方やって契約社員やってみるのはどうだ?」

という話になった。

この所長は、失礼だが、メガネを掛けてて、雰囲気的には、典型的な根暗で性格が悪そうな人に見えた。
実際そのとおりの人間だったのは後に働いてみてわかったことだ。

たいしたことを喋った記憶はないのだが、どうにも長い面接の間に、私のことを気に入ってしまったようだった。

面接が終わって帰り際にこんなことを言われた。

「彼、いいキャラしてるね!!」

それは悪い印象を持たれないように演じているからなんだよ…と言いたくて仕方がなかった。

こうして、受けるつもりのなかった会社の面接を成り行き上うけて、不幸にも受かってしまったのだった。

決まったらこちらの返事を聞く間も与えず、即座に仕事が始まった。

会社の中に入ってみて、初めて新聞販売店がいかに劣悪な職場であるかということが身に染みてわかった。
そして、10数年正社員に誘われたことがなかったのに、このタイミングで私を誘ってきたのは何故かも理解できた。

それまで新聞業界という不況知らずの寡占状態である特殊な世界に身を置き、時間的な縛りが厳しい以外は大した苦労もせず高い給料をもらい続け、社長が甘いので上から文句言われることもなく、各々が好き放題やり続けていた。
ところが、社長が引退して会社が買収されると一転して、上司も変わり、好き勝手出来なくなった。

自然と空気も悪くなり、長年顔見知りだった私を取り込もうとしたわけだ。
勿論、所長としても、この手の付けられない会社に染まってない仲間を入れたくて私を採用したのは言うまでもなくわかることだった。

まず、有り得ないと思うが、業務でPCを全く使っていなかった。
唯一使っていたのは、事務員の女性2人が金勘定に使っている程度だった。

顧客管理をやっていた営業の6人の中年親父たちは揃って全くPCが使えない状態だったのである。

しかし、新会社の連中からすれば、長年勤めてるものにしかわからないような非効率で古い体質を続けるわけにはいかない。
業務形態を1から見直し、新しいやり方を取り入れてる最中に私が入社したというわけだ。

もともと人間関係が悪いとチラシ折込のおばちゃん連中に教えられていたが、新しく入ってきた連中と古くから働いている使えない中年連中との対立が一番激しい時期に私が入社して、雰囲気は最高に悪かった。

私への八つ当たりや新しい所長への愚痴なんかが日常茶飯事だった。

まず、給料を減らされたことを私に愚痴っていたが、いまどきPCも使えない、大した営業成果を挙げているわけでもないのに、もらいすぎという印象を受けた。

今はどうか知らないが、とにかく金だけが欲しいというなら私は新聞業界へ入るのをおすすめする。
不況知らずだったテレビラジオの放送業界すら経費削減の風が吹いているというのに、この業界の人間は金の感覚が未だにおかしい。バブル時代の価値観を引きずっている。
だが、私の体験談を読んで、魂まで捧げたくないのなら素直に引き下がったほうがいい。

PCを仕事道具にしていた事務員の女も、私から言わせれば仕事で使っている割にはPCを使いこなせてないようにみえた。

新しい所長から、今まで言われたことのない作業を指示されて、PCを操作するのだが、簡単な印刷すら出来ない。
一例を挙げると。
仕事が終わり帰ろうとしたら、あるお宅に封書を投函して欲しいと言われたので、その封筒が出来上がるまで待たされていた。
ところが30分経っても何も言ってこない。
何時まで経っても呼ばれないので事務室へ行ったら、封筒の宛名印刷が思ったとおりに出来ず泣きそうになっている事務員の女がうるさくわめき散らしていた。

私も普段からビジネスソフトなんか触っているわけではないので、アドリブで助け舟を出してやったら、一発で完了した。

こんな簡単な操作すら出来ないなんて…と呆れたものだ。

このような理不尽なことが毎日のようにあった。

こうして、入りたくて入ったわけではないが、希望通りコネで就職という夢がかなったわけだが、内部の(会社が変わったばっかりで)ガタガタの空気や人間関係や職場の雰囲気の悪さに嫌気が刺して、わずか半年でこの会社を去ったのである。

私が辞めた後、立派な新社屋が完成し、今もその販売店は営業を続けている(当然だが)。

今は、私がいたとき既に定年間近だった古株の使えない親父連中も定年退職で首を切られ、従業員が入れ替わって、だいぶ事情も変わったのではないだろうか。
いつの間にか根暗の所長も異動になったのか、違う人間に名前が変わっていた。

後半は新聞配達とは関係ない話になってしまったが、私が新聞販売店と縁を切ったのは職場環境の悪さに呆れ返り我慢できなかったからだ。

みんな、(バイト連中も含めて)高額な給料に目がくらみ、かたくなに居座り続ける性格の悪いやつらばかりだった。
それに、会社を買い取られる前は話に聞く限りでは大した苦労もせず高給取りを続けていて、甘い汁を何十年も吸い続けていたようだった。
私はそれが許せなかった。

勿論彼らが楽しっぱなしだったとは言わないが、あの程度の改革で機嫌を損ねるようなら、やはり甘い会社だったのだなあと思えてならない。

最後に私からのアドバイス。
新聞配達は楽に金を稼げるバイトだが、私はオススメしない。
少しでもいいから、人と関わりを持つような仕事をしたほうが自分のためにもなる。
こんな腐った仕事は、候補に上がったとしても候補の最後にやむなくやらざるを得なくなった時以外やるべきではない。
長年働いてコネ入社を狙っても私のような悲惨な末路をたどることになる。いいことは何も無い。以上だ。

交通事故で死にかけたときの話

私は、新聞販売店に勤務していた頃、特殊な勤務形態に慣れることが出来ず、
けっこう危ない交通事故を起こしたことがある。その時の話を今日は書き残していこうと思う。

まずは、新聞販売店の実態について知らない人は以前書いたこちらを読んで欲しい。
新聞販売店で働くのはおすすめしない

5:00?8:30、12:00?16:30(建前上)の勤務時間で、主に顧客のクレーム処理、チラシ折込、僻地への新聞配達(バイトには任せられない)をやっていた。
営業は任せてもらえなかった、所詮契約社員だったので。

もう3年前になる、2008年、私は年齢的にも危なかったので、バイトをしながら必死に就職活動に精を出していた。
そんな時、人づてで新聞販売店で働くことになった。

普通のちゃんとした会社なら、健康診断、代理人などの手続きがあるはずだが(一度だけ関東で就職活動したときに内定をもらったことがあり、その時経験してわかったことだ。結局折り合いがつかず断ってしまった)、
面接が終わって決まったとたん、そんな手続きをすっとばして有無をいわさず、電話の来た次の日の早朝からいきなり働かされることとなった。

実質的な拘束時間が12時間を超える新聞販売店の仕事は、とにかくまとまった睡眠時間を取るのが難しかった。
また、毎日4時起きで、そのくせ仕事上がりは普通の企業と同じぐらいの時間か、運がよければ1,2時間早いぐらいの生活リズムに慣れるのがとにかく辛かった。

会社までは近かったが、それでも徒歩だと30分かかる。最初は親の車を使って通勤していた。
しかし、昼間に車を使われると困ると言われ、不便だったがやむなく徒歩で通勤することにした。

この仕事を機に、自分の車を買うとか、そんな余裕はなかった。仕事を覚えること、生活リズムを合わせること、日々の忙しさに追われ、対応できなかったのだった。
(上記のとおり、採用が決まった電話が夜かかってきて、次の日の朝にはもう働いていたので、準備もままならなかった)

働き始めた当初、毎朝4時になんか当然起きられるはずがない。
いくら注意していても、寝坊してしまう日がどうしても出て来て、電話で起こされる。
時間が時間というのもあって、悪気は無いのだが、向こうは当然カンカンに怒っている。

特に最初の一ヶ月間は、起きれても、出社時間が数分過ぎていたり、2,3回完全に寝坊してしまうことがあった。

入社したのが10月で、季節は冬を迎えていた。

寒くなってくると、余計起きるのが辛くなってくる。

そうこうしているうちに12月に入った。

今でも忘れない。この日付。

2008年12月8日(月)、AM5:00

職場の人間関係と、日々の仕事の忙しさに疲労困憊していた私は寝坊してしまった。
10月下旬から働き始めたが、丸一ヶ月ぐらいは若さで疲れを乗りきれていたようである。

職場から電話がかかってくる。

その電話ですら起きれず、親の怒号で目が覚めた。

そんな時間に起こされた親は当然怒っている。

家では怒られ、寝起きで具合が悪いのも手伝って、かなり不機嫌になっていた。

とにかく急いで車を出して会社へ向かう。このときまだ、ちゃんと起きておらず、半分寝ていたのだった。

意識がもうろうとしたまま運転していた。

今でもあの時のめちゃくちゃな運転を断片的に覚えている。

雪は積もっていなかったが、連日の冷え込みで、道路はブラックアイスバーン(凍っていた)になっていた。

でかい道路に出て、最初の交差点(信号はついてない)。前の車は右折しようとしていたが、なぜかとどまっていた。

イライラしていた私は、二車線で空いていた隣から強引に右折しようとしていた車を追いぬいて右折した。
この時、左右確認をしなかった記憶がある。
記憶があるというのは、意識がもうろうとしていて覚えていないからだ。

恐らく、前車がとまっていたのは、左右どちらからか車が来ていたのではないかと思う。
そこを無理にすり抜け、私は曲がろうとした。もしかしたら、左右から車がきてて、事故を回避するためにブレーキを踏んでくれたかもしれない。そこまで見てない。

時間帯が時間帯なので、車が走っている事自体が殆ど無いので、その感覚で強気に運転していた。

暗くて、路面が凍っていることに当然気づかない私は、アクセル全開で飛ばしていた。
次の交差点で左折。急いでいた私は、4WDでもアクセルいれっぱなしでハンドルを切る。

道路はツルツルで、私の車はおもいっきり横滑りを起こした。

曲がりきれず。

焦った私はブレーキを踏むも、ABSに阻まれる。

気づいたときには遅かった。

ビィィィィィィィイ

ものすごい衝撃の後、突然エアバックが視界を覆った。

緊急時に鳴り続けるブレーキ音で、事故ったことを悟った。

とりあえず車を降りる。

車は電柱に正面から激突し、ぺちゃんこになっていた。

ここではじめて我に返る。

これは、「親の車」だ。

どこかに連絡しなければ。でも携帯も持っていない。

でかい通りだというのに、時間帯のせいもあって車一台走っていない。

通りがかるトレーラー相手に必死で呼びかけるが、無視される。
次に通りがかったタクシーは止まってくれた。

電話を借りて、まず家に電話する。事故を起こしたことを伝えると、私の安否など全く心配せず、ひたすら怒られる。
次は会社に電話する。ただでさえトラブルメイカーだった私は会社からも「またか・・・」という顔をされた。
(大体新しい職場でトラブルを起こすなという方が難しいだろう。こっちだって好きでやってるわけじゃない)

電話を返すと、非常事態だというのに、このタクシーの親父はちゃっかり通話料よこせと言い出し、金をふんだくられた。

会社の人がすぐ迎えに来て、事務所へ向かう。

そのときはじめて、自分の体はどうなっているんだろうということが気になった。

“その時点”では、自覚症状はなかったが、額が切れて血を流していたのは、あとになって気づいた。

その後私は仕事どころじゃなく、事後処理に追われた。
警察が来て、事情聴取。これはすぐに終わった。
次はJAFが来て、動かなくなった車を搬送。

この時ようやく、良く現場の状態を見てみた。
狙ったわけでもないのに電信柱に真正面から激突していた。
ここに電信柱がなければ、さらにそのまま横滑りを起こし、飲み屋に真横からぶつかって私は大怪我をしていたか死んでいたか、
運がよければ、曲がりきれていたかもしれない。
だが、相当なスピードを出していたのでこの線は薄いと思われる。
また、曲がるタイミングが悪かったら、飲み屋の横に流れている川に柵をぶち破ってして落下し、これまた死んでいたと思われる。

車は、大破していた。
車の核となるボンネットが潰れてしまったので、修理するぐらいなら新車を買ったほうが良い状態だった。

加えて、家は車の保険で、対物破損は入っていたが、自分の車が破損する状況を一切考えてなかったらしく、そっちの保険には入っていなかったため、修理費用は全て実費になってしまうのだった。

ちなみに、この車はダイハツのムーヴ(3代目)で、まだ乗り始めて3年しか経っておらず、当然ローンも残っていた。
ローンはちょうど事故を起こした月でちょうど払い終えるというなんとも言えない時期であった。

この日は、家に帰れば親に怒鳴り散らされ、こんな危ない事故を起こしているのに、普通に仕事もやらされていた。

そしてこの日もっとも傷ついたのは、誰も命の心配をしてくれる人がいなかったことだ。
やっと就職して家にもお金を入れれるようにもなったのに、こんな扱いを受けて私はやる気をなくしていた。

なぜ事故が起こったか?もう一度冷静に分析してみたいと思う。

★その1:11月半ばぐらいまでは、車通勤をしていたが、家の車を独占されて困っていた母親が怒りだし、昼の仕事(12:00?16:30)を徒歩で30分かけて通勤することになったため、負担が増えた。

★その2:冬になって気温が下がり、体調を崩しやすくなっていた。寒くなって徒歩通勤や寝起きが辛くなっていた

★その3:実質的な休日がなかった。日曜日が休みだが、日曜日の朝刊配達員に穴があり、バイトが決まるまで、私が代わりに配達していた。つまり、日曜日も1時間だけだが、朝4時に起き、5時前から配達作業を行っていた。
(この穴が埋まったのは、翌年の2月。つまりそれまで3ヶ月という長期間にわたって私が負担を被っていた)

★その4:なにより家族が協力的でなかったことだろう。

私の家には、要介護者がいる。
私の妹で、重度重複の障害者であり、簡単に書けば植物人間だ。

平日昼間は施設で面倒を見てもらっているが、朝晩、ご飯や風呂、排泄処理などは家の母親がやっていた。
しかし、体重が55kgとかなり重く、寝床に連れていったり風呂などの力仕事は私や父親がやっていた。

この寝床に連れて行くというのが曲者だった。

妹を寝かせるのは母親の介護の都合上、大体早くても23時、遅いと0時過ぎに寝かせるために電話の子機を使って呼ばれる。

朝5時から仕事となれば、生活リズムをそれに合わせて、早寝早起きする努力も私に必要であったが、それが出来る状況じゃなかった。

眠たくて21時とかに寝ても、23時過ぎには起こされて、すぐには寝れないから1:00とか2:00ぐらいまでイライラしながら起きているような生活が続いた。

これは辞めるまでずっと改善されることがなかった。

せっかく就職できた新聞販売店をやめてしまったのを全て職場のせいにするつもりはない。

特に私自身、社会人としての自覚がまだ足らなかったのははっきり感じていた。

だが、こうした家族の無神経さが辞めざるを得ない状況に追いやってしまったというのもあるのではないだろうか。

私は妹ばかり大切にする母親にもウンザリ来ていた。
仕事辞めたい旨を、第三者に間に入ってもらいファミレスで相談するときに、あまりにも私への配慮のない母親の言葉攻めに普段溜め込んでいたストレスが爆発し、人のたくさんいるさなかで大声を張り上げぶん殴ったことがある。

これは2009年2月の出来事であった。この一ヶ月後、私は退職することになった。

会社を辞めた理由は、職場環境以外にも幾つかあった。

・話し合いで、毎日とは言わないが、せめて冬場の間、週2,3日は昼間の通勤で送り迎えをして欲しいと訴えたのにその約束はわずか一週間で飽きられ、丸一ヶ月送り迎えがなく挙句、終日寝不足でつらそうにしていた私へ「赤ちゃんじゃないんだから」と言い放ったこと。
・事故を起こしたときの私への対応(一気にやる気がなくなっていった)
・会社が家からさらに遠い場所に移転するため
・妹を寝床に連れていくために、毎日23時?0時頃に寝ていても起こされるから
・会社の車でも何度かこのような軽い事故を頻発させて物品破損が頻発させていてもう限界だと感じていたから(この話は長くなってしまったのでまた別の機会に書く)

私が言いたいのは、仕事は選んだほうがいいということだ。
特に、適正かどうか、続けられるかどうかの見極めはしっかりやっておくべきだ。
がむしゃらに頑張ればなんでも出来るというものでは決して無いのが現実である。
私はこの一件で、精神論が大嫌いになった。根性でどうにかなるなんてどだい無理な話というのがみにしみてわかったことだった。

新聞販売店で働くのはおすすめしない

私は以前、某新聞販売店に勤めていた。
今、不景気だから、求人があるなら職を選ばない人もいるだろうが、はっきり言ってここだけはオススメしない。
その実態を暴いていこうと思う。

私がいた販売店は、はっきり社名を書いてもいいのだが、後であれこれ難癖付けられても嫌なので伏せておく。

どういうところかと言うと、地方紙で、地元民で新聞購読するならここ以外有り得ないと言われているほどの地位を持っている新聞だ。
新聞離れが進んでいる今は別としても、昔なら転居してきたら、営業しなくても読ませてくれ!!と申し込みが来るほどの絶対的なポジション。
新聞配達の地図を見ても、購読者の世帯で真っ赤に染まっているほど購読率が高かった。

給料もいい。民間の初任給ではまず有り得ない水準。公務員でも恐らくこんなにもらえない。

なぜそんな高待遇の場所をやめてしまったのか。これから書くことを読んでもらえば納得するだろう。

★特殊な勤務形態
未経験なら最初からいきなり地域を受け持って訪問営業をやるのではなく、恐らく事務所の雑用から入ると思う。
勤務時間は5:00?8:30、12:00?16:30。

・5:00?8:30
普通ならこれより一時間早く出勤させられて、朝刊の搬入作業をさせられるだろう。うちは特殊な地区を受け持っていたので違った。
出勤してすぐ他の新聞配達員と一緒に朝刊の配達をする。そこはバイトにはまかせられない農地区画(市から指定されている)で、
25件しかないが、一件一件の距離が離れていて、車で配っても1時間はかかる。
道路の両脇が畑で車一台分の幅しか無く舗装すらされていない砂利道という悪路を走らされたりする。

ちなみに私は、冬になると目印が無く一面真っ白なので距離感がわからず、何度か畑に車を落としたことがある(暗いから本当にどこを走ってるのかわからなくなるのだ)。

夏場はいい、冬になって冷え込むと周りに何も無いせいかしゃれにならないほど寒い。おまけに大雪が続くと、満足に除雪車も入らないような場所だ。
車で侵入できない場所が出てきて、そういう場所は車から降りて雪中行軍する羽目になる。

戻ると今度は8:30までずっと電話番だ。
新聞がきてないだの、ぐしゃぐしゃだのという苦情を処理する。
自分のミスでもないのに、毎日バイトのミスをかわりに謝り怒られる。新聞が届いていない場合、勿論、地図で調べて車を出さないとならない。
ここでもそうだが、冬場だと一番冷え込む朝方に外仕事というのは本当に辛い。
路面状態も一番悪く、スリップ事故を起こしやすいし、出勤ラッシュに重なると渋滞にも巻き込まれる(7:00?)。

電話番の時間帯は、他にやることも無いので、暇なときは時間も時間だし寝てても良いとの話だったが、
私が入ったときは、会社が個人経営から親会社(新聞社の持つ販売店を管理する子会社)が買い取った直後で、業務形態の見直しが始まっており、とうぜん出勤してきた人間を遊ばせておくわけにもいかないとなり、色々な雑務を押し付けられることになり、寝る暇なんかなくなるのだった。

・8:30?12:00(休憩時間)
一般的な会社で言う休憩時間。3時間30分もあるが、はっきり言って、それだけ拘束時間が長くなる訳で有り難いことではない。
家に帰ってまた出社する時間を入れると1時間は軽く飛ぶ。実質2時間30分も無い。
私の場合は、帰って駆けこむようにごはんを食べ、睡眠時間に当てていた(当然満足に寝れたものではない)。

・12:00?16:30
午後は主に折り込みチラシを作る作業。新聞に種類の違うチラシが束になって入っているが、当たり前の話だが、
最初からああなっているわけではなく、あれは特殊な機械を使ってあの束を作っているのだ。

同じものを作ればいいってわけじゃなく、実は地域ごとに若干折り込むチラシが変わっている。
けちな店が、宣伝効果のあるところにだけ折り込んで欲しいと数を少なく出したり、そういう要望にも答えなければならない
確か私のいた店では4500戸受け持っていたはずだが、それに対して2000枚しかよこさなかったり、そういう会社が毎日いくつもあって、種類の違う折り込みチラシと枚数を毎日前日に割り出して次の日に使う指示書を作るのも仕事の一つだった(これが地味に時間かかって疲れるのだ)。

実は、新聞販売店の主な収入源がこの折り込みチラシだ。親会社がわざわざ億単位の金を出して買取る(私が辞めた後別の土地を買い、事務所を新築するぐらいだから相当旨みのある場所だったんだろう)ぐらいだから、チラシの量も毎日ものすごかった。
特に週末ともなると、チラシの数が膨大になり、保管場所に困ったし、作業量もその分増えて大変だった。

この仕事は一人ではやれないので、他にアルバイト3人と一緒にやっていた。

チラシの量が少ない日(週明けなど)は1時間半ぐらいで終わるが、2日分やる土曜日や週末はとうぜん特売のチラシが大量に持ち込まれ、3,4時間以上かかり、その日はサービス残業になる。

夕刊の来る時間になると、それの搬入作業やらで折り込みどころじゃなくなり、それに合わせてバイトどもが休憩に入るので、15時?16時は中断になる。

バイト連中は休憩かもしれないが、私は夕刊の搬入が終わったら、朝配った農地へ今度は夕刊配達へ行く。
朝と違って、今度は車で渋滞している道路を縫うようにして配らなければならないため、朝よりも気を使う。

農業区画以外の部分は住宅地で十分開拓されており、決して極端な田舎というわけではない。だから道路を隔てると住民が沢山住んでいる地域になるので、人通りや車の往来も非常に多い。
なんせ畑のすぐとなりがショッピングモールだったりするぐらい隔絶されている地域だ(ここにも配達へ回る)。

チラシの仕事が終わっても、今は販売店は新聞の仕事だけやってればいいという時代ではなく、フリーペーパーの業者を潰すために、戸別配布の業務を色々やっていて、そういった雑務が待っている。

建前上は16:30までだが、大体は早くても17:00。ほとんど18:00近くにならないと帰れなかったと思う。
勿論残業代は無い。

で、次の日は4:00起きで5:00までに出勤しての繰り返し。拘束時間は12時間を超える。
休みは日曜祝日だけ。

なんだこれぐらいの会社他にも普通にあるじゃないかと思うかもしれない。

経験上言っておきたい。この販売店のスケジュールのようにとぎれとぎれに働かされるのと、残業で夜中、果ては徹夜させられるような、ぶっ続けで仕事させられるのでは、どっちがキツイかといったら、間違いなく前者だ。
仕事内容にもよるけど、まとまった休み時間が取れない新聞販売店は地獄だ。まず生活リズムが間違いなく狂い、満足な睡眠が取れず寝不足状態が続く。これが何より辛いことだった。

★人間関係

それでも、辛い仕事だろうと、職場や人間環境がよければ、我慢して続けられるものだ。
販売店はここが最もひどいと言わざるをえない。

私のいた会社は、20代?30代が一人もいなかった。40代、50代の人間ばかりで、事務の女以外はパソコンが全く使えない。
年配のおっちゃんばかりだと、逆に物腰柔らかく和やかなイメージをもたれるかもしれないが、どちらかというと手の付けられない頑固ジジイばかりであった。
これは、新聞販売店という仕事が誰でも簡単に付ける仕事で、他に行き場のない(自分含め)癖のある性格の人間が集まりやすい環境にあると思う。

昼間、チラシ折込のバイトに来てる人間もやはり60前後のおっちゃんおばちゃんで、ガラの悪い職場にはガラの悪い人間が自然と集まるのだろう、こいつらも金払いがいいから割り切ってきている感じで、昼の仕事も雰囲気が悪くやりづらかった。

定年間近に、会社を買い取られ、仕事でPCを覚えさせられたり、業務内容も変わったりで、今更新しいことを覚えたくないと、辞める人間が何人かいた。
私もその流れに乗り、半年でさることにした。勿論辞める前に何度も家族に相談した上での結論だった。

半年間なにひとつ面白いことはなかった。今振り返っても嫌な思い出しか出てこない。

この仕事をしていた間は、毎日新聞配達のためだけに生きていたような感じで、生きた心地が全くなかった。

この仕事が決まる前は、バイトをしながら就職活動に精を出していた。
年齢的にもそろそろ危ないということで、ひときわ焦っていて必死にやっていた気がする。そんな中で、人づてで望んでいたわけではないこの仕事がすんなり決まったのだが。

この仕事を辞めてからというもの、最初の一ヶ月は完全に仕事をさがす気力が出なかったし、その後も心か精神かそこらへんをえぐられたのか、この仕事をやる前にはあった勢いや精力のようなものが完全に消え失せ、すっかり病んでしまった。

やめてから結構たつが、市役所の臨時職員なんかやったりしていたが、この仕事のおかげで並大抵のしんどさには動じなくなったのだけはいい点だと思うが、同時に人として大事な何かを失ってしまったように思う。
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