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1996-1997 合格確率2%の壁を突破した高校受験

中学2年にあがってすぐあった学力テストで数学8点という惨憺たる成績をたたき出し、親にへこまされるほど怒られた

それまで俺は、勉強をするという習慣が全くなく、中2になったというのに、方程式の原理すら全くわからず、英語は全くわからずという、ありえない状態で学年だけ上がっていた。

定期テストがあっても、勉強を全くしないので、当然成績は悪い。
100点中、50点に近ければ凄いといった点数で、大体20点から50点の間の点数ばかり取って親に怒られていた。
まあ、授業も真面目に聞かないし宿題もしない、テスト前日になっても一度も机に向かうことすら無い

という中学1年の生活習慣を考えると、ある意味ここまで点数取れるのが逆にすごいとも思えた

得意科目は国語だった。勉強しないでもアドリブで点数がとれたから。

☆しかし親に怒られてから
中2にあがってすぐ、そんな成績を出し、親に怒られてから、勉強するようになった。

中1の時、いじめられて一度不登校してから、人と関わることを避けるようになり、休み時間もボケーっと座っているだけで暇だし、授業中もゲームと漫画とその日の夜あるテレビ番組のこと考えて終わるのをただ待っている退屈な状態だった。

それだったら、勉強ぐらい真面目にやろうという考えに至った。

真面目に勉強してみると、意外と面白かった。
ゲーム感覚で、成績が上がっていくことに喜びを感じた


数学の方程式がわからない問題はなんとかなった
2年生の最初の単元が、2次方程式で、1年の応用編みたいな感じだったからだ。
その後、x軸y軸の正比例とかも、1年の応用。図形の証明までは基本的に数学は1年の応用編だったおかげでカバーできた。

それどころか、仕組みを理解してからは楽しんでさえいた。
図形/証明/文章問題には苦しめられたが、数学という学問は当時の俺にとってまさにゲームそのものの世界だった。


社会科
1年で学んだ、江戸時代以前の日本史、世界の地理は、のちの高校受験時に苦労する羽目になった
なにせ、1年生の時に1年かけて勉強することを、まったくやっていないのだ。数学の時みたいなリカバリーも効かなかった。
しかし、俺には追い風が吹いていた。

ちょうど、2年になってからの社会は、中世西洋史を学習するようになっていた。
日清戦争とかアヘン戦争、イギリス解放運動とか、そういった話である。

これが俺の興味を引いた

しかもちょうど、中2の5月26日。

1995年5月26日
PCエンジン 空想科学世界ガリバーボーイ 発売


中世ヨーロッパを舞台にしたRPGで、イギリスのロンドン、花の都パリ、商人の町ベニスなどが登場する!!

学校で勉強している世界が、ゲームにも出てくる。
これが効果的に作用しないはずがなかった。

自慢じゃないが、日本地理はPC-Eスーパー桃太郎電鉄IIで全て覚えた。
時に小学校4年のことであった。

だが困ったことに、英語だけはどうしても挽回できなかった。
英語の文法がどうやっても理解できない。これは当時の担当教員がよくなかったのもあるらしい(本来は音楽教員だった人が英語を教えていた)
まず1年の時の基礎が抜け落ちているのだ。それでも暗記で定期テストは乗り越えていた


☆ゲーム感覚で成績がドンドン上昇する!
定期テストで五教科、合計200点とかそんなんだった成績が、右肩上がりで上がっていく。

当たり前の話だ。
勉強を全くしていなかったのだから


やればやるほどディスクシステム点数が上がる。嬉しくなる。
2学期の中間テストで社会96点をとった(誤答は2問だけ)。クラス1番の人と同じ点数だった。

嫌でもテンションが上がるのを感じていた

勉強しようと思い立って僅か半年弱で、学級No.1と渡り合えるまで到達するとは…
あの、勉強何もわからなかったはなたれ小僧だった俺が…!!

俺は必死で勉強した。
必死というのはふさわしくない言葉かもしれない。
俺は勉強を頑張っていた。


だが、限界というものは驚くほど簡単にやってくる

残念ながら俺はRPGの主人公のように、無尽蔵に経験値を蓄積して成長を続ける生き物ではない

俺の成績は1年間で、200点上昇した。
五教科で200点とかだったのが、400点前後をマークするようになった。

ここが、俺の人間的性能の限界点のようだった…

中学3年に上がろうとしていた頃だった。
俺は努力しても努力しても、成績が頭打ちになった。
それどころか、努力を怠ると成績が簡単に落ちる位置にいることに気づいた

☆一年前と状況が違っていた
そもそも、頑張れば成績が上がるから面白かったのだ。勉強自体が好きだったわけじゃない

一年間努力して、俺はそろそろ遊びたくなっていた。
前とは違う、興味のないことでも勉強しなければならない強迫観念
成績を落とすわけに行かないというプレッシャーに嫌気が差していた


新聞配達も始めたし、2年生のときと違って色々忙しくなっていた。

1996年6月23日(日)
ニンテンドウ64 発売
スーパーマリオ64 発売


まさかのテスト前日に、ニンテンドウ64が発売された。
近くのローソンで予約をし、23日午前0時に親父と一緒に受け取りに行った。

そして深夜2時近くまで、そのまま夢中になって遊ぶのだ。

新聞配達始めてから、色々ゲーム買ったし、プレステ1もサターンも買った。
ゲームが楽しくなってきていた。

畳み掛けるようにテスト前に新ゲーム機が出る。まさかのマリオ64。
歴史的には1997年1月のFF7のが衝撃だったようだが、俺は完全3D空間を自由に動かせるマリオ64のほうが遥かに衝撃的だった。

そしてまた、俺の

このゲームはどうやって動かしてるんだ?

という興味が炸裂する。N64専門誌のその手のコラムを読みまくった。

マリオ64は、その後も2ヶ月以上にわたって、飽きずに遊び倒した。

これは当時劣勢だったN64を発売日に買った人ならわかる感覚だと思う。
クラスでN64を買う物好きは俺一人だったし、他に買ったのは親しいゲーム友達一人ぐらいだった。
しかし、その友達も、夏休みが終わり9月のサクラ大戦が出るまで、マリオ64をずっとやり続けるぐらいハマっていた


頑張っても頭打ちになってしまった成績
そのことで、俺は勉強に対する情熱が冷め、ただ義務的にやるだけになりつつあった


そんな時だった。

☆塾の夏期講習会に参加する
クラスの人に誘われて俺は塾の夏期講習会に行くことになった。
誘われるというキッカケはあるものの、自分から塾へ行くと言い出す奴は中々少ないと思う。

俺は焦っていたんだ
成績が上がらないことに。
出題範囲の狭い定期テストなら理解でないことも暗記で解決できるが
学力テスト、ひいては、中学生の最終目的である高校受験はその付け焼き刃で乗り越えられないことを悟っていた


3年生になると、志望校を決めるための学力テストも増え始める。
定期テストでは安定して400点前後をキープしていたが、それはとにかく成果を上げることに勉強の目的を向けていたからであって、
3年間のうち、最初の1年を遊んで過ごしていたために、出題範囲が広い学力テストは成績が安定せず鬼門だった。
300点中、160から190点という幅のある結果になっていた

わからないところは、なんでも暗記でごまかしていた。
当然、当時は理解しようとしたが、基本的に性能が低い俺には難しい部分も多く残っていた。

それに、ハイスコアを叩き出すためだけに勉強していたわけで、普段の成績がいいから頭がいいとはちょっと事情が違っていた。

その問題を払拭させるために、俺は夏期講習会へいくことにした

毎日、月から金まで午前中は塾で勉強
午後からはゲーム(マリオ64)
15時からは新聞配達


goの過去形がwentだというのがわかったのが実はこの時期だった。
それだけ英語は俺にとってわからないことだらけだった。

そんな夏休みだった。

夏期講習会のあと、俺はこの塾の塾生になった。
伸び悩む成績を上げるためと、受験を成功させるためだった

当たり前の話だが、塾は本人さえやる気があれば、そのやる気の分だけ効果が出る
放課後決まった時間に塾へ勉強しに行くのだから。
しかし、一つ落とし穴があり、塾は点数を上げるための勉強法を教えてくれるがそれ以上のものは教えてくれない

どういうことかというと、定期テストでは徹底して点数の取れる教え方をする。
塾に来る生徒が通っている学校の、教師が作る試験問題の傾向を蓄積・分析した上で、授業をする。
(だから試験が終わったら問題用紙を生徒から借りてコピーして会社にデータとして残そうとする)


塾では成績順に席が決まっていて、下位組と上位組の2つのクラスがあった。

塾に入った頃は、下位組では1番2番を争う席だった。
そこから頑張って、上位組に入ることが出来た。
上位では下の成績だったが(一番前の席)、ひたすら頑張った結果だった。

塾に通うことになって、新聞配達も辞めざるを得なくなった。

最初は19時30分から21時30分といった時間割だったが、10月から17時30分から19時30分という時間に変更になったためだった。

どっちみち受験が近づいてきたら辞めなくてはならないので、いいタイミングだった。
1996年9月いっぱいで俺は新聞配達をやめた。
正式には夕刊配達をやめて、日曜朝刊のみの代配配達員になった。

とはいえ、塾は月・水・金だけ
3年生ということもあって、日曜に模試なども入ってくるが、新聞配達してた時よりずいぶんと暇になった。

実働時間たった1時間とはいえ、毎日放課後は夕刊配達へと慌ただしかった。
休みの土曜日でも、15時からは仕事に行かなければならなかった。

それがなくなったのである。

この頃になると、学校では人付き合いを避けていたのに遊ぶ友達ができていたり、
毎日が充実していた。

新聞配達をやめてからは、放課後、友達と買い食いしたり本屋に立ち読みしにいったりダラダラ過ごすことができるようになった。塾のない日には友達の家に遊びに行ったりということも増えていた。

☆志望校の選択
俺の場合、学習点と学力点がアンバランスで、自分にあった進学校がなかった。

真面目に勉強しはじめたのが2年になってから。さらに3年生からは塾というブーストが掛かる

1年の通知表では、5段階で、2が多くたまに3という成績だったがの、
2年に上がってからは、3と4が多く並ぶ成績になった。うちの学校は相対評価だったので5を取るのは大変だった。
4の上位にいるという印が付くことはよくあったが、5になることはなかなかなかった。

テストの点数である学力点は大体170から180ぐらい。
しかし、学習点については、1年の成績が足を引っ張っており、最終結果もGランクだった。
(後1点多くとれればFランクに上がれるという状態だった)

Gランクで学力点170から180というのは、当時の中学校の査定評価では異質なイレギュラーな存在だった。

一言で言えばいない、ありえないというところだ。

数値上だけで見れば、俺という生徒は

テストの点を取れる頭の良さなんだろうが、
学校で授業中の態度が悪く、学習点が低い


という見られ方をした位置にあったのだと思う。
(勿論現場の、俺と接している教師はそうは思ってなく、あくまで机上の評価方法としてはという意味だ。)

これを踏まえてた上で、志望校を決める。
Gランクで180点以上をボーダーラインにしている進学校を選択する

何度か書いているが、学力点の安定しない俺にとって
この時点でも、合格率はフィフティーフィフティという状態だった。
ランクを下げるなり、工業高校にするなりすればよかったのだろう。
そうすると、俺がここまで一生懸命頑張ったのは何だったのだろうという気持ちが強かった


志望校は3年生の夏休み後に決めなければいけなかった。
一回決めてしまったら、もう簡単に変更することは出来ない。

その後も、学校で学力テスト(総合A、総合B、総合Cというやつだ)や、塾では模試があった。

合格率は2%を指し示していた

さすがに塾側もヤバイと思ったのか、1997年2月。1月の模試結果を見て、俺を呼び出し

「志望校のグレードを落としてくれないか」

という打診があった。

この受験本番ギリギリの時期。
学校ではもう志望校の変更は無理と言われていた。

俺自身も2%続きはさすがにヤバイと思っていたが学校では無理と言われていたので、半ば諦めの境地に達していた。

言えば、なんとかして学校側で変更の手続きをしてくれただろうと思う
しかし俺は、それを言い出すことが出来なかった。


すなわちもう後戻りができないと思っていた。

☆奇跡が起こった!!
1997年1月。
サターンで天外魔境第四の黙示録が出たり1月31日にはファイナルファンタジーVIIが出たり
受験をほっぽり出して遊びたいゲームが相変わらず出続けていた。

俺は我慢をした。

FF7の発売日は、よりにもよって3学期の期末テストの最終日。
なぜだかわからないが、クラスの友達の家に朝早くに行って、一緒に登校前にセブンへFF7を買いに行ったりした。


だけど、買っただけ!!
テストが終わって、学校も早く終わったので、その開放感から2,3時間プレイしたと思うが、基本的には封印せざるを得なかった。

1997年2月以降
学校の授業は、受験前ということで、ひたすら予想問題のプリントをこなすばかりになっていた。
2月も終わり、3月に入る頃になると、専願の人はとっくに受験も終わっていてそのプリントをやる意味すら無い状態の人もいた

そうなると、先生も授業時間にもかかわらず「勉強しろ」と強く怒る理由もなく、非常に気の緩んだ空間が広がっていた。
プリントを配られても、遊ぶ人が増えていた。

俺にとっての本番は3月5日(水)。
俺と親しい友達は、何度も出てくるゲーム友達、同じクラスの友達は勉強嫌いでみんな専願
とっくに受験は終わっていた。

1996年3月3日(月)のことだった。

もう、ここまで直前になると、逆に緊張の糸が切れている人のほうが多くなっていた
授業に来る先生もかなり甘くなってて、プリントを配るだけで後は女子としゃべちらかすなど、だらしなくなっていた。
教室で紙飛行機が飛ぶなどが日常茶飯事になっていた。

別に学校が荒れていたわけじゃない。

国語の授業。
見慣れた予想問題集をコピーしたプリントが2枚配られる。

俺と同様に3月5日が本番の人も、真面目にこれをこなす人は少数派になりつつあった
でも俺は、基本的に真面目だったので、楽しく騒いでいる教室の中、黙々とこれをやっていた。

古文と漢文の問題集だった。

2日後の3月5日。

受験当日。

国語の時間。

2日前にやった国語の予想問題
こんなの今更マジにやっても無駄とも思われた予想問題のプリント
古文と漢文のところでまるっきり同じ問題が出題されたのだ


しかもなぜだかわからないが、俺はその問題と対峙した時、答えもしっかり覚えていた。
家に帰って確認してみて俺は開いた口が塞がらなかったほどだ。

これに気づいていたのはどうやらクラスで俺たったひとりだったようだった。

こうして俺は、国語でほぼ満点をとった(ザコ採点)
現代文で何問か落としただけで、古文・漢文は直前の予想問題のおかげで全問正解していた。
この出来事が決め手となり、俺は合格を勝ち取った。

俺は合格確率2%の壁をぶち破った

結局のところ、塾まで行って沢山努力をしたものの、決め手になったのは運だった。
山のように努力してきたが、運がなければ受かることはなかった。
もっとも、そこまでしてあの高校に入ることが重要だったかというと甚だ疑問が残るが。

当時から常軌を逸するゲーム好きだった俺
工業高校も選択肢にあった。
しかし、この時代の工業高校にはまだ、情報処理科みたいなのはなかった。
まあ入ってみたらカリキュラムにプログラムの勉強するところはあったのだろうが
パンフレット見る限りではどう見ても、電子回路の勉強が主だった感じだった。

それに、まだ14、15歳といった時のこと、
いくらゲーム好きといっても、具体的にPCを触ったことなど数えるほどしか無い
そんな人間が、もうプログラマーとか進路に決めるべきか悩んでいたのだ(これは本当に)


同じクラスの知り合いで、ゲーム会社に就職したいと、高専に進む奴はいたが。
そのために、色々ゲームの研究?(自称)などもしていたらしいが、どう見ても間違っているし無理だと思ってた。

俺から見て、その人は、小中学生とかがドラクエやFFあたりで感動してゲーム会社で同じようなの作りたいという範疇を抜けないというか、
悪い言い方をすると勘違い野郎に見えた。
ゲームを作ることに対しての知識が足りないというか、逆に言うと、俺が中学生のくせに持ってる知識が異常な方とも言えるのだが、そう感じた。

ノートに手書きで、ドラクエだかFFの台詞を写してたり、アイテムのデータや敵のデータとかそういうの、書き写してレポートにして、見せてくれたりした。
本人はそれで、ゲームを研究して分析したと思っているのだろうが、全く無意味だなーと思いながら見てた。

案の定、高専に進んだはいいが、卒業後の進路に『ゲーム会社』が求人になく、その場に泣き崩れたという話をのちの同窓会で会った時に聞いた。
コンピュータを勉強することとゲームを作ることだけをイコールにしちゃうと駄目なんだよなと俺は思っていた。
(まあこのへんのエピソードは結構、今の俺にもブーメランとして突き刺さっているというのはおいといて)



※この記事は以前途中まで書かれていたものに加筆修正して完成させたものです
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ゲームオタク ノデラと遊んでいたあの頃(1994年11月)

中学1年生の11月
私の人生で最も幸せな時代だった

この頃の出来事は、未だに鮮明に頭の中に残されている


毎週、ノデラというゲームオタクと遊んでいた

中学に入ってから学校が別になり、9月には市内とはいえ、遠くに引っ越していったが、
毎週末必ず泊まりこみであそびに行っていた


この、雪の降り始めの時期、いつも1994年11月、ノデラと遊んでいた頃のことを思い出す


1994年11月26日(土)

スーパードンキーコングの発売日だ


ゲーム業界は、セガサターン、プレイステーションといった次世代機の発売時期で
中学のクラスでも、1人2人が買うぐらいの普及率を誇っていた

が、俄然としてこの時期スーパーファミコンが優勢だったのは言うまでもない

中学生の年頃がどちらかというと欲しいと言うゲームは、やはりスーファミのスーパードンキーコングだった

説明するまでもないが、3Dレンダリングを駆使した、綺麗なグラフィックが売りのアクションゲームだ

しかも雑なところはあるものの、アクションゲームとしても完成度は高く、未だに遊べるゲームだ


とうぜん、このゲームの発売日の土曜日
いつものようにノデラの家に遊びに行って、目当てだったのはこのスーパードンキーコングだ

親に沢山ゲームを買ってもらっていたノデラなら、当然このゲームも発売日に買ってもらっている

もう、この時代では考えられないが、私の住んでいる地域は、11月下旬ともなると雪がつもり、
毎日雪が深々と降り続き、すっかり外は冬景色になっていた

だが、詳しく覚えていないが、ノデラの親がいつもゲームを買ってきてくれるのだが、
親の都合で、発売日の土曜ではなく、日曜(おそらく買い物のついでに)に買ってくる手はずになってしまった

ノデラも私も、いちはやくこのゲームを遊びたかった

だが、ノデラの親がゲームを買って家に帰ってきたのは、日曜の夕方になってからだった

あのときの感動はいまだに忘れない

親がゲームを部屋に持ってきて、すぐさまカセットを本体に差し込みゲームを開始する


そこには、当時のスーファミのゲームとは思えないほど綺麗なCGを落とし込んだグラフィックが目の前に広がっていた

綺麗

そのヒトコトしかなかった

今では、CGの落としこみや圧縮技術の底が見えてしまうのだろうが、
当時でこのクオリティは信じられないというか驚異的なものだった

じゅうぶん、プレステやセガサターンと戦えるほどのインパクトを持っていた

操作するドンキーコングはなめらかに動き、アニメも豊富で、本当に今までのアクションゲームとは比較にならない映像美だった

そして中学生だった2人は、あっというまにその世界観にのめり込んでいった


どれぐらいすごいかというと

基本的にゲームに興味のなかったノデラのおじさんも、様子を見に来てびっくりするぐらいすごかった

週末、土曜から泊まりこみで遊んでも、ゲームが手に入ったのが日曜の夕方だったので、
私はほとんど残念ながらゲームを触れることが出来なかった

一週間後、再びノデラの家に訪れると、ゲームクリアは当然していて
あとは探索要素を極めて、ゲーム達成率を94%を越えたところで、一生懸命隠れた樽を探しているところだった

自力でやってもそれ以上見つからないので、小学館が出していた公式攻略本を買おうかって言う話までしていた


私以外なんてことのない話だが、あのスーパードンキーコングで
当時はここまで熱狂的で、圧倒される技術力だったということを紹介したかった


一年後、さらにグレードアップしたスーパードンキーコング2が出たが

中学2年にもなると、逆にそれらの任天堂子供向けアクションゲームからは興味がなくなる大人ぶった年になり
ノデラは2を買わなかったし(CMバンバンやってたから話題にはなった)
どちらかというと、2次元のギャルゲー、エロゲーへとノデラの興味はうつっていた

後、RPGへの興味も強まっていて、ロマサガ3(1995年11月11日発売)をやったりしていた

ちょっと1995年のこの時期の記憶は残念ながらあまり無い

たしか、アクションゲームはやめて、プレステを買ってもらったりして、
ちょうどPS1のゲームを買い集めて遊んでいた頃だったと思う


ついで話をすると、ノデラは当時、PS1闘神伝のエリスというキャラに萌えていて
どちらかというと、闘神伝2(1996年12月29日発売)を欲しがっていたり、

あと、PS1の幻想水滸伝1(1995年12月15日発売)を買って、そこにでてくるくのいち忍者のカスミがお気に入りで
模写とかやっていた

しょうじき1995年時代の思い出は思い入れはないが、1994年のノデラとの思い出は今も楽しい出来事として記憶に刻まれている

あの頃のノデラは、まだ2次元への興味も薄く、気持ち悪いキャラじゃなくて、遊んでいて楽しかった

強いて言えば、大貝獣物語のキララ(1994年12月22日発売)に萌えていて、
イメージイラストを大切に保管していたのが気持ち悪かったぐらいだが
中2のときほど、気持ち悪くはなかった。

こういったゲームにまつわる思い出話は、他人から見ればキモい出来事かも知れないが
今後もいくつか残していこうと思う

他人からしてみればとりとめのないどうでもいい話でつまらないかもしれないが
当人からしてみたら、とても貴重な楽しかった頃の思い出なのだ

1994年は特別な年だった

中学生になった年で、私にとっては非常に特別な年だった

環境が色々変わったし、この1年間ほど様々な変化にさらされたことは以後なかったというほどだ


まず中学校に入って、学校が凄く遠かったし、小学校とは正反対の方向で、未知の世界だった

同じ小学校の人はほとんどいなくて、初対面の人達ばかりだった

小学校は1学年1学級しかない小さい学校だったのに、1学年8クラスというマンモス校だったこと
学校の規模が違いすぎて、新鮮で仕方がなかった

そして以前書いた、とある人物による嫌がらせ攻撃によって、学校生活がうまく送れず
登校拒否をしたり、人間不信になり、小学校時代一番仲良くしていたノデラ以外とは全く人付き合いをしなかったという
変わった人間関係

ノデラは中学が別々の上、94年9月に遠くへ引っ越して行ったが(中学生の自転車で30分くらいのところ)
その後も土日になると必ずノデラの家に行き、家に泊まってがっつりゲームをして遊んでいた

ノデラと、小学時代よりも親密になるにつれ、私は興味のなかったアニメや声優という分野への知識も埋め込まれていった
確かラムネ&フォーティーンやツインビーパラダイスのラジオCDを聞かされたりしていた。

そして、30代のアニメ好きなら誰もが聞いてた「林原めぐみのTokyoブギーナイト」だ

地元ラジオ局は一切アニラジをシャットアウトしていたが、景気低迷の影響で自社番組の枠が縮小して
95年からこういうアニラジも放送するようになっていった


あれから20年近くたった今、
私はインターネット配信のアニメラジオを聴いている

中学当時からそこそこ面白いとは思っていたが、私が好きなラジオになるとは思いもしなかった

無論、昔といまでは出演者も内容もぜんぜん違う
昔は、今で言う大御所の声優ばかりが馬鹿をやるという、今からは考えられない放送内容だった

ときたま差し込まれるパロディドラマも大いに笑った

購読していたゲーム雑誌とかも、激変した年だった
それまで長年存在していた雑誌がある日突然休刊する。

今でこそ珍しくないが、雑誌の存続か打ち切りか決められる時期が、この94年に集中していた

購読していた雑誌では、月刊PCエンジンが、総合誌のゲームオンに変わったり(3年で廃刊した)
一番読んでいた徳間書店系のゲーム専門誌は、DTPの発展のせいか
表紙や雑誌のレイアウトが凝った派手なものになり、雑誌内容や編集の仕方も大きく変わっていった

テレビ番組もだいぶ、この当時の私が生きていた中では信じられないほど、改変されて、テレビ番組も大きく変わった

なかでも私は日テレのクイズ番組が好きだったのに、
マジカル頭脳パワー、ショーバイショーバイ、笑ってよろしく等
どれも、私の期待するハイテククイズ番組とは方向性がどんどんと変わっていった

逸見政孝が死んでしまったことも私の中で大きなものになっていた

硬派なイメージのあった平成教育委員会という番組が、だんだんとビートたけしのバカ番組に変わっていったことにショックを受けた(そして見なくなった)

後、だんだんと魔法騎士レイアースとかファンタジー系のアニメにも強く興味を持ちだしたのもこの頃だ
それまでは続き物のアニメは絶対見れず(内容を忘れるため)ギャグ漫画しか見てなかった私が、この1年で見られるようになった

私の家の部屋の模様替えを行ったり、父親が半年以上地方に出稼ぎに行くことになり
家では気難しい親父に気を使う必要がなくなり、なにせ土日だろうがゲームが遊び放題になるという嬉しい状況が夏ごろから訪れていた


かなりとりとめのないつまらない話になってしまった

半年近く、母親と2人きり(植物状態の妹もいたから厳密には3人だが)
この間、いじめられて登校拒否したこともあって、若干母親は優しかった

この頃はまだ、学校の成績になんて興味がなく遊び呆けていたが、
何も心配事もなく、楽しく過ごせていた良かった時代だと思う

ゲームにも。色々と変化が訪れており
セガサターンやプレステなどが出始めて、ゲームのインフレも激しくなりだそうとしていた

ゲーム自体も、93年までよりも、違ったものが増えだしていた気がした

スーファミ、PCエンジン、メガドラのみつどもえの戦いから
だんだんとPCエンジン、メガドラが縮小していき、
それまで数年間当たり前にあった、シチュエーションがゆるやかに壊れだしていた

そこにプレステやセガサターンが発売されて、まさに混沌とした状況が訪れてきた

これまで築きあげられていた定番のアクションゲームとかRPGとか、そういうラインアップが崩されて、新しい時代が幕を開けたような感じだった

私は当時のガキの勘で、セガ優勢と言われてるけどPSがかつと信じ込んでいた
そしたら実際そのようになってしまってびっくりしていた



ノデラが引っ越してから。
引っ越してからのノデラの家。
この出来事がより一層親密にしていったと思う

毎週ノデラの家に泊まりに行き、夜中まで夜更かししてゲーム、アニメ。寝る。

まだこのノデラの家は残っているが、勿論ノデラはもうここにはいない

このころのノデラの部屋で遊んでいた記憶を思い返すと、現実を忘れ楽しかった記憶がフラッシュバックする

お互い通っている学校でうまくいってなかったせいか、週末の休みを利用して遊んでいた時
その境遇のせいで余計に仲良くなっていった

今は絶対になくなっただろう住宅街にポツッとある小さな銭湯とか
今はなくなって服屋になっている個人経営のビデオレンタルショップとか
ノデラのおじさんに連れられてそういう店にもしょっちゅう通っていたことがあった

今でこそ名作扱いされて有名だが、ライブ・ア・ライブというゲームが出て、
ノデラと私は、そのゲームにどっぷりはまりまくっていた
2ヶ月以上は、ライブ・ア・ライブをやりまくっていた記憶がある
やっていただけじゃなくてゲームの話でも、ずっとライブ・ア・ライブの話ばかりしていた気がする
94年9月にこのゲームが出て、12月までの3ヶ月近くはほとんどこのゲームの話だ

ノデラはPCエンジンのゲームが好きだったので、

フラッシュハイダース、アルナムの牙、ぽっぷるメイルとかを凄くやっていた
もちろんSFCの人気ゲームも片手間に買って遊んでいたが、ノデラそしておれもPCエンジンびいきであった

普段の学校が苦痛で、
週末になると、ノデラと楽しくゲームオタク話をしながらゲームで盛り上がる

あの光景がとても面白かったものだった

今でもあの幸せだった時の光景は細部まできっちり覚えている
秋から冬になる時期
夕方になると急に暗くなる

それを見ながらゲームをやったりゲームの話をする

いい景色だった



それがどうして今はこうなってしまったのだろう

ノデラとも、高校入ってからは趣味が合わなくなり仲違いしてしまったし

おれはおれで、思い通りに人生が運ばずどん詰まりになっている

ゲームレビューに情熱を注いでいたのは、このころが人生で一番楽しかったからかもしれない

そして今度詳しく書きたいと思っているが、

おれはこの頃から親父が買ってくるいろんなゲームを好き嫌いでやらないとかせず
きっちりプレイして、この頃からノートにでもレビュアーごっこをしておくべきだったと後悔している

当然この頃のおれは、ただ好きなゲームで遊ぶ普通の少年だった

だから同じアクションゲームばかりやってたりするし、ノデラほどたくさんの数こなしているわけではなかった

実にもったいないことをしたと肌で感じている


ホントにここでは書ききれないほどなんだが

94年は公私共に凄く変化の激しい年だったと自負している

むかしノデラっていうオタ友達がいた

さっきFF6をクリアし、すぐFF7を始めた

ちゃんと記念に写真をとろうと思ったのだが、忘れたままソフトも片付けてしまった

結構ダラダラやったつもりだったのだが、タイムカウントは20時間44分で終わっていた
記憶だけで魔石探しまわったり、グロウエッグ付けて戦ったから1人だけLV50越えてたり、
魔法だって、スタメンはほぼ全部覚えるぐらいになってたから、かなりダラダラやっていたはずだ

6年前にやったアドバンス版のデータを見たら、24時間もやってるのに、
LVも魔法も今回より全然育っていなかった
当時の私はなにやってたんだ・・・?

PS版だったから、ロードが長くてかなりイライラさせられた
でも、クリアデータで色々モンスター図鑑とか見ることができて良かった

最後のボスがラグナロク持ってるなんて初めて知った

FF6は話が面白くて、年取って涙腺が緩んでて何気ないシーンでも目の前が霞んだりしてグッとくるものがあった

エンディングのセリスのシーンで
落としたバンダナをわざわざ拾いに行くのは、出会った時の軍人っぽさが消えて
普通の女の子になったってことを表してるって言う意図があったのを、今回はじめてわかった

ゲームのシナリオって軽視されてるけど、FF6は、だいぶよくできてると思う

でFF7
開始から1時間
まだ1時間のせいかもしれないが、シナリオにまったく魅力を感じない
これも当時の年齢では理解しづらい難解な話だったけど、今回で再評価できるかどうかはっきりいって怪しい
当時からアークザラッド2とかワイルドアームズのがゲームとして
面白いと思っていたからなあ・・・



ところで、ここで本題に入る



中学時代 私は同じ学校の人とは付き合いが悪く、小学時代から親しかったノデラというオタ友達と
仲良くしていた

家が遠かったので、週末かならずノデラの家に泊まりに行って遊んでいた

殆ど、夜中3時過ぎとかまでゲームである
下手すると朝5時すぎまでということもよくあった

ノデラは成績は悪かったが、ゲームは上手だった、と思う

上手っていうのは、ひとつのゲームが上手いという意味ではなく、
ここではどちらかというと、やり慣れてるっていう意味だ

RPGなら、人より早く先にすすめるのが得意っていうか、そういう感じだ

私も、親父がゲームをやっていて家に沢山ゲームがあって、ゲームばかりやっていてと自慢しているが
どちらかというと、中学生の段階ではノデラのゲーム攻略本数にはまるでかなわなかった

それぐらいバケモノな奴だった

RPGもアクションもシューティングも格ゲーもパズルゲーも
大抵の流行りモノには手をつけて、やりまくっていた

家にはファミコンのカセットが誇張ではなく100本以上あったと思う
それはすでに私が小学校3,4年のころの話だから、1990年頃のことだ

それから2,3年たって、さらにゲームは増え続け、スーファミのカセットやPCエンジンのソフトも沢山持ち始める

持っているだけでなく、当時ガキで時間があったから、家にあるゲームのほとんどをやりこんでいたようだった

ちなみにセガのマスターシステムとかメガドライブまで持っていた
でも好きじゃなかったのかソフトは全然持ってなかった

何度も言うが、とにかくゲームをやり慣れてる上手さって感じなのだ

ノデラ自体はたぶんゲームは上手い下手でいえば普通だと思う

でも、1990年代前半で、スト2や餓狼伝説のSNK系格ゲーを両立させつつ
ぷよぷよもやり、ボンバーマンもやり、もちろんマリオもロックマンも普通にやっていて
ドラクエもFFも、こぼすことなくリアルタイムに攻略しまくっていたのはノデラぐらいしか知らない
プライムゴールとかパワプロとかもなにげにやっていて、
ノデラは小学生時代いちおう陸上選手として大会に出たりするぐらいの人間だったので、
スポーツゲームにまで興味があり、やりこんでいた人間だった

とにかく、それだけ沢山のゲームを10歳とかそれぐらいの歳で知り尽くしているので、
下手な大人よりゲームへの適応能力が高いのだ

特にRPGではっきりしていて、
FF6は、発売日の2日目(確か日曜日だった記憶がある)にはもう魔大陸に到達し
「敵つええ!」とか言ってて、画面を見たらもうレベルが25を超えている

天外魔境カブキ伝というゲームでも、発売日の1日目でもうロンドンに行くぐらいゲームを解くのが速い

クロノトリガーの時はどうだったか・・・
もう2日目の日曜の朝には、未来でバイクレースをやっていた気がする

そしてなんで今日こんなエントリを思い立ったようにしているのかというと
FF7を12年ぶりぐらいにやり直していて、ノデラのことを思い出していたからだ

やはりFF7も、解くのが早かった
そして(受験があったためしばらく遊ぶ時間が取れず)久々に遊びに行ったら、全キャラLV99になってて、かなり極めていた

ふだんノデラはそこまで1本のゲームをやり込まないのだが、よっぽど気に入ったのだろう
だからそこまでやりこんでいたのだと思う

FF7は直接クリアするところを見ていないのだが
攻略とか見ないで自力でやって、自分なりのやり方でクリアしていくのだが
早々に怒り状態にしたほうが攻撃力が上がってリミットゲージもたまりやすくて楽だってことを見抜いて
ゲーム序盤でもう全員を怒り状態にして進めていたと話していたのを覚えている

私も本当はノデラと同じで、勉強なんかせず遊んでばかりいたのだが、
中1のときいじめられてから、勉強するようになり、多少真面目な人間になってしまった

ノデラは中3の受験まっただ中に出たFF7を、受験そっちのけで遊び尽くしていた
塾にも通わされていたようだが、内申点とか悪かったので、誰でも入れる私立高校しか受けれず
そもそも勉強する必要すらなくなっていた

生粋のゲーオタに思われたノデラだが、中学に入ってからだんだんとアニメへの興味が強くなっていた
アニメ雑誌も買って良く読んでいたし
アニメディアと声優グランプリを確か毎月買っていた

それで中3ぐらいになると、画用紙によく絵を書いていた
私には見せてくれなかったが、チラ見したら綺麗に色も塗ったりしていた

中2のとき、エヴァが放送されて、それ以降エヴァにはまりまくり
徐々にゲームへの興味がうすれていたようだった

とにかく、そのころ、1996年あたりから
ゲームはちょうどプレステのポリゴン時代に移り変わろうとしていた時期で
全体的にゲームのレベルが落ちだしていた

かわりにアニメは勢いがとどまることを知らず、むしろエヴァを契機によりいっそう増したようだった

高校生になってからは、ノデラはだんだんゲームでも、ときメモのようなエロゲーとか可愛い女の子で釣ってるようなゲームばかりやるようになって
話が合わなくなっていった

まあもともとPCエンジンをひいきしていて、ヴァリスの1を日常的にクリアしてるような
気持ち悪い人間だったので、こうなるのは必然だったのかもしれないが

(これだけ書いても話が通じないだろうから補足すると
ヴァリスというのは女子高生が主人公の横スクロールアクションで
なぜか水着みたいな露出度の高いコスチュームで戦う途中に変態なストーリーが入ったエロいゲーム)

こうして、高校1年の秋ごろに連絡をとりあうのをやめてしまった

高校では美術部に入っていたらしいし、
今はおそらく上京して立派にアニメーターとかやって暮らしているのではないかと思う

こうやってノデラのことを思い出していると
私の今の価値観が中学レベルの代物なのではないかと、幼稚な人間なのではないかと自身を失ってしまう

ノデラはおそらく小学生時代はさんざんゲームをやりつくしたので、ゲームに飽きたのだ

いっぽう、いつまでたってもゲームに飽きず、
「俺にはこれしかない」

といって、ゲームの分析記事ばかり書きまくっていた私

これを30にもなってやることか???

そう言う風に思っている

私が中学生時代、今より圧倒的に娯楽が少なかった

私が中学生だった1994年~1996年は、今と比べると娯楽が恐ろしく少なかった。

とうぜんインターネットもパソコンもなかった時代だ。
今は一家に一台どころか1人(部屋)に1台パソコンを持っていて、そのすべてがインターネットにつながっている。
携帯電話だってなかった。まだ女子高生はポケベルを使っていた時代だ。

家に帰るときはカセットウォークマンやMDウォークマンをポケットに携えて音楽を聴いていた。
まだ、MDウォークマンは高かったので、持っている人もほとんどいなかった。

周りは空き地ばかりで、遊ぶ場所も全然なかった。
飲食店も選り好みできるほど建ってなくて、家族で外食するときも決まった場所で食べるしかできなかった。

学生時代
こんな環境だから、登下校時、寄り道するところもなく、多くの人は仲間内でダベりながら家に帰るだけだった。

強いて言えば、本屋で立ち読みしたり、CDレンタルしたりビデオレンタルしたりしていた。
中学生にはレンタルビデオ代は高かった(1泊2日でも330円)ので、主に娯楽といえばCDを借りてきて、カセットテープにダビングして聴いていた(当日返却だとシングルで50円からと安かった)。

ゲームも今ほど安く手に入らなかった。
ファミコンのカセットでも遊べるのは大体1000円以上した。
現役だったスーパーファミコンのカセットは安くても5000円以上で、新品の新作ゲームは8000円以上するので、とても中学生には手の届かない娯楽だった。

ゲーム屋のショーケースやデモ映像を見て、羨ましそうにしているのが関の山だった。

だから当然のようにTVを見たりCDやラジオを聴いていた。他にすることがないからだった。
まだ私が中学生の頃は、自分の部屋にテレビがある人はリッチな方で、無い家も少なくはなかった。
だからテレビより安いラジカセでラジオを聞いたり、CDを聴くのが当時の中学生の娯楽の中心だった。

中2、中3の頃からだった、近所の空き地に家電量販店が建ったり、でかい飲食モールができたりして、だいぶ賑やかになっていったものだった。
あのときは、毎月のように空き地に建物がたって、店ができたりして、その急速な変化に驚かされたものだった。

中3に上がる頃にちょうどセガのリッチなゲーセンが建ったり、その隣にカラオケボックスが同時にオープンしたり、私が受験生で塾に通いだしたり勉強に忙しくなった頃から急に遊べる場所が増えていった。

かといって、中学生の懐は変わらないし、周りの環境が大きく変化するわけではない。
相変わらず、家に帰ったらTVを見るぐらいしかすることはないし、ゲームは高いから近所の本屋でCDを借りてきてダビングしたり、お気に入りのアーティストの曲なら1000円出して直接買い集めたりしていた。なぜそうするのかというと応援する意味もこめていたからだ。

私にはお気に入りのアーティストというのがいなかったので、このあたりの感覚は未だによく分からない。
まず私は一般的な中学生から少し外れた、友達のいない暗いオタクであった。

親父がゲームをやるから、家には普通の家よりゲームを持っていただろうから、ゲームに不自由はしなかった。
もちろん自由にゲームで遊べる時間がまた少なかったのだが。

そして友達がいない部活もやってないから、早く家に帰ってくる。毎日16:30頃には家に帰る。
家に帰って何をやるかというとゲームもそうだけど、そればっかりでも飽きるので、結局はテレビになる。
夕方やっている番組は子供には退屈なワイドショーとかばかりだが、ドラマの再放送を見ていた。
18:00からはどこもニュース番組になるから、テレビ東京系のアニメを必然的に見ることになる。
それぐらいしか見るモンがないと、自然とオタクになっていく。

私の場合は、家にゲームが人の家よりあったから、CDを聴いたりする習慣がつかなかったのだと思う。
当時は、中学生高校生といったら流行のトレンドの音楽を聴くのが当たり前であった。
今で言うアニメオタクとかまだ周りに全然いなくて、オタクはキモい生き物という認識が強くあった時代だ。

今でこそ掃いて捨てるほどコンビニがあるが、私が中学生の頃は、冗談ではなく探さないと見つからないほどしか建ってなかった。
代わりにあったのは薄汚い個人商店とかがあったが、私が中3になるころにはほとんど廃れてなくなっていた。

なぜ早寝早起きできていたか?!できてない人もいたがクラスに4,5人という遥かに少数派だった。
なぜかというと、面白いことがないからである。
TVも23時にはニュース番組になって、そのあとこれといった番組といえばトゥナイト2ぐらいしかなく、深夜1時2時には放送終了していたほどだった。
面白いことがないなら、寝るしか無いというわけだ。
代わりにラジオが夜中面白くなってくるが、その時間まで何も無いと果てしなく長い時間に感じられ、眠たくなって寝てしまう人が殆ど。

今は時間に関係なく面白いことが転がっているから、夜更かししてしまうのは仕方ないとさえ思えるほどだ。
むしろちゃんと規則正しい生活を出来ている人のほうがすごい時代だとさえ思う。

今は昔よりいい時代になったと思う、娯楽も増えたし質も高くなっている。
ものが売れないと言われるけど、昔は娯楽が限られていたから、その限られたものを楽しむしかなかった。
しかも、今思い返しても、なぜあれがあんなに売れたのか流行ったのかわからないものもある。
私は未だにミスチルやグレイの歌のどこが良いのか全くわからない。
今出してもまったく話題にならないで終わる地味な曲ばかりだと思う。
あの、ビジュアル系バンドとかいうカッコつけたがりなだけのバンドがなぜあんなに流行ったのか未だにわからない。

ジャンプのるろうに剣心とかスラムダンクとかドラゴンボールとか凄い売れて流行ってて男ならみんな見ていたほどだったけど、
客観的に思い返しても、それ以外に面白いものがなかったから、みんなそっちを見ていただけで、今ほど漫画の数があふれていたわけではない。体感的には1/10しか当時の漫画はなかったと思う。
はっきり言って、あの時代だから売れただけで、嫌々見てる人も少なくなかった。
スラムダンクとか、あのジャンプ絵が好きでない人も多かった。私とか。
ドラゴンボールも凄い凄い言われているけど、今で言うワンピースに近いものがある。
昔は、他に比較するものや楽しむものがなかったから、なんとなくみんな見ててなんとなく楽しんでただけだ。
今と同じように人によって好き嫌いがあったけど、選ぶ余地がなかったから仕方なく見ていた。
ただそれだけのことだ。

こういうのは理屈じゃねえんだけど、あの頃は確かに需要と供給のバランスがとれていていい時代だったけど、今のほうがずっといい時代だと思う。
今の漫画とかなんでもいいけど、娯楽のほうが昔のものより圧倒的にレベルが高い。
今からあの時代に戻っても、きっと退屈ですぐ飽きて戻りたくなると思う。

今みたいに小奇麗なスーパーなんて無くて、狭く殺風景な中に雑然と並べられている生鮮食品。
ハエがたかってる野菜コーナー。レジは2つだけ。可愛いねえちゃんとかいなくて、かわりに歳とったおばちゃんが無愛想に会計をする。
床にはレタスの切れ端が落ちていたり、照明も薄暗く小汚い店内を過剰に演出する。

そんなスーパーへいつも親と付き添っていき、
退屈な私は果たして採算がとれているのかわかんない書籍コーナーで親が買い物を終わらせるまで立ち読みをして時間を潰す。

今はコンビニでも安く欲しいものを選んで買うことが出来る。
今のコンビニもスーパーとかに比べれば高いけど、昔はもっと高かった。そのうえ、選べるほど商品がなかった。
年々小奇麗に陳列商品も緻密に計算し尽くしていった結果が今のアレだ。私の時代のコンビニはもっと汚かった。

しかしただひとつ思うことがある。
主に、中2にあがったころから、近所の都市開発が進んできて、空き地がどんどんマンションになったり店が立ったり賑やかになっていき、発展していった。

だが、私が中1の頃は、もっと空は澄み切っていて、大自然の中で暮らしているという空気感があった。
夜になれば空き地ばかりなので真っ暗になり、わざわざ外ですることがないので家に帰る。これは大人だろうとそうだっただろう。
今よりもずっと何もなく不便で不自由なところだったが、あの何者にも汚されてない綺麗な空気感というものが、いつからかなくなり、都会にありがちな雑然としたどこかゴミゴミとした街並みに変わっていってしまった。

今振り返ると、いや、いつもこんな田舎からさっさと出てきたいと昔を思い返すたびに、中1の頃(1994年)の空気感の居心地の良さが精細に頭に蘇ってくる。

今はいろんな面で便利になって、にぎやかな世の中になったが、むかし、モノに恵まれていなかったが心は豊かだった。
今は何不自由なく暮らせる文化レベルになったが、どこか生きていて楽しくない、窮屈さや心の寂しさがある。
私が中学生の頃からすでに教師たちの間で今の私と同じようなことを嘆く人が多数いた。
今の2011年こそいろんな面で手詰まりでおかしくなってきてるのではないかと思う。

中学時代に受けたいじめ

1994年、中学一年生だった私は、幼なじみのHから執拗な嫌がらせを受けていた。

あの頃、嫌なことも多かったが、楽しいことも同じぐらいあって、私の人生ではまだ輝かしかった時代の話だ。

私とHのいた小学校は、半端な場所にあり、中学の校区がまっぷたつに割れるので、進学先が2つにわかれてしまう。
なので、仲よかった友達とも離れ離れになってしまい、卒業式は本当に寂しい思いをしたものだった。
人数が綺麗に二分するのではなく、私の通う中学は少数派で、その中に仲良く遊んでいた友達はほぼまったくいなかった。

なぜ校区が分かれているのかというと、その小学校の校区が大きな橋をまたいで存在していたからだ。
私が親しくしていた友達は、ほとんどがその橋を渡った先に住んでいる人ばかり。

おかげで、放課後遊びに行くのに、小学生としては結構な遠出になるため、行き帰りは苦労したものだった。
日が落ちるのが早かった冬場は雪が積もるため自転車も使えず、真っ暗な中を歩いて帰るので、寂しかったり怖かったりしたものだ。

友達が全くいない中学に進学するのは、人見知りが激しい私には不安がいっぱいだった。
唯一知り合いで親しくしていたのは、幼稚園時代からの腐れ縁で幼なじみのHだけである。
幸い、Hとは同じクラスとなり、知り合いが誰もいない最悪の状況だけは免れることは出来た。

中学生になってから一番変わったのは、周りが成績を意識し始めたことだ。
しかし私は小学校時代と変わらず、勉強そっちのけで遊び呆けていた。

Hは私と正反対で優等生だったので、親からも先生からも信頼が置かれていた。
逆に私といえば、忘れ物は多く、テストの点数も悪く、よくHと比べられたものだった。

当時は私も周りの評価なんか気にもせず、今が楽しければいいという精神で、とにかく遊びまわっていた。
人見知りで人付き合いが下手だったけれども、当時は天真爛漫さが色濃く出ていたのか、Hよりクラスメイトと打ち解けるのも早かった。

ところが、それに不快感を示したのがHだった。
全てにおいて私より優れていたHが何よりも気に入らない状況、それは、私に負けることである。
そこから陰湿な嫌がらせが、そして、それが徒党を組んだいじめへと発展するのだった。

うちは父親はゲームジャンキーで、今の時代では珍しくないだろうが、1994年としては親がゲームをやっているというのは珍しい家庭だった。
そして当然家の中にはゲームがたくさんあり、私のような子供には恵まれた環境である(決してお金持ちというわけではない。寧ろ貧しいほうだろう。クラスの中では数少ないアパート住まいだ)。

ファミコン、スーパーファミコンは当然ながら、PCエンジンDuo-RX、メガドライブなどゲーム機も複数所持していた。

友達の間で、話題の一つにゲームが入ってくるのは当然の流れで、しかも知り合って日が浅いので、当たり障りの無い話題をするようお互い暗黙のルールがあって、当時は一般的でないゲームの話題は避けていたものだった。

それも、中学生になって3ヶ月ぐらいすると、打ち解けてきて、しだいにゲームの話も気を使わずに話して盛り上がるようになっていった。親がゲームジャンキーだったから、当然私もゲームオタクになっていたわけで。
家にはゲームだけでなく、ゲーム情報誌もたくさんあって、それをなんともなしに読んでいて知識だけは蓄えていた。

が、この流れについていけなかったのがHであった。
Hの親は厳しく、勉強の邪魔になるファミコンはなかなか買ってもらえなかった。
みんながもうスーパーファミコンを持ち出した頃にようやくファミコンを買ってもらえたぐらいだ。
しかもアパート住まいの私と違って、自室も与えられていたが、部屋にテレビを置いてもらえないので、
買ってもらったファミコンも親の監視つきで自由に遊べなかったのである。

そして、学校でゲームの話をしだすと、Hは不機嫌になり、私にこうプレッシャーを与えてきたのだった。

「中学にもなってゲームの話なんかするなよ。ガキじゃねえんだから」

こういわれて私は、Hの家の事情を馬鹿なりに理解していたので、Hはゲームの話についてこれないのが辛いんだと思い、いないときにだけゲームの話をしようという行動に出た。

しかしそれがHを逆に怒らせることになったのは言うまでもない。

Hがいない時を見計らって友達とゲームの話をする。
Hが戻ってきたら、強引に話を打ち切るが、急に冷めた空気になる。
そんなやりとりが何回か続いた。

視点をH側に変えてもう一度この状況を考えて欲しい。

教室に入ってくるまで、私と友達でわいわい盛り上がっていた。
しかしHが近づいてきたとたん、話が途切れ、ばつがわるくなって離れたりする。

テレビでよくある、いじめられっ子の光景に似ていないだろうか?

当時の私は馬鹿なので、そこまで配慮ができなかった。
友達とゲームの話はしたい。でも、Hがいたら嫌がる。となると、こういうやり方しか考えられなかったのだ。
決して悪意を持ってやっていたのではない。

これはほんの前置きで、当時のHと私の人間関係の一例を挙げただけだ。

学校でゲームの話をするな!という言いがかりで、私とHの力関係がわかるだろう。
Hは、あらゆる面で私より秀でており、またHは、劣っている私を見て、優越感に浸っていた。
ところが、友達を作るのが自分より早かったりといった、自分より秀でた部分を見せると、とたんに腹がたつのだ。

学力、運動、人間関係、親や先生との信頼関係。全てが私より常に勝っていなければならない。
一種の対抗意識のようなものがHにはあったのだろう。

Hとしては残念なことに友達付き合いは、小学校時代に関しては、変にマセていたHは逆に浮いていて、頭は悪いけど歳相応の振る舞いをしていた私の方が、にぎやかであった(中学時代もそうなる予定であったが、一年生の時のいじめによって潰されることになる)。

そうしてHは、私を普段のうっぷんを晴らす道具として扱うようになっていった。
この兆候は、小学校低学年のころから既にあった。が、知恵が働くようになった中学に入ってから周りも無視できないほどに悪化していったのである(小学校時代の出来事はまた別の機会に話す)。

それでは、具体的な嫌がらせ・いじめの出来事を軽く振り返っていくことにする。

●仲の良い友達から遠ざける(1994年春)
小学校時代は、私が親しい友達を沢山作ってしまったせいで手を出しづらくなってしまった。
この失敗を踏まえて、中学入学後すぐに、Hは私を孤立させようと企んだ。
私が作った友達を奪いとって、私より親しくなり、邪魔者を排除しようと先回りをしたのだ。

例えば休みの日に遊ぼうと誘われても、断るように影で私を操る。
自分より成績が良く優等生だったこともあり、Hの言いなりだった私は素直に従う。
こうやって、より自分が操りやすい環境へ私を誘導していったのだった。

●自転車パンク事件(1994年春?秋)
Hと私の家は、中学校の校区の端にあったので、学校まで非常に遠かった。
家から学校まで歩いて45分はかかっていた。
そのため、自転車の使えない冬場以外は、自転車登校であった。

幼なじみで家も近かったHと一緒に学校へいくのは当然の流れで、Hの家の方が私の家より、さらに学校が遠かったので、Hが私の家に迎えに来て一緒に行くことになる。

この時、画鋲を持って私の家に来て、チャイムを鳴らす前に私の自転車をパンクさせ、その後何食わぬ顔で私の家のドアの前に立ち、インターホンを鳴らす。

パンクは、毎日のように起こっていた。

直さないと乗れない。乗れないと困るので、学校が終わってからすぐに自転車屋に修理に持っていく。
すると次の日なり、近い日に必ずまたパンクする。その繰り返しだった。

最初はパンクの穴をふさぐだけだったが、あまりにも毎日のようにパンクするので、チューブが良くないのではないかと、自転車のチューブ自体を何度も取り替えたりもした。

ちなみにパンク修理は500円だったが、チューブの取り換えは2000円もする。
自転車屋の腕が悪いと疑って、店を変えたりもした。
一番近くの自転車屋は、値段も高く尋常じゃないペースで修理しに行くので、怪訝な顔をし始め(いたずらではないのかと)、
仕方なく、徒歩20分の自転車屋が、温厚な店主で修理代も安いということで、そこへ乗り換えた。

とにかく修理代がかかってしょうがないってことになって、次は自転車を買ったホームセンターへクレームという形で持って行って直してもらっていた。

このホームセンターでも、最後の最後はあまりの頻度の高さに「いいかげんにしろ」と言う露骨な対応を取り始め、
最後は、徒歩30分歩いたところにある遠い自転車屋が修理代は高いけど、機材は揃っていて信頼できるということで、そこに直してもらいに行っていた(ちなみにここのパンク修理は一回1000円だった記憶がある。高い理由は、なにせ全部機械を使って修理するからだ)。

わずか1シーズン(1994年4月?10月)のパンク修理だけで、計算してみたら約20000円にもなっていた。
誰かが故意にパンクさせてるとしか思えないだろう。
しかし、当時の周りの大人達(うちの親や学校の担任)は、証拠がないの一点張りで誰かの嫌がらせの疑いはまったく持とうとしなかった。

当時の私はというと、さすがにこう何十回もやられると、薄々Hがやっているのではないかということに気付き始めていた。
ただし、そこまで頭の切れる人間ではなかったので、気づいたのは冬になる頃だった。

結局、みんなの間では、私がデブだからパンクしたのだということになり、自転車を使わず徒歩で通学するはめになった。
毎日、自転車通学せずにみんなより早起きし、とぼとぼと45分かけて学校へ歩いていき、帰りも一人で帰る。
なんとも孤独な毎日であった。

確かに中一の私は、デブと言われても仕方のないほど太っていた。
しかし、この出来事やいじめによって精神的に追い詰められたことで、わずか一年で驚くほど身がしまったのだった。
私自身、中一の時の写真と中二の時の写真を見比べて、あ然とするぐらいであった。体つきが全く違うのだ。

●安西爆弾(1994年夏ごろ)
私の今使っているハンドルネームの由来はここにある。
デブだったので、当時流行っていた漫画「スラムダンク」の安西先生に似ているとからかわれていた。

そして、いつしか、私を人の集まっている場所にぶつけるという遊びが流行り始めた。
勿論、思いついたのはHである。
私をおもいっきり人に向けてぶつける。これを安西爆弾と名づけ、いい遊び道具にされた。
ぶつけられた方も痛いだろうが、当然ぶつかる私も痛いのである。

よく、同じクラスでも、不良っぽい怖い感じの人達の所に向けて発射して、怒られる私を見てみんなが楽しむのである。
発射する人間はぶつかる瞬間は隠れて楽しむので、相手は私がわざとぶつかってきたようにしか見えない。
だから、私が怒られる。そして目をつけられる。
私は悪くないのに、だんだんクラスに居場所がなくなってくる。

●教科書、宿題ノート盗難(1994年春?夏)
当時の私は遊ぶことしか考えておらず、身の回りのことがきちんと出来ていなかった。
忘れ物も多く、いわゆる先生からしたら手のかかる問題児である。

そのだらしなさに付け込んだのが、次の嫌がらせだ。

中学に入ってから、教科書の他に副教材など、持ち物が一気に増えた。
Hはその副教材を何冊か盗み、授業に支障が出るようにした。

勿論最初は自分でも本当になくしてしまったのかと思ったぐらいで、
先生たちからは、とうぜん物をなくしたことになった。勿論このことは成績書の内申点にもがっちり響いてくるのだった。

これも、Hがやったという証拠はない。しかし今になって振り返ってみれば、物をなくしたなら、いつかは出てくるはずだし(仮に外で落としたとしても学年名前を書いているぐらいだ)、
そう何冊も物が短期間にポンポンなくなるのもおかしい。
大体授業以外では全く使わなかった(テスト前勉強すら一切していなかった)し、家も狭いのに、なくなってそれっきり出てこないってのがおかしい。
誰かが盗んだとしか考えられない。

また、夏休みの宿題で、英語の書き取りの宿題が出た。
いくら勉強しない私でも、怒られるのは嫌なので、さすがに宿題ぐらいはしっかりやっていた。

夏休み最終日、いつものようにHと遊ぶことになり、家にあそびに来た。
この時のことはあまり覚えていないのだが、確か英語の書き取りをしたノートがなくなったのをHがきっかけで気づいて
最終日に新しくノートを書い、必死に書き取りの宿題をやり直したのを覚えている。

もっと鮮明にこの日の出来事を覚えていれば良いのだが、パンクの件といい、教科書窃盗の疑いといい、Hを怪しむようになったのは、こういう説明のつかない出来事が当時、連発していたからだと思う。

●脅迫の手紙(1994年秋)
二学期に入って、Hの嫌がらせはエスカレートしていった。
あくまで一学期まではH一人の嫌がらせの範疇にとどまっていた。

しかし、2学期に入ってからは、友達を使って「無視しよう」「悪口を言う」レベルに発展していった。

たとえば、同じ掃除の班で私とHともう一人の男3人で掃除をする。
このとき、私をハブって、2人だけで盛り上がり、孤独にさせるように仕向ける。
さらに、「あいつキモイよな」など陰口を聞こえないように喋ってるように見せて、わざと悪口を聞かせたり、といった手口だ。

こうして、一学期は近所の祭りに2人きりで行くぐらいべったり仲良しだったのが、Hは距離をおくことになる。

トドメは、脅迫状だった。
これもHから手渡された“自称怖い先輩からの手紙”だった。

そこに書かれたのは、「お前最近調子乗ってるんだよ、目障りだ。痛い目に遭いたくなければ隅っこで黙ってろ」といった内容だった。

確か10月半ばの出来事であった。

一学期の頃は一緒に学校へ通っていたが、このころはもう完全に別々に通っていたのだった。

●本格的ないじめへ(1994年秋)
先輩からの脅迫状はHの書いた物ではないかということは薄々感づいていたが、恐らく当時の私はそういう敵意を剥き出しにした行動を目の当たりにして、どうしたらいいかわからず、落ち込んでいたのだと思う。

元気がなくなり、教室で一人たそがれていることが増えていた。

ここぞとばかりにHはたたみかけてきた。

かつて仲の良かった友達を取り込んで、徒党を組んで、私をいじめはじめたのだ。

悪口だけではない、音楽の時間に一番前に座っていた私に向かってシャーペンの芯をぶつけてきたり、
仲間全員で私をハブったり、どんどんHの嫌がらせは大胆になってきた。

ちなみに、音楽の時間はちょうど参観日に割り当たっていて、家の母親がちょうどそのいじめられている光景を見ているのだった。

しかし、後から母親から聞いたところ、いじめられている光景は、じゃれあってるようにしか見えなかったようだった。

恐らく参観日にちょうど、露骨ないじめを繰り広げたのは、Hの計算通りだろう。
私だけでなく家の親すらも馬鹿にしているということだ。

この日の夜、親に向かって、私は涙目でいままで学校で何をされてきたか、どういう気持ちで通っているか訴えたのだった。

10月30日の出来事だった。

10月31日の朝、外は吹雪だった。

私は学校に行きたくなかった。

いつもは疑問を感じること無く、何も考えること無く、学校へ行っていた。

親に学校へ行きたくないと言った。

普段はズル休みを許さない母親だったが、昨日のこともあり、何も言わなかった。

そうして、登校拒否が始まった。

親は休むときに電話で何も言わなかったが、何故かその日の夜、担任の先生が家にやってきた。

この時のこともあまりはっきり覚えていない。

親どうしで話していたような気もするし、私も同席して3人で事情を聞かれたような気もする。

でも、一つだけはっきり覚えているのは、そこで話していたことは、上っ面のことばかりで、

Hの親が厳しく優等生を演じることにストレスを感じていること
私への嫌がらせはそのストレスが発端になっていること
証拠がないとはいうものの、この半年間あった不自然な出来事は全てHが関係していること

肝心の部分に関しては触れてこなかったし、私も触れなかった。

登校拒否2日目。

脳天気な私は、学校に行かなくていい生活をすっかりエンジョイしていた。
日中は親がいなくて、私一人なので、ゲームをやったり、テレビやビデオを見たりしていた。
そうやって嫌な学校のことは忘れて家で楽しく過ごしていたら、16時前に学校帰りらしきHが家にやってきた。

家庭科で使う私の裁縫セットを何故か持ってきて渡しに来た。
どう見ても、適当な理由をこじつけて私の様子を見に来たようだった。
すっかり仲が悪くなっていたので、お互いほとんど喋らず、Hも特に何も言わず、ばつが悪そうに帰っていった。

登校拒否3日目。
話が少し逸れるが。
週末は毎週、小学校時代から趣味が合って仲良しのKと遊んでいた。しかしKとは家が離れていたので、別々の中学になり、
遊べる日と言ったら、土日祝日しかなかったのだった。
しかもKは9月10日にさらに遠くへ、自転車で片道30分かかるところに新居を立てて引っ越したため、お互いの家に遊びにいくのすら一苦労になっていた。

だからか、この時期、週末はどちらかの家でお泊り会をすることが増えていた。
この日、次の日が文化の日で学校が休みだったので、たまたま私の家でお泊り会をしたのだった。

Kと私は、1994年当時としては少なかったヘビーゲーマーだったので、いつも通り夜通し楽しくゲームをして過ごしていた。

次の日の早朝、8時ぐらいだったと思う。またHが家に来た。
私を外に呼び出し、家の前の道路でしばらく話し込むことになった。

Hはそれまでの敵意を剥き出しにした態度を豹変させて、ぶっきらぼうに理由も言わず一度だけ謝って、
後は具体的なことには一切触れず、休んでいる間の学校の話や、もう嫌がらせはしないから学校に来いよというようなことを遠まわしに言っていた。
当時の私は、お人好しで馬鹿だったので、これまで受けた酷い仕打ちをこの程度で許してしまったのだった。

11月4日(金)、こうして短い登校拒否は終わり、また学校へ通うことになった。
担任が、私の休んでいる理由をクラスメイトに聞いて回っていたらしく、みんな妙に優しくて逆に気持ち悪かった。
特に女子の態度が全然違っていて、私なんかデブで全く相手にもされていなかったのが、一人でいるときに優しく声をかけてきたり、たった3日間休んでいた間に何があったのか気になってしまうほどであった。

実はこのころ、同じく中一の生徒が陰惨ないじめを受けて自殺したというニュースが話題となり、学校側も生徒側もみんなやたらと「いじめ」について過敏になっていた時期だった(確か私のいじめの少し後だった記憶がある)。

wikipediaより
愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件



この日の夜(厳密には放課後には具合が悪かった)、私は体調を崩し、風邪を引き寝こむことになる。
次の日、土曜日。学校を休み、寝込んでいたが、Kが遊びに来て、遊んだ。

日曜になってさらに風邪は悪化し、39度の高熱を出した。
翌週から丸一週間学校を休むこととなった。
この週には、学力テストもあって、親も担任も無理矢理にでも出席させようとしていたが、私は休んだ。
内申書に直接響くテストじゃないし、当時勉強なんてどうでも良かったので、私はどうでも良かった。



この出来事があってから、私の引っ込み思案は加速していった。
人を信じれなくなったからだ。
心を許した相手以外には、距離を取り、以前のように積極的にかかわろうとはしなくなった。

教室でも、休み時間は自分の席に黙って座っていることがほとんどになった。

よりいっそうゲームにのめり込むようになり、人付き合いからは逃れようとするようになった。



2年生になり、最初の学力テストで、数学で100点中8点を取ったことで、親から猛烈に怒られた。
1年の頃は、何一つ勉強をしていなかったし、テスト前ですら勉強もしなかった結果だった。
2年生の時点で、方程式というものがわからなかった。方程式のxって何?ってレベルだった。

少々話が逸れるが、1年生のカリキュラムが全く頭に入っていない(やっていない)状態だったので、
そこから授業についていくのはかなり大変だった。
国語は全く問題なし。数学は、1年生の応用レベルだったので、その時に一気に理解させることで対応できた。
社会は、1年生の部分の知識が欠落している。例えば歴史で江戸時代までで知ってて当然ということがクイズ番組で出題されても全く答えられない。
理科も、第一分野しょっぱなの化学分野が全くダメ。
英語は丸暗記で何とかした。文法とかはもう手遅れだった。だから、未だにそこらの中学生より英文は読めない。

そこで2年になって、心機一転して、どうせ休み時間一人でぼーっとしているのだから最低限の勉強はしようと、
机に向かって勉強するようになった。
成績はグングン上昇していったが、私は所謂ガリ勉になっていった。
2年に上がって当然クラス替えがあるが、私は人と関わろうとしなかったので、8月の宿泊研修が終わるまで、
新しい友達が誰一人として出来なかった。


私の雰囲気の変わりっぷりに一番驚いたのは、1年生の時の担任の先生であった。
この先生の担当科目は技術で、2年の技術の時間(10月?3月)に、久しぶりに顔を合わせることになった。
勿論向こうも私ばかり見てるわけにはいかないので、授業が始まって話しかけられるなんてことはなかったが。

2年の技術の時間は、いわゆる日曜大工をやっていて、私は木製の飾り棚を作っていた。
授業時間では出来上がらないので、放課後残って作業をすることになるのだが、その時に声をかけられた。

物は無くし(正確には盗まれていたんだが)、休み時間どころか授業中も騒ぎまくり、いつも落ち着きがなくウロウロ。
成績も悪く、典型的な問題児だった。

それが、物静かになり、課題にも一生懸命に取り組もうとする。
話しかけられたときは、期末テストが終わって結果も出た後だったはずで、
50点満点中、ほぼ満点(技術のテストは簡単である)をとっていた。

そりゃ、手のかかる子がわずか一年で、ここまで変わるとは、いい大人なら誰もがびっくりするだろう。



しかし、今振り返ってみると、これでよかったのか疑問が残るところだ。
天真爛漫で人懐っこかった私は、不幸な出来事で粛清され、どこにでもいるような寡黙で真面目な少年になってしまった。
勉強なんて、やれば一定のラインまでの成績は確実に取れるものだ。
やらなくても100点取れる子が凄いわけで、
時間かけてやっと80点とれる私のような凡人なんて別に凄くもなんでもない。当たり前の話だ。

先生は「勉強しろ!」「勉強しろ!」と言うけど、やらなくても取れる人とやらないと取れない人ははっきり存在する。
ついでにいえば、勉強ができるから将来が保証されるわけでもない。才能があるかないかの違いがわかるだけ。




Hとは、2009年末の中学の同窓会(厳密にはただの飲み会)で、12年ぶりに顔を合わせた。
同窓会はちょくちょく開かれていたが、そんな嫌な出来事があったので、私は出たくなかった。
定職にも就けていないのに、どのツラ下げてでれば良いのかわからなかったからだ。

大体、直接誘ってくるんじゃなくて、人をまたいで誘ってくる態度が気に入らなかった。
この同窓会に出る気が出たのは、直接電話をよこしてきたのと、もう年齢的に昔のことを気にしなくなったからだった。



Hは、田舎の学校で夢だった中学教師をやっているそうだ。
久しぶりにあったが、雰囲気は全く変わっていなかった。

同窓会では楽しそうに現状を話していて、人生を謳歌しているようだった。

ちなみに、Hの両親は4年前に離婚したそうだ。
まぁ、私の家と一緒で、家族仲も元々良くなかったのだろう。
私が今、中学時代のいじめの根本の原因が、Hの両親にあるんじゃないかと確信を得たのは、この事実を知った時であった。

きっと、Hは優等生を演じなくてはならない状況にあったのだろう。
そのプレッシャーからくるストレスを、反対に親が生やさしくて馬鹿ばっかりやってる私が羨ましくて
私にぶつけていたのだろう(外からはそう見えるだろうが、私の家だって結構いびつな関係にある)。



だが、私は同情するつもりは一切無い。



色々辛い思いをしたのだろうが、結果的にHは、自分の夢を実現させ、楽しい毎日を送っている。
それに比べて、私はどうだ?


ろくに思ったように仕事に就けず、未だに辛い日々は終わってはいない。



あの出来事から17年経っても、私の心の傷は未だに癒えていない。
現状うまくいっていないことを全てHのせいにするつもりはないが、結構でかい傷跡を残してくれたのは事実だ。



今思い返せば。

私こそ教師にふさわしかったのではないか?と、あの同窓会からたびたび考えることがある。
大学生の時に教員免許をとろうなんて全く考えたことがないので、もう無理だが。

底辺の問題児から、いじめを経て、仮面優等生へ…。

Hの教師という仕事に対してのポリシーを聞きたくもないのに聞かされたが、浅いし幼いなと感じてしまった。

勉強とはなんなのか?成績とはなんなのか?教室、クラスメイトはどうあるべきか?

あいつは私ほど濃い学校生活を送ってきただろうか?

あいつが、教師になったというのを聞いたとき、「ああやっぱりな」と直感的に思った。
なぜなら、学生時代から“人を管理する”ことに喜びを感じているようにみえたからだ。

きっと、ガッコの先生になりたかったのも、そんな軽い理由からに違いない。



同窓会といっても、大それたものではなく、7,8人の気の合う人間が集まって飲み屋をはしごをする程度のものだ。

その気の合う仲間は、もともと私が最初に仲良くしていた人達ばかりだ。
しかし、1年生の途中で、Hが私から友達を奪って、私より仲良くしだした。

逆に私は、かつて仲良くしていた人達から遠ざかり、人付き合いをしなくなったので、疎遠になっていった。

12年ぶりに会っても、その図式は全く変わっていなかった。
あまり話に入れなかったのである。

こうやって、もう時効だと思っていても、思わぬところでその傷跡が痛み出す。
電話では、結構話がはずんだから大丈夫だろうと思っても、感じてしまう劣等感。



これが、私の30年の人生の中で味わった最も屈辱的な出来事だ。


あのとき、私がいじめられず、人格が変わっていなかったらどういう人生を歩んでいたのか、
未だにその“もし”を考えてしまうことがある。
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