たまにはゲームの話と、グレイさんへ

昨日の、ゲームのストーリーの作り方についてレスポンスをもらったので、グレイさんへの返信

プレイヤーの感情をコントロールすることとゲームのナラティブが、どう繋がるのかが結局わかりませんでした。

ナラティブって?

もともとは医学用語、文学用語なのだけども、ゲーム業界のナラティブの意味とは何か?

簡潔に書くと、ゲームプレイのリプレイ的なもの。
与えられたストーリーのことではなく、ゲーム上で起こったこと、プレイヤーが体験したことをナラティブと言う。

具体例を出そう。

真・三國無双2が分かりやすい。

操作する武将を選んで、ステージを選択
そこで、どのように攻略していくかの過程がナラティブ

A→B→C→D

と、攻略していくのか

A→C→D→B

と攻略していくかの違い

最近の三國無双は知らないから、システムがまた違ってきててややこしくなっているのでしょうが
ここでは真・三國無双2をイメージしてください

やろうと思えばいきなり敵の総大将を倒しに行けたり(大抵は強力な弓部隊に邪魔されて無理だけど)
堅実に拠点兵長を倒して増援を潰しつつ、敵数を減らしながら武将を倒す

それか、武将一点張りの一撃離脱型

色んな攻略法があるが、それ自体がナラティブ

やったことがある人ならわかってもらえると思う
無双2は、何回同じステージやっても面白いし、やる度に違う結果が返ってくる

俺がいいたいのはここまで仰々しいことじゃないかなあと。

RPGのストーリーで辛いのって、プレイヤーを置き去りにしているイベント内容のゲーム。
置き去りにされてるから、会話イベントがついていけない
その状態だといくら中身が充実していても、プレイヤーは退屈だと思うんですよ

とにかく沢山の会話イベントをいくら用意したって、このままだと上滑りを起こしてつまらない

そうさせないために、プレイヤーを気にした台詞やテキストの記述を心がけるのも大事なんじゃないか?
という話です。

自分は結構気にしてました。
例えば、苦労して倒したボスが、イベント上だとまた復活するっていうのは自分は大嫌いで
市販ゲームでも、その流れが入られると、どんなに名作でもうんざりしてしまう(ジャンル問わず)

だから、プレイヤーが倒したボスはおとなしく退場しなければならない

でも、自分のRPGでもラスボス第二形態のところは、倒しても復活って感じでしたけど…
自分が言いたいのは、ゲーム上で苦労して倒したのに、イベントで復活してイベントでトドメを刺しちゃうってのが嫌なのかもしれません

それ以外にも、前回のエントリのように意図してプレイヤーに話しかけるような台詞を入れるようにしてました。
後は、真面目な話が続いてきたら退屈になってくるなと思った時に、セクハラ選択肢を入れたり
ダンジョンクリエイターや大岩くんZみたいなギャグイベントを挟んだり

ただ、自分はどうしてもRPGが作りたいというわけではなかったので、
イベント演出のやり方はもうちょっと懲りたかったなあというのはあります
体験型のイベントを多く増やしたり(過去話、回想シーンなど)、
ただテキストイベントじゃなくて、ダンジョンで断片的にストーリーを回収させるとか、そういうことです。

おっしゃられてるように、文字ではなく絵で見せるみたいなのも、本当はもっとやりたかった

SFC時代のRPGそのまんまじゃなくて、色んなジャンルの演出作法や技法を取り入れて行きたかったのが本音です

そこは処女作だったり、PS1のRPGツクール3という限界があったので、あの水準で終わってしまいましたが。

グレイさんも、その気が向いたらゲームを作ってみては?
たぶんいきなりPCの最新ツールで、なんでも出来て容量無制限の環境でやるから、挫折するんだと思います

GBAのRPGツクールアドバンスとかどうですか
限られた環境で最高のものを作ってみようと思うほうが、ゲーマー寄りの人は燃えると思います
あれだと作成できる容量がそれほど多くないはずだし、出来ることも限られてて、どんなに凝ろうとしても限界があるはずです
PS1のRPGツクール3が本当は、なかなかいい落とし所かもしれないのですが、御存知の通り
自分はメモカ2枚を上限にしても550時間以上かかってしまったので、さすがにこれをそのまま人にもオススメはしませんw
だいぶ目も痛くしましたし

自分もそれほどRPGをどうしても作りたいってわけではなかったので(寧ろそのほうが既成概念にとらわれなくて面白いものが作れると思います)
他にいい環境があればそっちがいいと思います。

これを書くとホームラン級のバカだなと言われるかもしれません
自分は割と本気で、自分のゲームレビューサイトでRPGツクール3のレビューを書くために
真剣にRPG1本作ったと言ってもいいです
それが割と本気で原動力となってました。





で、ゲーム作り終えてしばらく燃え尽きてた頃
とにかくひたすらゲームばかりやっていた

その時その時は無駄な時間を過ごしてたなと思うけども、それなりに有意義だったんじゃないか

ずっとやっておきたいと思っていたゲームをかなりやりまくって
しかもほとんどがRPG

直前にRPGを作ってて、その後に市販のRPGを、20本かそれぐらいやってた
(主にSFCのRPGばかりやってたが、これも何か意図してやったわけじゃなくて、単なる気分)

その時は、これを血肉にしようとかそんな大それたことは考えてなかった

ただ、RPGのストーリーはこういう風になってるんだなあとか、
ゲームシステムやバランスの付け方って言うのを見て、インスピレーションを受けたってのはある

一本ゲーム作ったら、すぐ次というフリーゲーム作者が沢山いらっしゃるけども、俺はそれにはなれない

俺はそういう根っからのクリエイター気質ではないみたいだ。

飽くまでゲーム制作もゲームとしてやっているところがある

で、つぎは小説やろうとしてるのがまたちぐはぐなのだが
こうやってブログやってるのも、小説へのウォーミングアップ的な意味合いが強い

それの後はまたゲームを作る予定

本当に色んな主にSFCのRPGをやってたんだけども、それは一つ一つここで触れるのはよそう
プレイ済みのゲームは例によってゲームレビュー更新してるのでそこを読んでください

で、最後にブレスオブファイア2,3,4をやった

これについて書いて終わりたい

ブレス2は初プレイのはずだった
だけども、ところどころ既視感があることに気づく

友達の家でやっているところを当時見てた記憶もないので、完全に初見プレイのはずなのにだ

だが不思議な事に、ゲームが終盤に行けば行くほど、見覚えのあるシーンが出てくる

不思議だ
実に不思議だ

そしてそれが確信に変わったのがラスボスに立ち向かっていくシーン

「俺これみたことある!!」

俺が仰天した

変な所で

その時俺はわかった

友達の家で、発売当時友達がやっているのを俺は見てたんだ

ネットのプレイ動画をたまたま見たという線はまずない
それだったらもっと克明に覚えているはずだし、ここまで記憶が曖昧じゃない
大体俺は自分が未プレイのゲーム動画は絶対見ないようにしている

ブレス2の発売日は1994年12月2日

俺は昔の記憶を、特にゲーム関係の記憶は凄く覚えているが、
22年前、友達がやってるところをちょっとみてた程度の記憶はさすがに薄れていたようだった

ネタバレしたくないから、書かないけども、ある場所でボスが倒せなくてレベル上げしている所
全く同じことをしているのを見ていたのも、今は思い出している


次にブレス3

当時、別の友だちが楽しそうに遊んでいたのを、羨ましそうに見ていただけ
それを19年の時を経て、自分の手でプレイする

なにせ当時を知ってる人ならわかると思うが、CMだってめちゃめちゃ流れてた
だからもう俺は欲しくて欲しくてたまらなかったんだ



だが、俺は我慢した
代わりにフロントミッション2とがんばれゴエモンネオ桃山幕府のおどりを買ったんだ!!

俺は人知れず興奮していた

なんなら、やめていた実況動画を撮りながらやろうかとさえ思ったほど

いやあ、こういうの、俺は面白いと思うんだけども、ありきたりなのだろうなあ
当時は指をくわえて、見てるだけだったゲームを、19年後遊ぶわけです

と、まあ、遊ぶ前は気分が高揚してハイテンションになっていたが、ゲーム自体は結構退屈だったかも、しれない……

最後にブレス4

これは2000年4月27日に発売されたゲーム

発売日に買ってクリアまで遊んでる

が、
レビュー目的で、16年ぶりに再プレイ

こちらは、これまでと違って

懐かしすぎて涙が出た

16年たってもバトルBGMやファンファーレの音楽をちゃんと覚えてるし
なんかやたら強い姉ちゃんがいたよなあ(アースラのこと)
ぐらいの記憶しか無かったのが、ああこれこれ、という感じで思い出したり



西都側の戦闘BGMが好き



ボスBGMもかなり良いことを再発見



2000年4月27日には、3本も欲しいゲームが出て3本とも買ったんだよなあ
ゼルダのムジュラ、メタルギアゴーストバベル、ブレス4

確かブレス4は一番最後に回した気がする

ブレス4は実況動画ネタとしては良かったかなあと思うが、今やってもあまり見てもらえないんだろうな……

ブレス4は新品で買ったので、パッケージの状態はかなりいいです
説明書なんて開いてもいないピカピカの新品状態

そんな感じの私物が俺の家には山のようにあります

終わります
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2004-2014 ゲームレビューサイトを運用した10年間を振り返る #2

こうやって2ページ目を作ったが、実のところ、ゲームレビュー運用を振り返ると言っても、当たり前のことながらゲームばかりやっている話しかないので、書くことなんてない。
漠然と書きたいと思っていることはあっても、ぼんやりとしているだけで、具体的な展開が思い浮かばないのだ。
というか俺以外の人にとって、ゲームレビューとかゲームに対する考え方を書いた所で、大半の人間がどうでもいいことであって、それを時間を掛けてわざわざ文章にする意味があるのかと言うところで心の葛藤が生まれている。




前回のエントリで、元々俺はヌルゲーマーで、攻略とか普通に見ながら進めるような人間だという話を書いた。
それに加えて、コンプリート欲が強くて、無駄なやりこみ要素に徹底して時間を使うような人間だった。

あまりにも完璧主義者で、くだらないことに途方も無い労力を昔は使っていた。
例えば、FF7で全員LV99、マスターマテリア全種全員分作成、ドーピングアイテム集めまくって全キャラ全ステータス255とか、そこまで極めようとする人間だった(全ステータスマックスはさすがに断念した)。

DQ3(SFC)で、4キャラ、全特技取得、全アイテムコンプ、LV99をやったりもした(2011年にデータが消えやがった)
DQ4(PS1)でもやったし、DQ7(PS1)でもやろうとしたが、メタル狩りと熟練度上げがだるすぎて途中でやめた

今もこの辺は、自制しないと、PSのトロフィーコンプとか、そういうの際限なく手をつけていく人間である。
キリがないので、クリアしたらそのゲームは終わりというふうに決めている(まだ遊びたいと思っても基本的には辞める)。

ゲームレビューをはじめてから、攻略見ながらゲームをすることをやめた。
後はクリアしたらそのゲームは辞めて、別のゲームへと移るようにした。
2004年当時は、やりこみ要素は無駄なものと言う傾向が強く、今みたいに定着していなかった。
(トロフィーとかアチーブみたいな機能は当然なかったし、やりこんだデータを自慢するみたいな文化は少数派だった)

この頃のやりこみ要素というと、もっぱら、今で言う縛りプレイやタイムアタック、リアルタイムアタック、お馬鹿プレイを意味していた。
逆に、データをコンプリートするとかカンストさせる、今の時代で言うやりこみ要素は、馬鹿がやるものという意味合いがあった
(断っておくと、少数でも、好きなゲームをやりこんでデータフルコンプを目指す人プレイスタイルはあった)


2004年から、攻略を見ないで自力でクリアするようにしていったら、ゲームが面白くなっていった。
自分で試行錯誤して進め方を探したり、探索して隠しアイテムを発見する。これが楽しかった。

ドラクエの話ばかりで申し訳ないが、ちょうど2004年11月にはドラクエ8がでた。
想定レベルより低いレベルで先へ進めると戦歴画面でトロデ王が「低レベルでボスを倒したって何も出ないぞ」みたいなことを言ってくる。

意識してなかったが、今の俺は低レベルで無理矢理進めようとしてたんだということに気づく。
(思い返すと、DQ8自体、そのメッセージが出やすい作りだったのだろうがそこまでのあざとさに気づかなかったわけだ)



そうやって、自力でクリアまで到達した時点で思ったことをコメントするのが、俺のやってきたゲームレビューのやり方だった。
自力でやるというのは、先入観をなくすために、未プレイのゲームに対する情報収集も避けることも含まれている。

2005年とかそれぐらいの時期にはまだなかったが、他人のゲームプレイ動画も見ないようにするし、他人のレビューも読まない(レビュー済みのゲームなどは読む)
世間の評判とかそういうのも、よほど社会現象で嫌でも目に付くようなものじゃなければ、基本的には見ない。
自分がプレイするときには、出来る限り新鮮な状態にしておきたいから、紹介記事とかも極力見ない。

ある種ここまで尖ったゲームレビューのやり方をしていたから、クリアまでプレイ済みであっても、情報収集不足で、間違ったことを書いてしまったり、踏み込みが甘いところがあったり、どうしてもそういう部分が出てきてしまう。
(幾つか痛恨のミスがあったのだが、すぐ思いつくのがスターオーシャン4で、ディスク入れ替えの問題は、俺のプレイスタイルでは一切確認できなかった)

自分の感性だけに頼ってコメントするというやり方をどうしても貫き通したかった。
俺のやっていることに対してクライアントがいるわけでもないし、金とか立場、損得勘定が一切入らない場所である。
そういう場所でやれることを突き詰めてやっていったのがあのゲームレビューのホームページだ。

例えばの話になるが、知り合いや顔見知りがゲーム作っていて、そのゲームをレビューするとなったら、
仮にゲーム自体に苦言を言いたいところがあっても、絶対本音を書けないだろうと思う。
俺の同級生がゲーム会社でゲームを作っているが、同窓会でそのゲームをもし紹介されたら、それを悪く言うなんてなかなか出来ない。





こんな極端なやり方をしていたから、はっきりいって叩かれることのほうが多かった。
まず、このやり方で一番気をつけなくてはならないのは、プレイヤー本人がある程度ゲームが上手でなくてはならないということだ。

ゲームレビューを始めるまで、激ヌルのゆとりゲーマーだった俺としては、初期の2,3年は、ゲームが下手くそで、難しめのゲームにもれなくキツ目のコメントをしているのが、今となっては悔やまれるところだ。
時間と機会があればぜひ直したいと思っていた。

それと、RPGばかりプレイしてて、PS2以降、三國無双など3Dアクションを全然プレイしてないので、研究不足っぷりが目立っていたのも苦しかった。

個人的には、レトロゲームが好みというか、平面処理のスプライトメインのゲーム機が好みだったため、ポリゴン主体の時代のゲームにあまり興味を持ってなかったのが痛かった。

テイルズシリーズとか、なんであんなにキツイ書き方をしているのか、今思うと結構恥ずかしいところだ。
デスティニー2の敷居の高さは今も評価は揺るがないが、テイルズオブリバースなんかは結構楽しんでたと思うのだが。
当時の俺はアクションがヘタクソで、特に3Dタイプのアクションが苦手で、ドラッグオンドラグーンとかキングダムーハツーごときでヌルめのアクションですら苦しんでいたから、俺が気持ちよくクリアできないみたいな言い方をしていて、改めて読み返すと直したくなる。

ゲームが下手だと、難しいゲームを避けたくなるし、やってみても、うまくいかなくて、冷静にゲームを見れなくなる。
これは俺が、初期の頃自分で味わったからこそ、そう感じているのである。

レビュアーはゲームが上手でなくてはならないとまでは言わないが、普通の人より少しぐらい場馴れしてるぐらいでないと、叩かれる対象になる。



クリアした時点でコメント(レビュー)を書くというスタンスだったが、もはや今の時代では、そのやり方は通用しないように思い始めていた。

今のゲームはクリアして終わりという概念が絶対ではなくなってきている。
古いゲームだとポケモンなんかエンディング時点で終わりというとちょっと違うゲームだし(俺は便宜上そこを最後としたが)
昔は、ゲームをコンプリートする(すべてのコンテンツを遊びきる)というスタイル自体が確立してなかった。

いわゆる当時のゲーマーに言わせると、不毛な作業をやって何が楽しいだ?的な
勿論ゲームの方でも、やりこみ自体が浸透してなくて、十分な面白さを提供できていなかった。だから水増しと言われていた。

今は、プレステ系だとトロフィーをコンプするとか、そういう遊び方が標準とまではいわないが、そこまでやって初めてゲームクリアしたと言えるような感じになってきている。

2013年の秋ごろからPCエンジンのゲームをやりだしたが、本体メモリ(セーブ領域)が少ないこともあって、クリアしたゲームは、別のゲームで使うために、躊躇なくデータ削除していた。
ゲームのセーブデータなんてのは、クリアまでの補助機能みたいなもので、クリア直前のデータを残しておいたってあまり意味が無いからだ。

こういう考え方が、今は通用しないように思っている。
サエーブデータを破損しないように、サーバーにアップロードしてまで保存するというプレステネットワークには、今やそんなサービスまである。

ゲームに対する考え方が大きく変わってきたように思う。

他にもゲームレビューのやり方で細かい決め事があったのだが、
・シリーズや関連作は一作目から必ず順番いプレイする
・ゲームジャンルを公平な目で見るために、古い作品から体系立てて見ていく

そんなへんてこな決まり事を色々定めながらやっていた。



それとこれまで俺は、俺のゲームレビューは人に見せるためにやってるんじゃなくて自分のためにやってるみたいな言い訳がましいことを言い続けていた。

しかしやはり、こうやって予防線を張るのではなくて、価値は読み手が決めるものだと今年になって実感した。

こういうものは、支持者がいてなんぼなのである
ありきたりなレビューだなと俺が思っても、そこに読者や支持者が沢山ついていれば、価値のあるものとなっている。

俺はこのへんの考え方が甘かったように思う。

じゃあ支持されるように努力しなかったのか?というと、最初に書いたように、俺は自分のやりたいようにやりたかったから
こびるのは絶対嫌だった。

仮にこの10年のどこかで、結果を求めて読者に媚びようと方針転換したら、今の俺はなかったと思う。
成長したかどうかはわからないが、ストイックにやり続けた結果の今の俺と、成果を求めて媚びていった俺では全く違うものになっていったと思う。



2007年4月に俺は、ゲーム配信を始めた。
最初の数回はびっくりするほど見る人がいなかったが、ある日を境に夜中の2時3時に100人を超える人が見に来て盛り上がるゲーム配信ができるようになった。

俺はこの時、ゲームレビュー開始から3年が過ぎたこの時、
ゲーム配信があまりに面白かったために、ゲームレビューをやめようと何度も思った。

御存知の通り、ゲームレビュー続けてたって文句言われるばかりだし、閲覧者が沢山いたわけでもない
お察し状態の有様だ。

そんなものを意固地に持ち続けるより、ゲームやりながらみんなで楽しく盛り上がる動画配信をしている方がずっと建設的で有意義だと思い始めていた。

この時もまだフリーターで実家ぐらしだったから、親が寝静まる夜中の1時過ぎとかにならないと動画配信はやれずつらい生活だった。
それでも週2,3回は完徹してゲーム配信をやって楽しんでいた。

俺自身、根暗で暗い人間だったから、俺の配信で人が集まってきて盛り上がるなんてことがあるとは思わなかった。

しかし、こんな成果のあった動画配信も、俺は最終的に手放してしまった。

まあもう動画配信を今更戻ってきてやった所で、競争率の凄まじく高い世界で俺はやっていける自信はない。
だからやるつもりもない。



最後になる。

ゲームレビューのページを見せて、ライターの仕事の誘いなんかも頂いたが、なんだかんだいって全部ダメになった。

前にちらっと書いたが、欲しがる人が誰もいなかろうと、俺は自分のゲームレビューのページを記念に自費出版で書籍化したいとか言う夢を諦めてない。

本屋で売りだすとかそういうんじゃなくて、単純に記念に製本して自分の手元に置くという意味だ。

まああとは、このまんまただ野垂れ死ぬか、その前に、色んな所に手当たり次第、ゲームレビューのページとこのブログを送りつけて、自分を売名することを考えてる

どうせ、もう失うものは何もない身だ。
最後に暴れるだけ暴れて消えていこうと思っている。

もう俺の貯金は40万を切った
9月末で終わった寿命
まだ生き続けることはできるが、ここらへんが潮時だと思っている
貯金が0になるまでは生きれるだろうが、自分が定めた締め切りを優先すべきだと考えている

2004-2014 ゲームレビューサイトを運用した10年間を振り返る

2004年4月からはじめ、2014年4月で終了したゲームレビューのHP。
運用してきた10年間の歴史を思い出して行きたい

その前にまず、俺のゲームの買い方とか価値観的な話を書く。
俺のゲームの買い方というのは非常に義理堅くて、特にスクウェアソフトのゲームは発売日に全部買っていた。
後は独立直後から注目してたトライエースのゲームも。
面白そうなものをホイホイ買うのではなく、作っている人に興味があった。

これは特別、俺だけではないと思っているが、
高校に入ってからは学校やバイトで忙しくなり、ゲーム以外のことにも興味を持ち始めたため、
ゲームを馬鹿みたいにクリアまでやり込むというよりは、どういうふうに動かしているのか?という技術的なところへの興味が強かった。
だから、発売日に買ってきてもクリアまで一心不乱に夢中になるというより、ロードのシークタイムとかテクスチャの貼り方
そういうのを間近で見れればいい程度のプレイスタイルで、熱心にゲーム自体をやることは減っていた。

中学時代、俺をいじめてきた友達もそんな感じだったし、別に特別なことだとは思ってない。
ただその友達はソニー信者過ぎるところがあって、ものを公平に見れてないところがあったが。
その友達はナムコのゲームに目がなくて、やたらナムコゲーを買いあさっていた。

ちょうど西暦に直すと1997年-2000年といったところだ。
PS1の全盛期で、コンシューマ機自体が技術の頂点にあった時代だから、別に珍しいことじゃない。

中学校時代ほど、力入れてゲームやる余力も無かったから、雑誌の攻略ページや攻略本見ながら、クリアするみたいな完璧なヌルゲーマーだった。

スクウェアのゲームを全部買っていたという理由を合理的に説明しろと言われても、未だに自分でもよくわかっていない。
行為自体は信者そのものだが、信仰心が強かったわけでもないし、
どちらかと言うと、ゲーム自体の質は、当時は任天堂が圧倒的に上だと思ってたから、純粋に欲しいと思っていたゲームも64のゲームに集中してた。
ただ、64のゲームは高かったから、中々手を出しづらいところがあった(PS1の相場が5800円で、64が6800円で1000円高かった)

SFC時代のスクウェアは最強のRPG屋だったからかもしれない。
FF6の映像と見せ方に感動し、ライブアライブのストーリーテリングに酔狂した。
フロントミッション、クロノトリガー、聖剣伝説3、ロマサガ3、と出すもの出すものが百発百中という感じだった
(その後のバハムートラグーンやガンハザードなどからガクッと質が落ちるのだが)

スクウェアがPS1に参入してから、今では信じられないだろうがマニアを中心に途端に評判が悪くなった。
任天堂信者が暴れてたとかじゃなくて、PS1時代に入ってから、会社の規模を急拡大し始めて、色んな事に手を出したことで、『文句を言われるような隙のある製品』が増えてきたからだ。

FFTなんて、クエストからチームを引きぬいた!とかで偉い言われようだった。
後にチョコボの不思議なダンジョンを出したことで、他社のゲームを平気でパクる最低企業とか言われてた。

今でこそ名作扱いされているが、サガフロンティアの1と2も不評の嵐だった。
1は『フリーシナリオじゃないサガはサガと名乗るな!』と前評判が悪く、内臓フォントの色付きテキストが安っぽく見えたのか、つまんなそうとか平気で言われてた(本屋のゲーム雑誌コーナーにて)。
2も2で、『イトケンのBGMじゃない!!』とか、ロード長い、ストーリー重視がサガっぽくないとか、さんざん叩かれていた。

クロノクロスも名作を汚すな!!とか発売前から凄い言われようだった。

まあ、それでもPS1のスクウェアといえるほど、質の高い時代だったと思う。
8割以上のタイトルが有名で、今挙げたゲームも大半が名作扱いを受けている。

UIがいいっていうよりも、ゲームを面白そうに見せる絵作りがうまかった。
だからそれに騙されて買うというか、釣られて買ったら好みの内容じゃなくて「売り逃げ企業」とか言われるのだが。

例えば、1997年当時、まだ少なかったフルポリゴンのフィールドとスプライトキャラのRPG。
有名所だと「ゼノギアス」と「ブレスオブファイア3」それと、「グランディア」があった。
「ブレス3」は自分でプレーしたことがないので省くとして、
「グランディア」は、ゲームアーツの大作RPGで、スプライトのドットやマップのテクスチャーなんかがすごく丁寧に作りこまれていた。
しかし、テキストのフォントが実にゲームっぽくてダサくていかにもゲーム好き向けの「セガサターン」みたいな空気を出してた(好きな人には申し訳ない物言いだが)
戦闘シーンも面白いが、ごちゃついてて小さい文字フォントが潰れてたり、まあゲームが面白いつまらないは別としてそういうところが弱かった。

「ゼノギアス」はこの辺の絵作りがうまかった。
メッセージフォントは白抜きの青縁取りで横に顔グラをつけていて見栄えがよく、陳腐にうつりがちな半透明ウィンドウを綺麗に料理していた。

たかがゲームのフォントデザインだの画面設計に細かいことをごちゃごちゃ言うなって話だが、
結局ゲームを買う、興味をもつきっかけになるのは、雑誌やサイトで見れるゲーム画面で第一印象が決まるわけで、
そういうのが得意か下手かというのは結構重要な線となる。
1999年3月に出たコナミのサイレントヒルなんて、字幕がPS1の内蔵フォントだったせいで俺は完全に興味をなくした。たったそれだけで。
そのスクショを雑誌で見た時に、反射的に『ホラーゲームなのに雰囲気作りに力入れてないんだな』と感じ取ってしまったからだ。

そこまで勝手に思い込む奴は俺ぐらいなのだが、画面見て印象悪くさせるような絵作りしかできないのも、それはまずい。
(フォローするわけじゃなく名誉のために断っておくが、発売から10年後にやってみたらサイレントヒルはしっかり面白かった)

反対に、フロントミッション2とFFTの2つは、本当に同じ会社から同時期に作ってたSLGか!?とおもうほど落差がひどかった。

それはともかく、「アインハンダー」「デュープリズム」「アナザー・マインド」「双界儀」「レーシングラグーン」等
どちらかと言うと無名でマイナーなゲームのほうが面白いものが多かった。

そんなスクウェアだが、PS2に入った途端、一気に凋落する。
レースゲームやら、野球ゲーム、プロレスゲームで食いつなごうとしたのだが、どれも本当にひどい出来
そのあとエニックスと合併してスクエニになるが、俺から言わせると合併する前からスクウェアという会社は終わっていた。

FF10にはまだPS1時代の技術の片鱗が見えていたが、それ以降は突出した部分のないただの大手企業になってしまった。

FF11は技術的にはすごさを感じたが、当時のMMORPGはマゾが当たり前で、とてもじゃないがついていけるレベルじゃなかった。
お気に入りの第三開発(クロノトリガー/ゼノギアス/デュープリズム/クロノクロス)のスタッフ制作だから付き合っていただけで、そうじゃなかったらすぐやめていた。

スクエニという会社になってからのことは、もう俺がここでわざわざ1から語るほどのことはない。

すっかりFFとDQとキングダムハーツだけの会社になってしまったなあということだ。

2009年12月にFF13を買ってやった時、一企業としての作風とか技術ノウハウみたいなものはほとんど消滅してしまったんだと肌で感じた。

どうしようもないクソゲーもあったが、コールオブデューティとかヒットマンとか洋ゲーの接点のなかった俺が色々面白さに触れる機会があった
FFXIでネットゲームに拒絶反応を示して、絶対やるまいと思っていたが、DQXやFFXIVをしぶしぶでもやってみて、
今のMMORPGは昔みたいなマゾ仕様ではないことがわかった。

ここまでの話は、実は公表しようかどうか、書いてる途中も書き終えてからも、存分に迷った話だ。
まあでも、ゲームレビューのホームページやってるときに「どうしてスクエニのゲームばかり取り上げるの?」と言う
質問も来たことがあるし、それについて明確な回答が以上のとおりとなる。

一言で言うなら「特にはっきりとした理由はない」という回答になる。
別にスクエニからリベートもらってるわけでもなんか契約してるわけでもなんでもないし、本当に何も意味は無い。
意味を付けようとこれを見た人が、あと付けでごちゃごちゃ理由をつけようとしたがるかもしれないが、それには責任は持てないということで、公表することにした。

他のRPG屋だと、日本ファルコムとか、アトラスは、ゲーム業界内では大手だけど、
会社をここまで巨大化しようとはしなかったから、今もほそぼそと老舗のRPG屋として続いていて
こういう根強いファンがいるだろうとおもう。
たまにウィキペディアなんかみたら、ファルコムゲーは、内製のやつしか認めないみたいな執筆者が露骨にいて
他社の移植作品ばかりやってた俺は「ファルコムって愛されてるなあ」って笑ってしまう。
ファルコムブランドで内製か、ファルコムが公式に認めたもの以外は亜種扱いされてるのが凄い。
というか亜種扱い出来るのが凄い。

で。
金がなくなってゲームレビューをやめた時点で、俺はゲームを買うこともやめた。

それが2014年4月。
ちょうどゲームレビューを初めて10年経った時であった。




2004年4月から俺はゲームレビューのホームページをはじめた。
大学を卒業して就職浪人になり、焦った俺はなにかやらないとと思って始めたのがゲームレビューだった。

この時おれは、あまりに悩みすぎて円形脱毛症にまでなっていた。

最初の2,3年は、ちゃんとしたレビューすら書けていなかった。
まあ10年やってもって感じだが。

まず、自分でゲームレビュー始める前に、とても感銘を受けたゲームレビューのページがあった。
ネット上の大半のゲームレビューが、自分の好きなことを書いているだけなのに対し、
ゲーム雑誌とかでも最近はめったに見られない、ゲームそのものを真剣に、真っ向から分析しているレビューであった。
その人は、絵もかき、ゲームも作り、プログラムなどの知識もある。
だから、技術面での言及もきちんと説得力があり、ゲームレビュー以外の、ゲームに関するコラム、考察なども書いており、非常に納得させられる内容となっていた。
俺はこの人を目指して、手本として頑張ってきたが、10年頑張っても、足元にも及ばない。

だが俺には、この時点で、物を教えてくれる師匠のような存在がいなくて、全部自分の力でやらなければならなかった。
逆に言うと、自分の力でやれるところまでやるしかなかったのである。

ゲームレビューをはじめて1年後の2005年4月。
適当に書いた駄文ではなく、時間を掛けてしっかりゲームレビューを書いていこうと決める。
それともう一つ、発売日に買ったゲームは投げ出さずにクリアと位置づけられてるところまではしっかりやろうと決めた。

たかがゲームの遊びといっても、投げ出さずしっかりやり切るというのも、簡単なようで案外難しいことで。
フリーターだから金銭的にも辛くて、そこから新作ゲームを買う資金を捻出することも大変だった。




後、今だから、こういうことをさらけ出そうと思うが。
なぜここまでゲームに入れこむか、決定的な出来事があったりもした。

PS2とPS3
発売日に入手するのは本当に困難だった。
この2つに関しては、努力すれば手に入るという次元を超えていた。

PS2。予約すらできなかった。
しかし2000年3月4日の朝。電話がかかってくる。
いつもゲームを買いに行っている近くのゲーム屋からだった。

「PS2入荷したのでご来店お待ちしてます。」

わけが分からなかった。

予約しようとして、無理ですと言われて素直に諦めた
なのに、当日になって俺のぶんを確保してくれたというのだ。

高校生の分際で、ゲームショップでVIP待遇を受ける俺は何なのだろうという感じだ。

PS3。
PS2の時、粋なはからいをしてくれたゲームショップはもう潰れてて無い。だからサプライズも期待できない。
PS2の時以上に、発売日購入は無理そうだった。
どこいっても、予約すら拒否しますという張り紙が貼っていた。
2006年11月11日。予約できずに発売日を迎えた。
近所のとあるゲームショップでは、入荷台数の目安と当日販売のみという張り紙がされていて、
発売日の朝、朝刊配達を終わらせた朝5時半にそこへ並びに向かった。
しかしもう、11月上旬の糞寒い中、入口の前を占拠して毛布にくるまってるいかにもオタクっぽい集団が既にいた。

近寄ると
「あーあーもう無理ですPS3はここの人たちで」

先頭の人が俺を止めに入ってきた。

その後も、まだ暗い早朝に色々回ってみるが、当日抽選販売をするというヤマダ電機以外は脈がなさそうだった。

しょうがないので、そこのヤマダ電機で、抽選販売にダメ元で応募しに行く。
そしたら、抽選販売に申し込みする人だけでも、山のような人だかりで、俺はもう無理だなと思った。
どうせ駄目だから倍率の高い60GのPS3にしようと、半ば投げやりな状態で応募した。

そして抽選発表が貼りだされる夕方17時過ぎに一応確認しに行く。
この日のことは未だに覚えていて、どうせ当たらないから腹いせに近くのリサイクルショップでレトロゲームでも買おう、そのついでに見に行こうというノリだった。

そしたら、なんとあたっていた・・・・!!!

60GのPS3の購入権を見事引き当てていた!!!

とはいえ、この頃も相変わらず極貧フリーター生活。
近くの郵便局のATMで7万円を引き出し、PS3とリッジレーサー7で6万4千円を現金一括払いで買った。

なんというゲーム運と当時は運命を感じたものだが。
まあ種を明かせば、このヤマダ電機で一番新作ゲームを買ってて、ポイントカードも登録して購入してたから、
お得意様から優先的に当たるような抽選方法を取っていたんだろうと思われる。
(この時どうやって抽選してたのかの方法は今となってはわからない。
ただ、店側としても購入権を抽選するといっても、確実に買ってくれる人を当てたいはずだから、顧客情報を見て当選を決めてた可能性は高い)

そんなわけで、こんなくだらない出来事があって、俺はゲームに関して何か運命線のようなものを当時感じた。
今思うと、馬鹿馬鹿しい思考性でしかないのだが、当時は、そうやって勘違いして舞い上がってしまうような出来事だった。

他のゲーム機も発売日購入はそれなりに難しかったのだが
基本的に予約解禁日をマメにチェックしてれば、まあそんなに大変なものではなかった




久しぶりに長文を書いて疲れてしまった
このテーマの話は次回に回したいとおもう

FF11無料期間でやったこと感じたこと

実はこれの記事を書く前に、結構時間をかけて今のFF11の実態とかを丁寧にレポートしたものを
途中まで書いたのだが、そんなもの他の有名所がやってるだろうし、俺が労力使ってまでやることじゃないと思ったので、素直にやったことと感じたことを書くことにした。

☆FF11は思い入れの強いゲームだ
前にも書いたが、俺はFF11全盛期にプレイしており、なおかつMMORPG初体験というゲームだった。
2013年12月フェイスとエミネンスレコードが追加された時点で、俺はFF11をやりたくてやりたくてたまらなかった。

それまでのFF11は遊びたくても何をやるにもパーティ組まないと不便。
俺がやってた頃(2002年から2003年)と比べれば遊べなくもないレベルにまで改善されたのだろうが、それでも一人だと色々と不自由で肩身の狭いものだった。

リア友で遊ぶやつでもいれば、だいぶやりやすくなるのだろうが、そうでもない人からしたら辛いゲームだ。

それが、フェイスとエミネンスレコードが追加されてから、ソロでも擬似4人パーティを組んで戦えるし、
経験値稼ぎのつまらなさをエミネンスレコードのおかげで、だいぶ効率よく稼げるようになった。

フェイスは、簡単に言うとDQ10のサポートのアレに近い。
エミネンスレコードというのは、PS3でトロフィー集めというか、アチーブ集めみたいなのに近い
条件をクリアすると初回のみ報酬アイテム(装備)がもらえて、それと経験値がもらえる。
繰り返し出来る項目もあって、簡単に達成できる項目を何度もやると沢山経験値ボーナスが得られる


エミネンスレコードはただのアチーブ集めで終わってなくて、一定項目クリアするとボーナスクエスト(シナリオ)が発生したりする。
それと、報酬の装備品を集めていくと、一々自前で装備品を買い集める必要がなくて、複数ジョブのレベル上げも楽になってて、装備品不足になったりもしない。

☆競売を見て驚く

いま、競売が競売として機能してなくて、競売にはほとんどアイテムが出品されてない。
全盛期やってた人ならびっくりするレベルだと思う。
素材を出品しても、中々売れない。敵が落とした魔法スクロールも同様。
ただ、ギルのインフレがすごく、運良く競売で売れると素材なら1個1000G、魔法スクロールなら1万から3万以上で売れる。
しかし一部アイテム以外、需要がないので、履歴見ても1年前のものが残ってたりする閑散っぷり。
出品しても売れないので、基本ドロップ品は店に売る。

この状態で困るのは、競売で揃えられる装備品が手に入らない
クエストアイテムも流通してないから、競売使えば簡単にクリアできるものも自分で用意しなければならないこと
競売でお金稼ぎが出来ないので、店売りでちまちま稼ぐのが基本になっている

この文章を書いてる時、昔、ウィンダスの戦績装備の帯剣を交換して10万Gだかそれぐらいの相場で出品してお金稼ぎしていたのを思い出して、今の状況と比べて泣けてきた。


☆気軽に冒険できるのが嬉しい
当たり前の話だが、昔のFF11ではこの当たり前も出来なかったのだ
少なくとも、俺がやってた時代はそうだった。

絡んでくる敵はソロではさばけないので、絡まなくなるレベルまで上げてからじゃないと、行動範囲が広がらない。
格下の相手、「楽な相手だ」に、楽に殺されるという矛盾した時代だった

それが今、フェイスを使うことで当たり前にできる
アトルガン地方や過去世界をこの無料期間で“探検”できたのが何より嬉しかった


昔はソロで行動する場合、スニークインビジ、通称インスニをかけて透明になることで、敵の目を逃れて行動していたのだが、
このメタルギアプレイがなんとも冒険している感が無く、ごちそうを目の前に指をくわえるだけという感じでつまらなかった

それでもインスニは、昔は効果が切れる時間が完全ランダムで、かけ直しするときは敵のいない所でしなければならず、
殺されれば経験値を大幅に取られることもあって、これはこれで緊張感のある冒険ではあった


今は死んでも経験値ロストは殆ど無いし、フェイスパーティのおかげで、適正レベルのマップなら全滅の危険がなく自由に冒険できるようになった。

絡んでくる敵は今も昔もうざいのはかわらないので
結局インスニ常備ではある


1人ではクリアが難しかったクエストも、今ならクリアが出来るようになっている。
昔は、クリアしても意味のないクエストは、人の手を煩わせるだけだからと放置されがちであった。
ソロでやれることが広がっているので、自分がやりたいと思ったことを大体実現できる。

クエストは、限界突破クエとアーティファクト取得クエぐらい
ミッションはメインストーリーということもあって、募集は頻繁にあった。
それ以外の人数必須のクエストはフレンドかリンクシェルの人らで暇で話のタネ程度で行くか行かないか程度の代物に成り果てていた。

☆遊びきれないほど膨大なクエスト、ストーリーがあるのだが
歴史あるゲームだけあって、クエストとストーリーのボリュームだけは凄まじい物がある。
世界も馬鹿みたいに広くて複雑でエリアの数は途方もなく、圧倒されるほどの広大さである

※ただし最初からこんな壮大な世界だったわけじゃない(俺がやってた頃は現在の1/5程度)

クエストもミッション(メインシナリオ)も、どこで受けられるか教えてくれないから自分で探さなければならない
条件を満たしても受けられるようになったかは教えてくれない。

また、仮にクエストを受けても、クエストリストの概要の説明文は進行のあてにならない
NPCも、次に何をしなければならないかを“具体的に”教えてくれないので自分で考えなければならない不親切な部分がかなり多い。

例)「○○というアイテムを持ってきて欲しい」→アイテム名を示すだけで、どこで手に入れられるのかは教えてくれない
例2)イベントシーンから次に何をするか予測しなければならないパターン→しかし遠回しすぎて何をすべきかわからない
例3)○○洞窟に行ったようだ→洞窟のどこにいるのかまでは教えてくれない


最悪のパターンとして、クエストリストにもヒントがなく、NPCは一度しかやることを言わず、2回目以降話しかけても何をすべきか話してくれないクエスト

こういうクエストがいくつかあり、クエを破棄して受け直す事もできないので、攻略サイトなどを見るなりしないと完全にハマるものがある

☆俺は結局攻略サイトを見ないで無料期間を過ごした
クエスト進行のテキストが不親切過ぎたり、システム的に不便なところが多く、とてもじゃないが攻略サイトでも見ながらやらないと遊べたものではない

だが、俺は敢えて無料期間は攻略を見ずに試行錯誤した

クエスト関係の不便さ
→NPCの会話はメモ帳にメモすれば良い
→クエストの発生しているNPCに地図でマーキングすると便利(ただマーキング出来る数が少なく足りなくなる街がある)

ファミコン時代のゲームかというタ○トシのツッコミが鋭いが、これだけでも「わからないことがわからない」状態が改善される。
それでも、ヒントの渋いクソクエストがあるため、自力での攻略は難しいが。

もっと具体的に何をすべきかヒントを与えるヨにしろとも思った。
だが、ヒントを与えすぎてサクサククリア出来ても、それはそれで作業になるし難しいなと思った。

俺は攻略見ないで自力でやろうとした
そしたら、どうしたら先に進めるのか自分で考える。試行錯誤する
例えば、ジラートミッションを進めようと思った。
「ウガレピ寺院ってどうやって行くんだ?」←ここから始まる
「中入ったけどどこ行ったら先に進むんだ?」
こうやって地図片手に寺院というダンジョンの中をウロウロする
敵に絡まれる→戦う
この一連の流れが実に冒険している感に満ちているのだ


久しぶりのプレイすぎて忘れていることが多く、わからないことがわからない
ゲームやってんのに、つらい、苦しいという気持ちになる

だが、俺はわからないことをわかろうとする

最悪だったのは、ウィンダスミッション6-1であった。
最初行く場所は覚えていたが、フェイス使って湧いた大量のイベントモンスターを倒したのはいいが
その後のイベントシーンが会話もなく意味不明で、どうすれば進むのかがわからなくなる

町に戻って聞き込みを始める
それっぽいNPCがこんなことを言う
「ホルトト遺跡の中央塔に行きましたよ」

俺「それってさっき行ったホルトト遺跡とは違うホルトト遺跡か?」

こんな訳の分からない状況が発生する!
(たぶんFF11知らない人には意味の分からない会話になってると思うw)

一連のやりとりははっきりいって無駄な時間を過ごしている
攻略サイト見れば一発で状況把握できることだ
これをやっている間の俺は、物凄くイライラしてて「おいこの辺いい加減なおせや」
なんて思ってた
(でも俺も年食ったからあまり感情的にはならなくなったw)
でもわかった時が快感なのだ
「あっそういえば中央塔なんて10年前に行ったな」という風に

(FF11のマップ構造は複雑で出入口が複数箇所あったり複雑につながり合ってる場合が多い)

☆こんなかんじで遊んでいたので
ゲーム的には、ほとんど進まなかった。

所属国ミッションは、6-1の「満月の泉」を超時間を掛けてクリアしたけど6-2のボスフィールドはフェイス未対応でクリアできなかった
ジラートミッションは、ウガレピ寺院のどこへいけば先へ進むのかわからず挫折
アトルガンミッションが1つ前に進んだだけ

あっちこっちフラフラしてるだけで、この一週間でLV64からLV69まで上がったのだから今のFF11は凄いと思う
ほとんどエミネンスレコードの経験値報酬だけで上がった。
フィールドで釣りしたり、採集ちょっとするだけで500EXPもらえたりするから凄い(NEXTは28000ぐらい)

必死にレベル上げしなかったのも理由があって、限界突破クエのクリア方法がわからなかったから

LV70の限界クエスト
偉大なる白魔道士の証を持ってこいと言う
“それ”はどこで手に入るんだ!?っていう!!
偉大なる赤魔道士の証は偶然とれたけど…


さすがにこれは直して欲しい(FF11のクエストは基本的にこういうノリ)
あと「ひとりでできる?」の糞バランスが放置されてるってのはどうなんだ?あれは誰がやるんだ…

FF11のサービスは後長くて数年で終わるだろう
結局、部外者からはFF11の運営をどうするつもりなのかなんてのはわからないから憶測で語るしか無い
現実的に考えて、FF11が遊べる期間はもうそんなに長くはないと思う
かといってここからの拡張ディスクの発売とかPS4進出!!もありえるかもしれないが

今5000円かそこらで拡張パック全部入ったやつが買えたはず。
色々時代遅れで古臭く理不尽なゲームだが、ボリュームだけは物凄い


まあ、この辺は付き合いきれねーなーと思ったら、攻略サイトという手もある

色々歴史的に影響を与えたというか
口が腐っても今の状況では良ゲーとはいえないのだが
何しろ12年前のゲームで、目をつぶってあげなきゃいけない部分が非常に多い
だが、DQ10のルーツになっていたり、FF11をやるとなんでFF14があんな感じのゲームになったのかとかがわかる。
間違っても今の時代、素直に人に薦められるゲームではない
だが、なにか物凄いフロンティアスピリッツを感じられるところはあると思う(かもしれれない)
そういうのに興味がある人はやってみてもいいかもしれない


☆プレイ開始後やっておくべきこと
・キーボードのpagedownでカメラを限界まで引く(デフォルトは寄りすぎて視界が悪すぎる)
・コンフィグのウィンドウエフェクトをOFFにする(レスポンスが飛躍的に上がる)
・チャットフィルターを確認、チャットのyellをON(範囲シャウト)
・12年ぶりのプレイで感じたのは戦闘中にマクロに頼り過ぎないほうがいいかも
よく使う魔法やアビリティを並び替えで1ページ目に持ってきて、コマンドから選んだほうがいいきがする

素人のゲームデザイン考(3):シミュレーターとしてのゲーム

沢山ゲームレビューしてきたというが、どういったところを見ていたのかというのを、最近文章化出来る目処が付いた。
それをシリーズ化して、いくつか記していきたいと思う。

なお、断っておきたいのは、筆者は、ゲーム技術者でもなければ、ゲーム開発に携わったこともなく、これといった勉強もしたことがないズブの素人だ。
ただ異常な数のゲームを体験してきて、その上での考察であることを断っておきたい。

☆なぜゲームなのか
以前ゲームへ強い興味をもった原因を紐解いていく!!といった記事を書いた。
ここではただゲームへ惹かれていったキッカケをアホっぽく描いているだけだ。

ゲームの面白さをブラックボックスにしてはいけないという
強い思いが、沢山のゲームを触れさせる原動力になったのだと思う。


売れた売れないじゃなく、なぜ売れたなぜ売れないじゃなく
どう面白い?どう楽しい?どうつまらない?という見方


これを解明するには、ただひたすら沢山のゲームをやっていくのが手っ取り早い。
ただし、これは最適解ではないことを付け加えておく。

やはり、他の娯楽、映画、ドラマ、演劇など人並み程度に体験しつつゲーム
それも作り手に回ることなどが必要だが、理想的に時間を使うことは現実的に不可能。

☆良いゲームの共通点
出来の良いゲームとかそういう優劣をはっきり付けるような書き方はあまりしたくないのだが、とりあえず。

面白い!!と思った、のめり込んでいくゲームというのはジャンルを問わず大体決まった共通点がある。

シミュレーターとして優秀であること。

イマイチ、ピンと来ないフレーズだとは思うのだが、ゲームバランスが良い、ゲームシステムが画期的とかそういうことは、
だいたい全て、シミュレーターとして優秀であるという一言に集約されていく。

つまり、画面の向こう側の世界がしっかり出来ていて面白いということである。

どんなゲームでも良いが、プログラムの世界でどのように表現するかというのが、ゲームの設計、仕様。
プログラムを使って何を表現するかというのが、ゲームの企画書に当たる。
※実際は企画書と設計と仕様はワンセット。

そして作りたいゲームの枠組みを決めていくわけだが、架空の世界だからこそリアリティを演出することでより説得力が出てくる。価値が出てくる。

ゲームはプログラムの世界だから、数字が全てを支配してる。数値と計算式で世界が表現される。
早い話、ここに説得力がないと、上滑りを起こすだけになってしまう

うまく説明できなくてもどかしいのだが、現実世界のシチュエーションをいかにうまくシステム化して再現できるか?がキモとなっている。

有名な成功例としては、実況パワフルプロ野球のミートカーソルが挙げられる。

それまで野球ゲームは、ピッチャーが投げたボールのタイミングに合わせてバットをワンボタンで振るという簡素なものだった。
駆け引きは直球のスピードボールか、直前で球が折れて下に落ちてしまい絶対にバットに当たらないボール球の2種類だけ。
時代も時代だったから、所詮ファミコンゲームの再現度なんてこんなものだよなという認識レベルだった。
(それでもそれで商売になった時代なのだから今振り返ると凄いと思う)


パワプロのミートカーソルは、バッターとピッチャーの駆け引きがかなりリアルに再現されたものと言える。
少なくともそれまでの旧世代の野球ゲームと比べると大幅にリアルになったし面白くなったのは紛れもない事実としてある。

☆ここで一つ理論に穴が…
現実世界のシチュエーションをいかにうまくシステム化して再現できるか?とはいうものの、実際問題、大半のゲームは現実では起こりえない、言い換えると、不謹慎なシチュエーションが大半を占めている。
アクションゲーム、シューティング、戦争SLG、ロールプレイングなど、多くは非現実で空想の世界を舞台としていることが多い。

敢えて現実世界と書いたのは、次の理由がある。

現実世界からネタを拾ってきてシミュレート(再現)したほうが
面白いものがゴロゴロしているから


シミュレーターという言葉を使っているのは、ここに理由がある。
架空の世界とはいえ、そこに感情移入したり夢中にさせるためには、どこか現実世界を感じさせるものがなければいけない。
お前はゲームのやり過ぎて頭がおかしくなったのかと言われるかもしれないが、以下の文。
現実の世界は、当たり前のことだが、色んな決まり事があって、成り立っている。
物理法則とか法律。人間の学習機能とかそういうものを、ゲームでうまく落としこんで再現されると、妙な納得感がある。

実際、洋ゲーと言われる海外で作られるゲームというのは、昔からリアリティをかなり強く意識してゲーム作りされている。

RPGだと、昔はパーティキャラに年齢というパラメータがあり、現実と同じように歳を取り寿命を迎えると死ぬという
今でこそこういう仕組みは淘汰されていったが、こんなせっかく思い入れの出来たキャラをあっさりシステムで殺すという非常に強いストレスを感じる要素まで現実世界に忠実に再現されていた。

ゲームの都合でマップが区切られて、エリアチェンジするというのもおかしい。だから世界のすべてを1枚のマップに統合したオープンワールドにしよう

海外ゲームの発想は基本的に、現実世界に忠実でリアリティを重視していて、それを技術で、力業で実現させるというところにパワーの源泉がある。

☆それでもゲームは沢山やってる方がいいという根拠について
ネタ探しを現実世界でするのなら、ゲームを知らなくてもやらなくてもゲーム作りは出来るんじゃないかという話になる。

半分YESで半分NOである。

知らなくてもやってやれないことはないが、やっぱり沢山ゲームやって色々なゲームを知っていた方がいい。

例えば、何かゲーム作りのアイディアがあって、それを具体的に形にする時、
既に似たようなもの、参考になるものが、既に先人によって作られたゲームの中に存在する場合
ゼロから創造する必要がない。

他の人はどういうふうに、このシチュエーションをゲームで表現したのかというものが、知っているのと知っていないのとでは効率が大きく変わってくる。
パクリ先を確保するためにゲームするのかではなく、既に有名所がこうやっているんだったら、じゃあちょっと視点を変えてみるかというオリジナリティの追求にもなる。

多く知っていればそれだけパターンやバリエーションを他の人より持っているというわけで、やはり色々な局面で有利になる。

☆ゲームではなくシミュレーターであるという考え
ゲームバランスを組んだりシステムを組んだりするとき、常に現実世界を意識してシミュレートしているという考えに基づいていると、破綻することが極端に減ると思っている

空想の世界を舞台にしたRPGでもこの考えは有効だとかんがえる。
バランス付けるとき、ゲーム開始直後、主人公は勇者という設定でそこそこいい武器持たせて攻撃するんだから基本ダメージは10前後は欲しい、固い敵だけ一桁で。
ザコは基本的に2発叩いたら死ぬ、1発叩いたら倒れる場合想定レベルを超えている
みたいな細かいところからはじめて、とにかく数字の基本値とか価値を作っていくと深みが出てくる

女の子の華奢な魔法使いが魔法唱えるより杖で殴ってるほうが強いとかだと誰もが興ざめすると思う。
とてつもなく細かいことなんだけど、RPGツクールでRPGを作るときでも、そういう細かいところを異様に気にすることで、なんとなく薄っぺらいとかつまんないという感じがなくなると思う

これは駄目だなと感じさせてしまうのは、プレイヤーが無意識にでも現実世界の価値と照らしあわせて、なんかおかしいぞこれって思ってしまうところにあると思う。
せっかくのボス戦なのに必勝パターンがあって、それやってるだけで終わっちゃうとか、強そうな敵が一撃で倒れる

こんな世界に没頭しろと言われても無理だとなる
まあゲームの作り方というと、リアルすぎても良くない部分があって、努力が報われるべきであるし
なんというか、プレイヤーの期待にもある程度応えなければならないため、ダンジョンの行き止まりには必ず宝箱があっていいものが入ってなければ時間の無駄にさせるとか、色々あるから一概に言える話ではないがそういう面倒くさいところはここで省く。

最後になる
ひたすら現実主義、シミュレーターという単語を口を酸っぱくして書き続けてきた。
それがここで生きてくる。

というのも、ゲームを作るとき、予め今の時代、ゲームのジャンルやルールのひな形が出来上がっていて、
多くの開発者はそれに習った作り方をする。

なぜならそれが合理的だから

どこに力を注いだり目が行ったりするのかというと、具体的に効果のありそうな部分に行きがちである。

だけど一旦、ゲームとして当たり前だからという要素を現実世界と照らしあわせて考える。
このゲームではここを現実的にちょっと変えようという風に。

倒されるだけだったモンスターが起き上がって仲間になるというのも、こういう発想から生まれたものと思われる。

お金にしても、ゲーム上のお金は、ゲームを進行させるためのアイテム、装備品を買うだけの価値しか無い
現実的に考えると、金の価値があまりになさすぎる
だから、ゲーム後半に余ってしまうことが多い(倹約家の人は特に余る)
それ以外に、戦闘や宝箱からアイテムなどゲーム資産が手に入るため、相対的にかなりモノだらけになりがち

単純に物価をあげるだけで解決できるが、それだけでは芸がない。
ただゲームバランスを厳しくしただけである。

金の使い道を増やすことで金の価値が大きく上がる
多くのゲームだとギャンブルのミニゲームを入れることが多いが、金で解決できるが大金が必要なクエストとかありがちだが
金の使い先がありすぎてたりねーって状態になれば、なかなか現実的で面白いと思っている。

個人的には(RPGの話ばかりで悪いと思っているが)、一度行ったことのある場所へワープできる魔法、アイテム
便利だがおかしいと思っている
桃太郎伝説でもそういう魔法があるが、瞬間移動じゃなくて目的地に高速移動する設定になっている。
あれもワープなんて簡単にできることじゃないっていう思いが込められているのかと今更ながら思う。

もう一つは、補助魔法をかけたら基本能力値が上がったり下がったりするアレ
戦略的には面白いからこれだけ多様されているんだろうけど、現実的に考えるとおかしいよなと
魔法かけるだけで筋力がゲームによっては2倍以上に上がったり、上限のない昔のゲームだとカンストまであげることが出来る
その逆に、弱らせることが出来るというのも、なんだか簡単にユニットの能力を否定しているようで個人的には好きではない

と言うふうに、ゲームの面白さのメカニズムのキーポイントとして優秀なシミュレーターかどうかというのが普遍的な理由としてあるのではないかというように感じている。

自分が好きだとか面白いと思っているゲームを振り返った時、どこかリアリティの強い部分が必ずあったりしないだろうか?

そんな話。

素人のゲームデザイン考(2):壁際のカメラワークの問題

沢山ゲームレビューしてきたというが、どういったところを見ていたのかというのを、最近文章化出来る目処が付いた。
それをシリーズ化して、いくつか記していきたいと思う。

なお、断っておきたいのは、筆者は、ゲーム技術者でもなければ、ゲーム開発に携わったこともなく、これといった勉強もしたことがないズブの素人だ。
ただ異常な数のゲームを体験してきて、その上での考察であることを断っておきたい。





前回、1回で収まるように、ムリをしてでもカメラワークの考察を書いたのだが、このテの話題で壁際のカメラワークについてよく議論されているので、独立して語ることにした。

というのも、色々他の考察を読んでいくと、自分から見てあまりにトホホな内容になっていることが多いためだ。





なぜ、壁際のカメラワークといった問題が出てくるのか

前回記述したように、立体処理が可能となったことで、ゲームで使われる舞台に凹凸(おうとつ)が付けられるようになった
それまでは、どこまで行っても、方眼紙の世界だったから、壁という障害物が存在しなかった。

つまり、視点を遮るもの(=カメラの挙動を邪魔する存在)が、平面処理のゲームでは、絶対に存在し得なかった

しかし、ポリゴンを使った、三次元処理になると、x軸(横)、y軸(縦)、そして三次元を成立させるz軸(奥行き。高さにおける上下方向)の概念が登場する。

z軸の概念は、3次元空間を表現するための必須要素であり、カメラワークとz軸は、お互いがぶつかり合い、せめぎ合い、どのように処理するべきか、という好敵手のような存在となっているのだ。





コナミの持ってるらしい特許「カメラワークの透過処理」はそれほど大きな効力を持たない

これは、ゲーム業界の関係者じゃない視点による考えなので、大いに的外れな点も多くあると思うが、筆者の文章の書き方は、体感を重視しているので、それを前書きしたうえで書く。

おそらく、一番気になっているだろう話題を、先に潰しておこうと思う。

コナミが出願している特許の原文を一応読んでみた。
最初に断っておくが、読む価値が無いので、それっぽい特許を取っているという認識を持つ程度で構わない。

それではなぜ、大きな効力を持たないのかというと、理由を幾つか。

コナミが特許侵害で仮に裁判沙汰を起こしたとする。
民事裁判というのは、御存知の通り、結構ゴネることが出来る世界なので。

例えば、壁を無視してカメラワークを取ったゲームがあって、手前の壁やオブジェを消して表示しているとする。

それで訴えられた場合、これを作った開発者も、結構な言い訳を出来る余地があるから。

・このゲームは、壁がある設定ではあるが、ゲーム上では表示してない
・半透明ではなく完全に透明、消失処理しているから侵害してない(原文通りだと、半透明と記載されているが、半透明と透明だと意味合いが異なる)

まだ色々、バカバカしい言い逃れが思いつくのだが、書いててあまりにバカバカしくなってきたため、このへんにしておく。






壁際のカメラワーク問題を解決しているゲーム

やはり過去発売されてきたゲームを例に出して解説したほうが説得力があり早いと思われる。

・スーパーマリオ64(任天堂/N64)
カメラ自体に当たり判定をつけているように見える処理をする。
一方で、壁を貫通して視点移動出来る場面も多くあり、統一性がない。
どちらかと言うと、衝突判定をつけているのではなく、場所ごとに、視点移動の制限をもうけているのだと思われる。
プレイヤーとの間に、壁が挟まった場合、それらは透明処理される。
また、逆に、透明処理の解決が難しい箇所の場合は、強引にプレイヤーを映そうとカメラが勝手に動く。
これらは、3Dゲーム黎明期の作品だったため、考えぬかれたというよりも、場当たり的な対応をしていただけだと思われる。
それから、マリオ64では、もう一つ取られた解決方法として、四方の壁を取っ払ってしまったり、障害物を減らすマップデザインを意識しているエリアが結構多くある。

・ゼルダの伝説 時のオカリナ/ムジュラの仮面(任天堂/N64)
そもそも視点操作を実質的に禁止した。カメラ操作はZボタンでプレイヤーの背後に回りこむ、いわゆるデフォルト視点にリセットする形(あとは主観視点での見回しのみ)。
この思い切りには当時驚いたものだった。ゼルダ64は当時、マリオ64の進化後継的立ち位置だったため、視点制御を不便にしてしまったことに、若かりし頃の自分は理解不能だった。

なぜこのようにしたのかというと、理由は1つしか考えられなくて、壁を貫通して透明処理させてしまうととんでもなく間抜けな絵面になり冷めてしまうからだ。
マリオ64では、カメラが壁を貫通できる場面が数多くあるが、おそらく開発者の想定外で、出来る限りそういう視点にさせたくなかったが、壁が邪魔になることによる不快感を同時に出したくなくて、やむなく残していたのだと思う。

このへんの解決策が、はっきりと完成されないまま、ゼルダ64は開発されていったため、視点制御をプレイヤーから実質的に取り上げることで解決を図ったのだと思われる。

ちなみに、ゼルダ64では、Z注目(ロックオン)中のみ、カメラの衝突判定が無視され、障害物の透過処理も行われる。
これについては、この状態なら、透過処理しても、やむを得ないだろう、敵自体はこちらでルーチン管理できるし、という判断だったと思われる。
確か水の神殿だったか、どこだかで、間抜けな絵面になってしまうところはあったが、開発者的には許容範囲というか、しょうがないと諦めたんだろう。

続編GC風のタクトでは、ハードスペックが上がったこともあり、カメラが壁を超えてしまうことは絶対になくなった(はず)。

・ドラゴンクエスト4/5/6/7(スクウェア・エニックス/DS/3DS/PS2)
アルテピアッツァがリメイクしたドラクエ全般。
360度マップを回せるが、屋内に限り、手前の壁が透明処理される。
屋外では、マップを回転できないか、オブジェと衝突判定があり、ぶつからないように動く。
屋内に限り、そのような処理を許しているのは、背景が黒バックで、絵的に違和感を与えることがないからという判断だと思われる。
(PS1のDQ7/4は、まだ手前の壁の透明化処理されておらず、どの視点にしても物陰が出来てストレスを感じた不満に対しての答え)

ちなみにこれはドラクエの専売特許ではなく、3Dゲーム黎明期に発売されたポリゴンフィールドRPG(S.RPG)では、初期から採用されている。

例を出すと(発売順に記載)
・ファイナルファンタジータクティクス(スクウェア/PS1)
→屋内マップで手前に壁が来た場合、透明になったが、それでも一部マップで物陰が解消されない部分があった
・グランディア/2/エクストリーム(ゲームアーツ/SS/PS1/DC/PS2)
・ゼノギアス(スクウェア/PS1)
など





壁の透過処理とはいうけれど

透過処理と言うより、昔のゲームは、特別何かしてたというわけではないと思う。
というのも、PS1/SS/N64時代のフルポリゴンゲームだと、スペック的に壁のポリゴンは1枚が当たり前。

で、これにテクスチャを貼り付けるわけだが、裏側から見たテクスチャーまでわざわざ計算してない(というかデータを持ってない)。
だからまあ、透明にせざるを得ないというか勝手に透明になっていたとまではいわないが、なし崩し的にそういう設計になっていたと言うのが、事情だろう。





なぜわざわざカメラに当たり判定を付けるのか

現状、ゲームプレイヤーがストレスに感じてしまっている壁際のカメラワークについて
その最たる原因が、カメラに当たり判定を付けてしまっているせいというのは、言い逃れようのない事実だ。

いくつかカメラ処理について例を挙げてきたが、最後にゲームとカメラワークの歴史について軽く触れて締めていきたい。

筆者はマリオ64を大好きで沢山プレイしたが、同時に神格化したくないので、ここらで穿った見方を披露したい。

マリオ64の素晴らしさとか、凄さとかはもう、さんざん他で語り尽くされているので、ここではそういう話じゃなくて、マリオ64におけるカメラワークについての話をする。

ジュゲムカメラがいる世界観が、宮本茂は天才だ!など囃(はや)し立てられていて、このジュゲムカメラがいかに優れているかだのなんだの書かれていることが多いが、はっきりいって自分から見れば茶番の一言でしか無い

これって要するに、逆説的な見方をすればカメラワークのプログラムを擬人化出来るほど手間暇かけましたよ!!というエゴの一つである。
ジュゲムカメラ自体の存在が優れているのなら、続編の「スーパーマリオサンシャイン」でも登場させればいいのに、カメラワークに関しては、カメラのアイコンが出てくるだけ。
それ以降、「スーパーマリオギャラクシー」でも、やっぱりカメラのアイコンが表示されるだけにとどまっている。

ではなぜわざわざゲーム冒頭にジュゲムカメラを登場させたのか?
なにも筆者も、開発者の苦労を見せつけるためだけに、登場させたなどと思っていない。

パソコンやスマホが普及してきた今なら理解してもらえると思うが、カメラのルーチンを作成するとなると、それだけプログラムを走らせるためのリソースが必要になる。

通常のゲームプログラムを走らせると同時に、カメラワークのタスクも計算しなければならない。
当然ながら、3Dゲーム黎明期のコンシューマ機、PS1/SS/N64には、そんな余裕なんて無い。

だから、カメラ操作なんてのは、プレイヤーに投げっぱなしのほうが楽だ。
いかなる状態でも、常に被写体(プレイヤー)と一定距離を取る、L1,R1で一定角度回転。
この仕様が、最もマシンに負担がかからず、カメラ操作できる作りであり、PS1/SS用のゲームはたいていはこの仕様で作られてる。

このカメラルーチンには、カメラの当たり判定ももちろん入っている。

何度も書くが、PS1/SSは、完全な3Dゲームを動かすだけでも結構大変で、ポリゴン処理出来るハードと言っても、
現実的には、2.5D程度のゲーム(例えるなら飛び出す絵本程度の簡単なもの)を作るのが手一杯だった。

そこをなんとか、当時の開発者は、色々工夫して、箱庭風味のアクションゲームやRPGを作っていたというのが現実。
だから、カプコンのバイオハザードとか、スクウェアのファイナルファンタジーなんてのは、プリレンダの1枚フィールドで、2.5Dという収まりのいい仕様で作られ、結果的に大成功を収めている

PS1/SSで、そうやって3Dゲームを作成するのに四苦八苦している中、1996年6月23日マリオ64とN64は発売され世界に衝撃を与えた。

このとき、多くの3Dゲームは、まだ、カメラワークについては、手を付けられる余裕も技術もなく、手付かずの状態だった。

マリオ64は、N64のマシンパワーを見せつける必要性もあり、その手段の一つとして、カメラに当たり判定を付けること、カメラ自体に意思を持っているように見せることでリアリティを演出することにした。
種を明かせば、ジュゲムカメラは発明でも何でもなく、N64のパワーを誇示するために生まれたキャラクターだったというわけだ。

このメカニズムから、どうしてカメラにも当たり判定を付けることが常識になったのかを理解してもらいたい。

プレイヤーは良くこのクソカメラ!などと憤慨することが多い。
しかし、カメラに当たり判定を付ける演出によって、自然とそのモニタの中の3D世界と一体化させようとしている。

カメラ操作できるゲームで、自然と障害物を避けて動くカメラについて、ストレスを感じることはあっても、違和感を覚える人はいるだろうか。

黎明期の3Dゲームは、この当たり前のように行われている処理すらされていないゲームがほとんどだった。
カメラが3D世界の壁を障害物として認識しないで、貫通して動き、被写体(プレイヤー)の邪魔になるものは勝手に排除されて映される。

これほど興冷めされるカメラワークはない。

わざわざカメラが壁を認識して、視点を勝手に近づける。

これをしないと、さんざん書いてきたが、間抜けな絵面になる

間抜けな絵面というのはどういう絵面かというと、地層の断面図を見ているかのような、現実には絶対にありえない構図が画面上に展開される。

それは、どちらかと言うと、現実に存在するもので例えると、舞台を観客席から見ているような状態に近い。

古いたとえで申し訳ないが、
ドリフのコントで、外、玄関、家の中というセットを想像して欲しいが、こんな断面図みたいな構図、舞台だから許されるわけであって、現実では絶対に見られない。





だから、というわけではないが、結果的にカメラに当たり判定を付けることが合理的な処理であると認識されるようになっていった。

で、前回書いた、カメラ操作できるゲームは、実は作り手には制約が多く、思い通りの地形を作れないし、アクションゲームにも向いてないと書いていったのは、このような認識を持っているからだ。

思い通りの地形を作れない理由は、このクソカメラ!ってなってしまうので、その原因を取り除いた結果が、前回書いた

・画一的で、柱や本棚みたいな障害物がなく、地面は平坦で、できれば空中には何もなく、巨大な空間が広がる大部屋
・出来る限り、ひと目で地形を認識できる単調な構造
・理想的なのは、四方に壁のない屋外。

アクションゲームに向いてないのは、意外と地形、敵などの距離感がつかめないから。

・周囲の敵の状況やオブジェなどの距離感をつかみやすくするためには、被写体(プレイヤー)から引いた状態が望ましい
・しかし、カメラと被写体を遠ざけすぎると、間に障害物が入る確率が大幅に上昇する
・現状、俯瞰カメラのゲームは、2Dアクションで極端に視界を狭めた状態で遊ばされている不便なゲームになりがちである(加えて、その視界を自分で操作しなければならない負担を強いられる)

この問題を解決するためには、バイオハザード4がやったように

・カメラと被写体(プレイヤー)の距離を縮めてぴったり貼り付けてしまえば良い

しかし、あまりに近づけると、アクションゲームとして不向きになる
結果、飛び道具で戦い合う、FPSライクなゲーム以外では扱いにくい、使用用途の低い代物になる。


補足すると、FPS(一人称視点)では、視点の問題は全く発生しない。
なぜならカメラとプレイヤーが完全に同一化しているため、カメラにとっての障害物とプレイヤーにとっての障害物が全く同じ状態になっているからだ。





通して読みなおしてみると、開発者の都合ばかり考慮されているような印象になった。

そうではなくて、一つ言いたいのは、たったひとつだけ、プレイヤーへの利点を述べる

・カメラに当たり判定があり、壁際で勝手にカメラが近寄ってくる利点は、後ろに壁(障害物)があることを教えている

カメラを自由に操作できるのだから、要は、開発者としては、180度反転して欲しいって言う意味合いになる。
カメラ操作をフリーにしているのだから、逃げ道としては当然それが最も妥当という話になる。

ここで、やっぱりカメラを壁にめり込ませてでも快適性を追求すべきってのは、カメラワークの歴史の観点から見ると、退化しているようにしか思えない。

そうなると、壁際での戦闘を避ける地形や敵配置などが求められてきて、カメラ操作できるゲームというのは、作るのが本当に大変で難しいものになっている。





最後に余談

モンハン持ちっていう言葉が一時期流行っていた。
PSPにスティックが2本ないから、十字キーでカメラ操作が割り振られていたためプレイヤーの間で作られた戦術だ。

しかし、マリオ64のCスティックの操作性をわかっていたら、もっとPSPで快適なカメラ操作を実現できたと思うのだが、この辺が体系化されてないような気がして外様の身分からすれば残念でならない。

素人のゲームデザイン考(1):カメラワークについて

沢山ゲームレビューしてきたというが、どういったところを見ていたのかというのを、最近文章化出来る目処が付いた。
それをシリーズ化して、いくつか記していきたいと思う。

なお、断っておきたいのは、筆者は、ゲーム技術者でもなければ、ゲーム開発に携わったこともなく、これといった勉強もしたことがないズブの素人だ。
ただ異常な数のゲームを体験してきて、その上での考察であることを断っておきたい。





今回のお題はカメラワーク
1994年末、PS1/SS/N64以降、ゲームにおいてポリゴンによる3次元的表現が当たり前になったことで、ゲーム作りにおいて、カメラワークという、表現技法が登場した。

平面的処理が主体だった頃は、そもそもカメラワークという概念が介在する余地がなかった。
ゲームを動作する、マシンパワーが、立体的処理出来るほどのちからを持っていなかったため、どこまで行っても2Dの平面処理の壁をぶち破ることが出来なかったためだ。

いくらゲーム側で、三次元的な演出や、立体感を出していても、それは擬似的なものでしかない。
つまり、昔のゲーム開発者というのは、制約が厳しい中いかに工夫して映像を表現するかということに異常なほどのリソースを割いていた。

具体的に、昔のゲームが、どのような形で表現されていたのかということを、わかりやすく説明する。

方眼紙の上に、コマ(プレイヤー、敵、障害物)を置いて、その上でコマ同士をぶつけあう程度のものだった。
プレイヤーは、それを真横(サイドビュー)からみたり、真上(トップビュー)から見下ろすといった、ゲームが成立する視点から見てゲームをプレイする。

真横から見てる、真上から見てるというのも、それは、そういう設定にされたゲームというだけであって、方眼紙を一定角度(真上)から見ているという仕組み自体は一緒である


これは三次元処理が主流となったゲームでも、原理的には変わらないが、ポイントなるのは、三次元処理のゲームでは、コマ(プレイヤー)の一人の視点からゲームを遊ばせることが出来たり、視点を自由に動かすことが出来る。
しかし、昔のゲーム機は、一度決められた視点を変えることが出来ず固定するしかなかったため、真横から見る、真上から見るような、いわゆる決められた神の視点と呼ばれるところからしかゲームを遊ばせることが出来なかった。

ざっくり過ぎるだろ・・・と思われるかもしれないが、専門用語など一切使わず、誰にでもわかるような説明の仕方となると、これぐらいシンプルにものになる。

まあ、ゲーム機によっては、

・方眼紙を3枚まで重ねて、それぞれを自由に動かすことが出来る(スーパーファミコン)
・方眼紙のうち1枚を好きな角度から見せることが出来る(スーパーファミコンの回転・拡大・縮小処理の応用機能)

こんな素敵機能を備えていたりするが、基本的に平面処理のものを擬似的に立体化するための補助機能でしかない。

方眼紙を好きな角度から見せることが出来るというのは、有名所で具体例を出すと、

・F-ZERO(任天堂)、スーパーマリオカート(任天堂)
・ファイナルファンタジーシリーズの飛空艇(スクウェア)
・パイロットウイングス(任天堂)

このへんになる。

これらの例を想像すると、実質的にスーパーファミコンの時点で、3次元処理が可能になったのでは?という話になるが、それは違う。

方眼紙を制限なく好きな角度から見れることで、モニタの中に3D空間が広がっているかの錯覚を感じるほどの表現力を実現しているのは確かだが、ここで一旦冷静になってほしい。

しょせん色んな角度から方眼紙を見せれるようになったところで、それはどこまで行っても、紙ッペラ一枚を、ぐるぐる回したり斜めにしてる程度で、厳密に3次元空間が広がっているとは言いがたい。

1枚の書類を、遠ざけたり近づけたり、ぐるぐる回したりしているだけであって、原理的にはこの上にコマを置いて、ゲームをやりとりしているだけで、やっぱり二次元の平面処理なのである。

スーパーファミコン辺りになってくると、これができるようになった、あれができるようになったという話が出来て、
それ以前の、PCエンジンは、メガドライブは、PC88は、ファミコンは、こういう制限があって、とか
知識自慢や懐古に浸って、色々喋りたくなるが、カメラワークの話から大きく逸脱してしまうためにこのへんで締める。





それでは、ポリゴンによる三次元処理が主流になって、ゲームの遊ばせ方がどのように変わったかということを述べる。

前段でも軽く書いたが、全てが平面処理で構成されていた(せざるを得なかった)時代のゲーム機と、大きく変わった点がある。

・固定された神の視点の呪縛から解き放たれ、あらゆる角度からゲームの世界を見せることが出来るようになったこと

先ほど、平面処理のゲームの仕組みについて、方眼紙に例えた。
これが、ポリゴンを用いた三次元処理になると、事情が大きく異なってくる。

世界に凹凸(おうとつ)を付けることができるようになったことで、方眼紙で例えることができなくなる。
例えるなら、ミニチュア、ペーパークラフトが舞台となって、これをあらゆる視点、角度から見て、ゲームを遊ばせるという形へと進化した。

ここで、必要となるのがカメラマンの存在だ。

なぜなら、これまではある一定の固定された視点があったために、そんなものは必要なかった。

もっと厳密に書くと、ゲーム界からすれば、その概念自体不要だったから、必要なかったというよりも、意識する必然性が出た、という方が適切である。


だからゲームは進化したんだよ!テクノロジーの進化って凄いね!終わり

ゲームで飯食ってる著名人なら、この程度で原稿料が出て凄い面白いタメになったとかチヤホヤされてWin-Winなのだろうが、この話はここで綺麗には終わらない。

ここからが本題となる。

このカメラワークの概念について、ゲームをどのように見せていくべきかという方法論が、今回のお題のメインとなる。

カメラワークについては、大きく2種類の方法論がある。

・開発者が予め設定した視点で見せていくタイプ。
・プレイヤーを中心として、常に一定距離を保ち、プレイヤー自身がそのカメラを必要に応じて操作するタイプ。

RPGの移動パートでは後者、戦闘パートでは前者というように、厳密には合わせ技で構成されているものがほとんどだったりするが、基本的に、ゲーム内で極端に比重の大きい方を“採用している”こととしている場合が多い。

それぞれに一長一短と、性格がある。このエントリでは、そこについて切り込んでいきたい。

あと、前置きとして、ややこしくなるので、いわゆる箱庭系ゲームというか、3Dフィールドを徘徊するタイプのゲームを主軸として書く。
ポリゴンだけど、横スクロールアクションとか、3D格闘ゲームとか、そういうのを含めていくと、ごっちゃになって説明が面倒になるので、そぎ落として書く。




開発者が予め設定した視点で見せていくタイプ

プレイヤーの位置によって、開発者が適切だと思った、或いは、見せたいカメラ割りが自動で行われる

メリットとしては、

・カメラマン(視点操作)の制御プログラムを作る必要がない
・コントローラーに、カメラ操作の割り振りがいらないので、そのぶんボタンの数を減らしたり、空いた部分を別の操作に使うことが出来る
・陳腐なマップデザイン(極端に言えば単なる一本道のマップ)でも、カメラの演出一つで、見栄えの良いものに魅せることが出来る
・都合の悪い部分、見えない部分は作らなくていい、もしくは、見ることのない部分、裏データをごまかしてメモリ削減出来る(ゲーム機の性能が上がった現在ではほとんど考慮されないテクニック)
・カメラ操作がないので、プレイヤーをその分ゲームに没頭させることが出来る
・総括すると、全般的に開発者に都合の良いカメラワークを設定できる

一見、開発者に都合が良いシステムに感じるが、デメリットもかなり多く存在している。

・当然のことながら3Dフィールドのすべての部分に、開発者がカメラワークを設定しなければならない
・見やすい遊びやすいだけでなく、カメラのカット割りの演出にセンスが求められる(3Dらしさや立体感を出す必要がある)
・方角を見失うような突飛な視点になりがちである
・視点の切り替わりのタイミングや決まり事に対して慎重になり、配慮しなければならない
・行ったり来たりするゲームの場合、ビハインドビュー視点の仕様だと“行き”は奥へ向かっていたが、“戻り”では、カメラに向かって手前に走り続けるという、滑稽な状態に陥る場合がある(この場合、逆戻りしても激しい違和感を与えないカメラワークにする必要がある)
・開発者に都合が良いといっても、マップの構造が意外と把握しづらいなど(特に方角が迷いやすい)、自由自在にやれる部分が思っていたよりは少ない。
・プレイヤーを映す視点の角度が突然切り替わると、プレイヤーの進行方向と入力方向に誤差が出る問題

これは、奥へ進むために、スティックで上を入力していたのに、曲がり角で突然、カメラが切り替わって、
入力方向がおかしくなってしまう問題。

図解したら一発で分かる話で、お絵かきツールで書いてみたのだが、惨憺たる有様だったために困っている。

この問題を回避するためにバイオハザードでは操作方法にいわゆるラジコン形式を採用していたが、結局直感的なインターフェイスはどっちかという話になっていくと、スティック操作へと収束していった。





プレイヤーを中心として、常に一定距離を保ち、プレイヤー自身がそのカメラを必要に応じて操作するタイプ

今現在、主流となっているシステム。
ハード性能が上がった現在だから主流というわけではなくて、3Dゲーム黎明期から、3Dにするんだからこっちのほうが良いだろうと、実は意外と、こっちを採用しているゲームのほうが今も昔も多い。

左スティックで移動、右スティックでカメラ操作
と言う、操作方法が確立されているが、個人的にはこれが最適解か?というと、まだまだ操作形態については模索する余地があると思っている。

3Dゲーム黎明期の傑作、N64「スーパーマリオ64」は、それなりに良いカメラ割りがされていながら、Cボタンの左右で90度ごとにカメラ回転できた。

「スーパーマリオ64」の場合は、本体ロンチで出す以上、それなりにカッコの付く、絵作りもしなければならなかったから、
カメラ操作もできるけど、ある程度いい位置に勝手にカメラも動きますよという風にせざるを得なかったんだと思う。

たぶん本当に最初は、ここまで勝手にカメラが動くんじゃなくて、自分で動かすような感じだったように思う。
それだとあまりに味気ないから、色々補正をかけていった結果、あんな感じになったんだと思っている


今はカメラ操作できるゲームは、プレイヤーに全てを委ねているが、マリオ64みたいに、合わせ技であがいてみるゲームがもっと出てもいいと思っている。

このシステムは、プレイヤー本意なシステムだからか、メリットも多いが、デメリットもたくさんある。

メリットについて。
・プレイヤーがカメラ操作するため、ゲーム全体に統一感が出る
・また、プレイヤー視点で操作するため、あらゆる場面で、視点に関しての理不尽なストレスが軽減される
(プレイヤーの目線で見るので、画面上のプレイヤーと見えないものが殆どの場合一致していたり、そういう面で一体感がある)
・フィールドをプレイヤーの好きな場所から、眺め回すことが出来る、自由度が高い。制約がない(ように見える)

メリットといえば、実はこれぐらい。
とはいえ、3Dゲームでは、これだけのメリットが実は非常に大きくて、これを成立させるために乗り越えなければならないデメリットがかなりの負担となっている。

以下、デメリット
・ストレスのないカメラマン(視点操作)の制御プログラムを作らなければならない
・コントローラーにカメラ操作の機能を入れなければならないため、その分ボタンが必要になる。理想的なのはアナログスティックが2本というハードルの高さになる。
・マップデザインやモデリングをごまかせない。細部まで、大写しにして見られるので、手抜きできない
・どうやってもプレイアブルのカメラワークが味気なくなってしまう(常にプレイヤー中心の視点になるため)
・カメラ制御させるために、ストレスを与えないマップデザインが要求される

理想的なのは、何もない(柱すらもなく平坦な地面で構成された)大部屋、壁のない巨大な空間が広がる屋外。
なぜなら、壁や障害物に当たり判定をつけて、カメラとオブジェクトが重なり合わないように作られるため。

3Dゲーム黎明期は、カメラに衝突判定を付けないゲームが多かった。
衝突判定を付けず、カメラが壁や障害物を無視して距離をとった場合、プレイヤーはそれらに隠れてしまうことになる。
だから、プレイヤー手前のオブジェを消して表示していたゲームばかりだった。
ところが、この表示の仕方は間抜け極まりなく、カメラにも当たり判定を付けて表示するゲームが主流となった。

その文法で解釈すると、一番最初に書いた地形が理想的となる。
良くこのへんの壁際のカメラワークの悪さはコナミが特許をとってるせいだ!等と言われているが、
素直に透過処理すると、リアルなHDゲームも、あっという間に間抜けな絵面になって世界観が崩壊してしまうからである。

・意外とアクションゲームには不向き

上記の仕様のせいで、実は意外と敵や周囲の地形との距離感が掴みづらく、加えて、カメラ操作もしなければならないため、ACTゲームとの相性は良くない。
証拠として、距離感を取りやすくするためにロックオンシステムが苦肉の策として搭載されている。

まず、壁際での戦闘を避けるようなマップデザインが求められるし、アクションゲームてきに、平坦な地面で、大部屋ばかりで、巨大な空間のマップって言うのは、ゲーム的につまらないものになってしまう。
100%理想的なマップにしなくても、ゲームにはなるのだが、そのぶんプレイヤーへのストレスが蓄積されるため、そのさじかげんを取る必要がある。

これらの問題をクリアしているジャンルのゲームというと、ゲーム的に動的要素が少ない、RPG、MMORPGとの相性が良い。

ちなみにバイオハザード4などTPSタイプのゲームは、これら問題点を、ほぼプレイヤーとカメラ位置をくっつけた状態にすることで解決している。
だけど、性質的には殆どFPS化しているために、銃撃戦メインのゲーム以外では、あまり使える場面が少ない(使えてない)







後半はゲーマーじゃないとわかりづらい話になっているが、それでも、なるべくわかりやすく書いたつもりだがどうだろうか。

通して読んでみると、ゲームがポリゴン化したことで、弊害を多く抱えているという印象を持たれたかもしれない。

個人的にも、そう感じていることが多いが、それでも臨場感や迫力は、ポリゴンという技術を得たことで、圧倒的に表現力が上がったと感じている。
が、同時にゲーム開発で考えなければならないことなどが増えて、ハードルが格段に上がってしまったように思う。

素人の立場からの分析だから、どうやってもプロには劣ってしまうのだが、色んなゲームをやって、見ているところがどこかというのがこれらのお話から漠然と理解してもらえると良いと思う。

当然ながら、自分の中のすべてを文章化できているわけではないので、書き漏らしている部分も多くあると思っている。

評判が良いか、モチベが続けば、このシリーズは続きます。

ゲーム会社に入ってゲームを作りたいけどどうしたらいいんだろう?って言う悩みについて個人的な意見

ゲームという媒体に、夢もロマンも無くなって久しい時代。
まだ、目をキラキラ輝かせて、ゲームクリエイターになりたい!!って言う若者がいることに、ちょっと感動している。

ネット見てたら、相談してる20代の若者がいて、案の定袋叩きにされてるし、結局「まず1本ゲーム作ってみろ!!」って言う予想通りの流れになっているところも、ブレない展開で笑ってしまった。

もし、自分が社会的に成功してて、(まあ今は絶対ゲーム会社に入ってゲームを作るって言う漫然とした気持ちはないのだけど)仮にゲーム会社に入ってて立場ある人間だったら、ちょっとネット上でアポ取って話した上でトライアル雇用みたいな形で入れてあげたくなる。

これが、1990年代を体験したいわゆるファミコン世代なら、こういう夢見る人が珍しくなかったから、そこまで感情移入しないけど。

昔、「スーパーマリオクラブ」って任天堂一社提供の番組があって、その子供向けの番組で、
「ゲームクリエイターになるにはどうしたらいいんですか?」って言う子供の質問に対して宮本茂がこう答えていた。

「とにかく遊ぶ。ゲームだけでなく、外で、色んな所で」

他のクリエイターでも、こういう受け答えをしている人がいるのだけど、自分的には、とにかくこれが一番だと思っている。
これは、そう言われて自分が当時思ったのが、実に漠然としてて、抽象的で、具体的にはどうすればいいのかってのが知りたいのに、「何を言ってるんだ・・・答えになってないじゃないか」と落胆したものだった。
だが、いい年齢になってきた今になると、この言葉の意味がよくわかってくる。

「ゲームを1本作って、ゲーム制作の苦労を味わう」ってアドバイスは、当たらずといえども遠からずという感じで、いわゆる荒療治というか、早道ではあるんだけど、困難を伴う、現実主義過ぎる答えだと感じる。

というのも、一人でゲーム作って当てられる才能と実力があるのなら、ゲーム会社という組織に入って群れながらゲームを作る必要性がない。だから同人でゲームを作るってアドバイスは的確ではあるんだけど、ちょっとズレてもいる。
もちろん、技術のない(学生時代に修得する機会がなかった)人で、自分のように、それでも漠然とゲーム屋に行きたかったみたいな難民は、見えていないだけで、大勢いると思っている。
そんなファミコン世代も、続々と高齢化して、夢半ばにして志を諦めて、かなり消えていったとは思う。

それで、自分的に、この手の悩みについての答えは、

「ゲームをやりまくる」

ってことしか、無いと思っている。

ただ遊ぶだけじゃなく、色んなジャンルの色んなゲームを、一般人には真似できないほど遊びつくす。
できれば、ゲームを終えた後に、感想を書いてレポートにまとめる作業もセットでやる。

ただ遊んでるだけじゃないか・・・という話になる。
だから最初に宮本茂のアドバイスを書いた。
もちろん、ゲームだけじゃなく、色々見識を深めるべきなんだけど、その一番優先事項として持ってくるのがゲームということだ。

自分がいいたいのは、これすら続かなかったらゲームを作るなんて作業がそもそも出来ない、続かない
1,2年程度で飽きちゃったり、苦痛で続けられなくなったら、その程度の熱意しかなかったということになる。
ゲーム代稼ぐために、やりたくないきついバイトしたり、そういう現実との折り合いも、試練の一つとして入っている。

敢えて、ゲーム作るために「遊びつづけろ」というのは、本当にその道に進みたいか確認する作業の一つの意味合いを含んでいる。

500本以上、1000本以上、ゲームをクリアするところまで触っていたら、嫌でもそのゲームの仕組みとか意図するところとか、色んな所が見えてくる。
まあ、効率は多少悪いが、その過程は、自分としては決して無駄に終わるとは思ってない。
そりゃ、使える資格を取るとか、そういうことに時間を使うことに比べると、社会的な価値とか生産性は薄く感じられるが、とにかくゲーム関係の仕事がしたいと漠然と思っているなら、これしかないと自分は思っている。

ゲームという商品が、ビジネス要素の強いものになってきて、
大量にゲームを触っているとわかるのだが、
そのゲームの出来が良くて面白い、逆に、出来が悪くてつまらない、というのを抜きにして、
ゲームを好きで作っているなっていうチームと、そうじゃないチームのゲーム

ってのが、なんとなく透けて見える時がある。

これだけ偉い講釈を垂れて置きながら、人生の失敗者で、ゲーム業界からは全然外様の立場で申し訳ないのだが、
外側の人間が、一万円の福沢諭吉を使って、ゲームを買って来る。

値段通り豪華で派手でよく出来てても、仕事でゲームを作ってるような、まさにやっつけ仕事的なゲームだった時は、はっきりいって、がっかりするし、楽しさを感じられない。
なんというか、こういう事務的ゲームよりも、本当にゲームが好きで好きで仕方ない奴が作ってるゲームのほうが好意的に見れる。

やっぱり、ゲーム制作で飯食ってる奴は、ゲームが誰よりも好きで愛しているやつであって欲しい。

その思いもこの考えの中に入っている。

ゲームレビューの書き方について

もう数年前になるが、このブログでゲームレビューの書き方についての個人的見解を述べたので、もう無駄な労力使って書く気は起きないが。

一歩踏み込んだレビューの書き方

今、改めて読み返すと、脱線しまくりで、校正して再投稿したいと思うが、別に私の指南を参考にされているようでもないようなので、どうでもいい。

それではなぜ、このようなお題目なのかというと、他人が書いた「ゲームレビューの書き方」を目にすることがあって、
思う所あったからだ。

それはこちらとなる。

悪食流 誰でもできるゲームレビューの書き方。

私と違って、生活的というか、実践的な、頭に入りやすい内容で、素晴らしいと思うのだが、内容自体に賛成できる部分は少ない。

気になったところを引用しながら、感想を述べていく。

ゲームのレビューというのは読書感想文と一緒で、
遊ばなければ(読まなければ)書けない。
1ページも読んでいない本の感想を書けと言われても無理な話だろう。



本当にその通り。
ゲームレビューが他と違って、大変なのはこの労力が莫大にかかってくるところにある。
まあ、とりあえず見てりゃ勝手に映像が進んでいく映画だのアニメだのドラマだのに比べると圧倒的に大変だ。
自分で手を動かさないと先へは進まないのだから。

そしてこれが最も大変だと言えるのは、予定通りにゲームをクリアすることが著しく困難であること
映画なら2時間。アニメなら13話なら約5時間。と言った風に、時間の使い方を計算して、予定を組むことができるが、
ゲームの場合、予め予定を組み立てても、早く終わることは極めて稀で、たいていは予定をオーバーしてしまうことが多い。
仮にプロとしてゲームレビュアーやるとした場合、とてもキツくて無理だ!と思わせる原因が実はここにある。
締め切りが設定されていて、追われるようにゲームをプレイしながら、冷静にレビュー記事を執筆するなんて、とてもじゃないが出来る気がしない。

他の媒体は見てるだけで、感想を書く権利はとりあえず得られるが、レビューの質は、その視聴時間でどこと何を見てるかという点で力量が大きく変動し、読む価値のあるレビューかどうかの分かれ目となるが。

出来ることなら遊びながら気になった部分をメモに残していくと良い。



これ、スゲエ重要。
プロの、ファミ通のライターも、メモを取りながらプレイしてると言っているのを読んだことがある。

だが、自分は、レビュー書くために、これまで一度も、メモを取ったことはない。
ポイントポイントを頭で抑えておいて、それを忘れないようにする。

でも、メモしたほうがいいと思う。

というのも、プレイ開始1時間時点での印象ってのが、ゲームレビューでは極めて大事で、
なんか画面の切替が長く感じるとか、コマンド入力が引っかかるとか、そういう手触り。

あと、アクションゲームとかなら、操作感覚。なんか癖があるとか、そういう部分。

クリア時、30時間付き合ったゲームだと、今書いた細かい部分に慣れきってしまい、
一番重要な、やり始めた頃の印象を忘れてしまう。

この辺りを覚えておかなければならないから、メモが重要だと思って、おそらくこの人も強調しているのだと思われる。

全てのゲームはコンセプトに基づいて作られている。
ゲームの設計図の根幹とも言えるのがこのゲームコンセプトで、
そこには当然「プレイヤーに感じてほしい楽しさ」が詰まっている。



これは、ゲーム以外でも言えることなのだが、レビュアーやる上で、根本とも言える要素。

この部分を理解した上で、気になった部分を書いていく。

シリーズ物の、最新作を、過去作を飛ばして、いきなりプレイしても、そのコンセプトを理解しづらいから
発売順から順番にプレイしたり、ジャンルの系譜をそれとなく頭に入れた上でゲームをプレイしていないと、
これを感じ取るのがほんとうに難しい。

レビューを書くのに必要なプレイ時間はレビュー内容によるが、
3~10時間ぐらいが適当だと思われる。
もちろんクリアレビューを書くならプレイ時間に関係なくクリアしてから
レビューを書く必要があるが、
内容と感想を書くだけなら8時間程度で問題ない。
ただし、8時間遊んでもコンセプトを掴みきれない場合はもっとプレイしたほうがいいと思うが。



概ね、共感的な内容だが、この部分だけはどうしても賛成しかねるところだった。
筆者は、ゲームレビューの敷居を下げるために、敢えてこう書いたのだと思われる。

基本的に、ゲームクリアと言われている部分までプレイしていることが前提。

まあ本当なら製作者が用意した全てのコンテンツを体験して、その証となるフルコンプリートまでやってるのが望ましいだろうが
エンドクレジット見るぐらいまでやった上でなら、読み手の大方が納得できるだろう、ってところが、ここだからだ。

あと、敢えてこの時点に設定しているのは、フルコンプリートまでやってしまうと、またそのゲームに対する感覚が変わってきてしまうので、中間的な立場として、ひとしきりのエンディングで終わっておくのがちょうどいいと思っている。

どのレビューにおいても書き方の基本みたいなものはある。
よって、簡単に説明しよう。

レビューに必要なのは
「ゲーム内容紹介」
「そのゲームの特徴・問題点」
「個人的感想」
の3つ。



後半は、完全にハウツーになってるので、引用はこれぐらいで。

まあ、ガッコの先生が、ゲームレビューの書き方を教えるって路線なら、こんな内容になるだろうなって感想。

この3つの要素を、バランスよく書いてれば、面白いゲームレビューになるかっていうと、そうでもないって言うのが経験則。

あと、ダメな例みたいな話があるが、結局読者を増やす、或いは、読者から嫌われないためのやり方になっていて、
それが、必ずしも、ゲームレビューの書き方として正しいかっていうと、またちょっと無難になってしまっているところがある。

個人的には、袋叩きにされてしまうような尖った文章を書けなければ、面白いレビューにはならないと思っている。

だから、今回取り上げたブログでは、ダメだと書かれているが、
やっぱり最終的には、個人的異見を全面的に出していくスタイルが、最高峰だと思っている。

プロが、専業で飯を食っていくなら留意しなければならないことはあるが、
素人が、アマチュアが、ネットで無料で読めるゴミみたいな扱いをされているところで、芸を披露するのだから
蹴っ飛ばされるぐらいでちょうどいい。

結局、レビューってのは、好きな人でないと続かないもので。
どうしても、続かない、苦痛だっていうのなら、それは、好きではないものってことだと思われる。

任天堂が不甲斐なくなってしまった理由

任天堂が不調だと言うニュースや話題が、最近非常に目立っている。
あまり、こういうことは書きたくないのだが、なぜ、このような事態になってしまったのか、
外部の素人の知りうる限りの情報から、ちょっと指摘したいと思う。

任天堂は、ゲーム業界の王者だと言われ続けていた。
だから、プレイステーション、プレイステーション2でソニーが、任天堂から王者の座を奪いとった時、
それはもう、日本全体のニュースとして、大きく取り上げられるほどのものだった。

いまは、ゲーム業界の構造そのものが激動の時代を迎えている。
スマフォの台東で、いわゆる“ゲーム機”だけで、語れない時代になってしまった。
そういう時流であることは認識している上で、複雑な話題だが、物事の本質を単純化するために、不要な説明を避けて書く。

任天堂は今、稼ぎ頭の据え置きゲーム機で、未だかつて無い苦戦を強いられている。
これは、スマフォのせいとか、開発費が高騰してきたとか、そういうことを理由に出来ないほどの状態に陥っている。

それはもう、言うまでもない、新型ゲーム機WiiUの迷走したコンセプトから来ている。

元を辿れば、2006年。
プレイステーション3と、Wiiが発売され激突した年だ。

この時、PS3は「時代はHDだ!」と、10年戦えるゲーム機を目指した。
対する任天堂は「HDはまだ早い。SDで最高性能のゲーム機を。オプションで他に真似できないゲームを」目指した。

結果、PS3は早過ぎるゲームマシンとして、普及するまでに起爆剤となった薄型機を出す3年後まで苦渋の思いを強いられた。
Wiiは、HDが普及してない時代と合致したことで、任天堂は王者への復権を果たした。

しかし、この時点で、任天堂は、コンピューターの日進月歩の競争から、事実上降りてしまった。
もちろん、外部の人間からは“降りた”なんてわからないし、影できちんと技術研究は行なっているものと当然思っていた(少なくとも任天堂に絶対的信頼を持っていた自分はそう思っていた)。

その体たらくが、現在の任天堂を示している。

2007年頃からHD開発の経験やノウハウ、技術の蓄積を、多くのソフトハウスは強いられた。
それをやらなければ、置いて行かれてしまうからだ。
(この論述は、据え置きゲーム機限定で語っている。それ以外にゲームで金を稼ぐ方法はあるが、任天堂はそっち方面の模索もやらなかったため、逃げ道がない)

HDゲームの開発は御存知の通り、大変だ。
高精細な映像を生み出すために、それだけ技術者が必要で、迫力や臨場感を演出する洗練されたデザイナーが莫大に必要になる。
金がかかるから、金勘定の出来る奴は必要だし、それだけ開発に責任やプレッシャーがのしかかる。
昔と違って、浮かんだアイディアを形にするのに1日あれば出来上がる、修正なら半日で。
こんなお手軽な時代じゃない。

100人単位のプロジェクトで、でかいチームを運営し、全体構想を掲げるトップのディレクターやプロデューサー
彼らの思い描くゲームを作るために、恐ろしく手間と時間とお金がかかる。
ちょっと直しを入れるだけでも1日。そんな大変な時代に差し掛かっている。

任天堂のWiiU製品を幾つかプレイしたが、おそらく任天堂は、HD開発の難しさを、想像より軽く考えてたんじゃないかと思う。
というのは、任天堂のWiiUのラインナップは、無難な前作を踏襲した続編ものばかり。
つまりこれは、何を意味しているのかというと、HDゲームを実際に開発して商品化するまでのプロセス
これを、WiiU発売後に、行なっているのではないか?という推測だ。

驚いたのは、ゼルダの伝説 風のタクトのHD版。
これをわざわざ、内製スタッフが制作していたっぽいことだ(これについては買ってないため深い明言を避ける)。

WiiUを出してから、ようやくHDゲームのプロジェクトを走らせる。
それは、他社が5,6年前に血反吐を出る思いでくぐり抜けた道だ。

これは任天堂の息がかかったセカンドパーティにも同じことが言える。
HD開発のノウハウを蓄積してこなかったから、今、それをやっと始めたから、無難なことしか出来ない。やれない。

でも、数年前と事情が変わって、効率よく技術を吸収できる点はある。

逆説的に考えれば、任天堂の本気というのは、来年再来年に見られると思うのだが、ソニーやマイクロソフトは
既に次世代機を投入している。

WiiUは、現世代機、言い換えると、HD機第一世代に合わせて作られたマシン。
HD機第二世代のゲームマシンと戦うにはあまりに非力だ。



これまでの任天堂は、敗者になったとしても、自分は結構支持していた。
なぜなら、過去の任天堂は、ハイブリッドマシンを目指していたからだ。
今の時代に合わせて言い換えると、ソニーのプレイステーション3と任天堂のWii
この立場が逆になったと言ってもいい。

ソニーがプレイステーション1を出した時、万人受けするデザインと、コストを徹底して押させたCD-ROM媒体等
時流を読んだ絶妙なゲームマシンだった。
それはそれで魅力的だった。

対する任天堂は、意固地にROMにこだわり、当時高級だったワークステーションクラスの演算能力を搭載したニンテンドウ64を25000円で売る!と、多くのリスクを跳ね除けてまで、高性能マシンにこだわった。

結果、現実的な路線をとったソニーのプレイステーションに、完膚なきまでに叩きのめされた。

その後のゲームキューブも、やはり軸足はハイブリッドマシンで、ロードの早さやメモリ運用の快適さを売りに、設計したが、PS2の強い牙城を切り崩すことは出来なかった。

任天堂は今も昔も、「良いゲームを作ろう」という理念は、おそらく持っているんだと思う。
ただ、良い物を作るために、据え置きゲーム機として語ると、日進月歩の数字競争を制さなければ、基本的にはダメだということだ。

岩田(社長)体制になってからの任天堂
これは完全な推測だが、特に最近、社内的に派閥というか、軋轢のようなものが、外側にまで見えるほどひどい状態になっている感じがしている。
WiiUの迷走したコンセプトもそうだし、ソフトのラインナップ、コマーシャルの劣化、宣伝の方向性の不一致など。


自分がこれまで、任天堂が“ソニーに負けた”状態でも、見込があると思っていたのは、ハード設計にまだ魅力があったからだ。
だから、売り上げやシェア争いに勝てなかったとしても、任天堂一社でも“やれる!”し、実際やってきた。

だがもう、ポケモン並みの奇跡が起きない限り、任天堂は起き上がるのが非常に困難だと思っている。


最後に余談になるが、
任天堂傘下のモノリスソフトが出した「ゼノブレイド」の評判がいい。
そしてすぐWiiU向けに続編の開発に着手した。

個人的にこの続編、MMORPGになると思っていた。
任天堂初の、月額課金制のネットワークゲームだ。

まだわからないが、どうやら、単なるスタンドアロンの大作RPGになるっぽい(?)

これには異論もあると思われるが、任天堂的にネットゲームの運営など経験すべきだと思っていたから、
他からの評判が悪かろうとも、MMORPGにすべきだと感じていたが、そのへんの保守的なやり方にも任天堂の衰えを感じている。
ネットゲームは色々言われるが、なんだかんだいって、当たるとデカイ。
だから、ここらで一発、大手企業的にアテておくべきだと思っていたんだが、その気はないようだ。
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