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ゲーセンに入り浸っていた頃の話

2007年、あの頃、親が仕事について口うるさかったため、家に居づらく、用もないのに無理して車で外に出歩いていた。

この時期見かねてハローワークにも通ったこともある。
が、あそこはお役所仕事でまるで役に立たない。
あそこに通って身になったのは、行き帰りの時、張っていた自衛隊のスカウトマンにスカウトされて自衛隊の試験を受けるきっかけが出来たことだけだ。

私がこういう身分になっても意固地にハローワークに行かず自力で求職活動を行っているのはその経験があったからだ。
あれなら、家でネットで求人見てるのと変わらない。余所のハローワークはどうか知らないが。

最初は夜遅くまで一人で車でドライブしていたが、大体近所は飽きるほど走りきってしまい、ガソリンも勿体無いということで、他に時間つぶしの方法を考えていた。

DSやPSP持ってって車内でゲームってのもあったが、当時はまだ携帯機用のゲームは中古でも若干高かった。
安いのは既にブームが去って飽きられた脳トレとか古いバージョンのモンスターハンター、後はクソゲーの烙印を押されたソフトぐらいだった。

しょうがないので、ゲーセンに通うことになった。

2007年では既にゲーセン=アミューズメント施設化していて、金ばっかりかかるトレーディングカードゲームや体感型のもの、カードにデータを保存して遊ぶようなゲームが主流になっていた。

私は金がなかったが、安く時間を潰したかったので、もう廃れてきてて遊ぶ人間がほとんどいない弾幕シューティングを好んで遊んでいた。
人気がないので100円で2クレジット遊べる設定で、私の望みどおり100円で長持ちさせるにはうってつけだった。

私は古いタイプのゲーマーだったので相性もあっていた。

ちょうど当時置いてあったのが「虫姫さま ふたり」「怒首領蜂 大往生」「雷電IV」辺りを良くやっていた。
腕は期待しないで欲しい。この手のゲームは初心者もいいところなので、こなれてきても1クレジットで良くて3面が関の山だった。
後は「パロディウスだ!」「出たな!!ツインビー」辺りがレトロ枠に置いてあった。

通っていたゲーセンはいくつかあるが、小さいところやセガ系列のところはもう潰れてなくなってしまった。
潰れて長らく空き店舗だったところに最近別の業者が凝りずにゲーセンをオープンさせたが私向けの筐体は置いてなかった。
パチンコ・パチスロ、プライズ・プリクラ系がメインであった。

ゲームやるためにわざわざカード買ったりってのも嫌だった。初期投資が勿体無いと感じていた。

いつも一人で来ていたら金の消費ペースも上がって困るので、同じく無職ニートしてる友達を連れてきてただゲーセンをウロウロして時間が過ぎるのを待ったりしていた。

そこで、他のゲームをチラチラ見ていたら、いつも同じ人で集まって盛り上がっている筐体があった。
その時はどこまでそのゲームのことを知っていたのか今ではわからない。

そいつらを見てる限り、なんかマニアックで近寄り難い空気を発しており、「絶対あんなゲームにハマるもんか!!」と硬派なゲーマーを気取っていた。

2007年10月下旬。仕方なし足を突っ込んでいたアーケードシューティング界に、期待作が投入されるところだった。
それは、私も子供の頃、家で飽きるほどやった大好きな横シューティング「グラディウス」「パロディウス」のコナミが出す横シュー「オトメディウス」である。

見た目は萌えキャラを使ってて人目の多いゲーセンで遊ぶのをはばかれるような恥ずかしいデザインだったが、私はこれに非常に期待していた。

そして大手メーカーが出すだけあって、このゲームも当時ゲーセンで流行りだしていたカードにデータを保存する形式を採用していた。

私もその対応カードを別途購入して用意したのだった。

カードを買った日。まだ「オトメディウス」稼働日には早かった。
当時良くつるんでいた無職ニート仲間でゲーセンに来て時間を潰している間に買っておいたのだ。

せっかくカード買ったんだから、なんか対応ソフトないかと店内をぐるぐる見渡していると、

「期間限定!!初回プレイ無料!!」の張り紙をしている筐体が目に入った。

それが、「クイズ マジックアカデミーIV」だった。

無料という単語につられて、ついつい買ったばかりのカードを挿入してプレイしてしまう。

初回プレイは、ゲームの説明を聞かされる体験チュートリアルみたいなもので、実質ゲームが遊べるのは2回目以降だ。

なんか最初は、オタクっぽい絵柄で気持ち悪かったし、乗り気じゃなかったが、オンラインでクイズ対戦が出来るところに激しく惹かれたのだった。

実は先ほど書いた、いつも同じ人で集まってキモく盛り上がっていたゲームこそこれだったのだ。

初回プレイの“体験入学”が終わってすぐ、迷うこと無くコインを入れていた。

画面越しにいる対戦相手が、私と同じく人間であることに激しく興奮していた。

私はゲームの知識に関しては誰にも負けない自信があった。アニメとゲーム、テレビっ子だったので芸能分野を武器に勝ちあがっていった。

友達から外れ、一人で白熱していたら、仲間の一人が私の様子を見に来た。

私の初めて触るこのオンラインクイズゲームに対する興奮と衝撃に反して、かなり冷めて見られていた。

何時間でも遊んでいたい衝動に駆られていたが、一人で来ているわけではないので、適当なところで切り上げてその日は帰った。

それから「マジアカ」にハマる日々が始まった。

当初の目的だった「オトメディウス」は、稼動初日に一回プレイしただけで飽きて辞めた。
というか、マジアカにハマりだしてから弾幕シューティングはやらなくなった。

「オトメディウス」の売りであるタッチパネルボムも、既にマジアカに触れているとなんら珍しさを感じなかった。
マジアカも、直接タッチパネルに触って入力する操作形態だが、これがかなり新鮮でクイズゲームとの相性が良く無理矢理さが感じられなかった。

このころ、東京の会社に面接に行く予定を入れていて、東京に行ってもゲーセン巡りしながら、面接の時間までの時間つぶしにこのゲームをやりまくっていた。

12月になって落ち着いてきてから、友達のYさんにもこの面白さを伝えてみた。

Yさんは実際やりだすと、私よりも興奮してハマりだし、本当に短い間だが、毎日のように私を誘って夜中まで筐体に張り付いてゲームを一緒にやっていた。

一番ハマっていた日で、深夜2時くらいまでゲーセンにいる日があった。
行く前にドン・キホーテで“夜食”まで買いこむほどの力の入りようだった。

私はその時食べたイカの素焼きだか何かを食べて、食べ慣れないものを食べたせいか、帰ってきてすぐにお腹を壊しひどい病気にかかり数日寝こむことになった。
その時の話はまた別の機会に話したいと思う(病名も忘れてしまったから詳細を出来たら思い出しておきたい)。

Yさんはこの一件で、飽きていったようだが、私の熱狂はまだまだ止まらなかった。

年が開けてからも、マジアカ目当てのゲーセン通いは続いていた。
情けないことに、毎日通えるほどお金がなかったので、やりたい衝動を抑えて、大体週3回程度で我慢していた。

ちょうどマジアカに力いれている店が、平日限定2クレジットサービスを始めたので、そこに通うことにした。
そこは、最初の方に書いた、いつも同じ人で集まって盛り上がっているゲーセンだった。
そのゲーセンにはマジアカ廃人が集まっていたらしく、いろんな人がやってきてはプレーしていた。

両手でタイピングする術も見よう見まねで身につけた。

※マジアカの問題形式には、画面下に文字入力ボタンがずらっと並び自分でそれでタイピングして答えを回答するものがあり、なれない人は片手で入力する文字をちまちま探しながら押していくのだが、これを両手ですらすら出来るようになると立派なマジアカプレイヤーの証とも言える。
PCで言えば、タッチタイピングが出来るぐらいのレベルと同等だ。

2クレジットサービスが始まってから、私のプレイペースは着実に早まっていた。
2007年11月から本格的にハマりだし、マジアカIVがVに入れ替わってしまうのが2008年2月下旬。
Vになると、一部のものを除いてデータがリセットされる。
このわずか4ヶ月間で、賢者になるまで魔法石(経験値のようなもの)を稼ぎ、スタッフロールまで見た。

マジアカの腕前としてはIV基準で言えば、ケルベロス組とサイクロプス組を行ったり来たりして、運がよければフェニックス組に上がれる程度だった。

そんな熱狂的なハマリっぷりだっただけに、自然と最新バージョンのVへの期待も高まるものだ。

Vの稼働日は何度もゲーセンに足を運び、取り替えてる業者の前を行ったり来たりしながら、早く遊べないか待ちきれなかったものだ。

そしてその日の夕方、Vが稼動していた。平日(火曜日)だというのに、マジアカの筐体の前は人だかりが出来ていた。
全員が待ち望んでいた新作なのだ。無理もない。私もそれに並んで遊んでいた。

だが。
Vの稼働開始とともに、私はマジアカから飽きはじめていたのだった。

画面や音楽はにぎやかになって私好みなのは良かった。

なのに、魔法石を稼いだだけでは階級が上がらず、厳しい昇級試験を乗り越えないと次の階級に上がれないのだ。
階級が上がれないと、対戦前の予習や決勝戦で好きな問題形式を選べない。私はこれに不満があったのだった。

私の強みはなにより、ゲーム問題であり、それ以外は凡人か下手するとそれ以下のオバカさんだ。
ゲームに関してだけはずば抜けた強さを持っていて、決勝まで上がれたとき、それをひけらかすのが楽しかったし、それが最大の武器であった。

しかし、変なゲーム性を追求したせいで、どうしてもクリア出来ない課題を前に、いくら金を使っても階級が上がらず、だんだん不満が溜まっていった。

ちなみにV基準では、私はガーゴイル組とミノタウロス組を行ったり来たりする底辺クラスで、大魔導師に上がるための条件「ミノタウロス組で優勝せよ」が達成できなかった。
一度、この条件に当たる前に、優勝したことはある。まぐれだが。

どうにもならないので、Yさんについてもらって手伝ってもらったぐらいだ。
Yさんは既にマジアカには冷め切っていて、嫌だろうなあと思いながらも付き合ってもらった。

2008年5月、大手のラウンドワンでも早くもマジアカ2クレジットサービスが始まった。
恐らく、私と同じように不満をためて、やめてった人が多かったテコ入れだったのだと思う。

私はまだ平静を保てず、はまり込んでいた。

2クレジットサービスのおかげで、また離れ始めた心が戻り、「ミノタウロス組で優勝せよ」にチャレンジし続けていた。
この間も、何度かYさんに手伝ってもらっていたが、今一歩といったところで優勝を逃すのだった。

Vになって検定試験という新しいモードが追加された。
検定試験は、一人用で、テーマに沿った問題が25問出題されて、高得点を狙っていくものだ。
私は、マジアカ=対戦だと思っていたので、まったく興味をもたなかった。

が。
2008年6月にメタルギア検定というものが始まったときにやり込んだことがある。
なぜなら、私が得意とするゲームを扱った検定だったからだ。
これについては、巷の評判は悪かったが、私はかなり楽しんでいた。

しかし、メタルギア検定に飽きだしたころ、同時にマジアカへの熱も冷めていった。

理由としては、組分けシステムが変わってからさっぱり勝てない、
そして、階級がいつまでも上がらない。

この2点だった。

だいたい、いくらIVからVに変わったとか言っても、やってることは全く同じなわけで、これまで飽きなかったのが逆に不思議なくらいである。

また2008年9月12日にDS版が出ることも拍車をかけていた。

わざわざ、ゲーセンに来てやる必然性のないゲームだ。
家でネットにつないでだらだら対戦できるならそれに越したことはない。

同時期に現実を見始めたことも大きい。
このゲームをやり続けていた最大の理由は、100円で長く遊べるからだ。
うまくいけば15分弱は遊べる。2クレジットだと、その倍近く遊べることになる。

マジアカを知る前までは、弾幕シューティングが長持ちすると思っていたが、20分もやれば心地良い疲労感に襲われ疲れてしまうが、マジアカはそういう反射神経やきわどい腕前は求められず、長時間遊ぶにはもってこいだった。

2008年の夏ごろから、私は逃げ続けるのをやめて必死に就職活動に精を出すようになった。
そうなると、意味もなく外で時間をつぶす理由がなくなる。

せいぜい、面接で嫌な気分になったのを晴らすために帰り際、車内でスーツから普段着に着替えマジアカをやりにいく程度になった。

その後もマジアカはVI、VIIとバージョンアップしていくが、新しくなった時だけ初日に少し触る程度で、もうすっかり昔の熱狂さは湧いてこなかった。

2010年2月11日。DSでマジアカ2が出たが、最後にマジアカに寝食忘れるほどハマったのは、これが発売されて、発売日から数日間対戦相手に困らなかった時期だけだ。

そのマジアカDS2も、だんだんと飽きてきていた。
ちょうど臨時職員の仕事が始まったこともあり、ゲームに時間をかけられなくなったのもある。

ゲーム問題だけを(そういう設定で遊べる)ハイスコアを狙うためにたまにやる程度になった。

それも先日3000点を超えたことで、完全に飽きてしまった。
これ以上の点数を出すには、よっぽど運が良くなければたたき出せない。

1ゲーム18問だが、いくら沢山正解しても、問題によっては合計2000点いかないこともある。そんな環境でのスコアアタックだ。

こうして、私とマジアカとの関係は終わりを告げた。
DSで3がでればやるだろうが、一時的にやって終わりになるだろう。昔のように延々とハマり続けることはもうない。

というか、間違いなくIIIやIVのころは、ゲーセンで流行っていたが、VI辺りからはもうゲーセンでやる必要性がないのだから、さっさと有料でもいいからPCネットゲーに移行するべきだった。

だいたい、VIの段階で、MMORPGで言うギルド(フレンドモード)みたいな機能を付けるべきだと私は思っていたら、今度出るVIIIでやっとそういう機能(サークル機能)を実装するのだそうだ。
この機能が、数年前私がこうすべきと考えていた機能と細部までが一致し、内心驚いていた。

どうせ、PC版に移行するのも何年か後にやるだろう。それだと遅すぎるのだ。

もう既にフリーウェアで似たようなゲームが出ている時点で負けている。
世の中の先を見る眼がなさすぎるとしか言いようがない。

今のゲーム業界で働いている人間が、たいしたゲーム好きでない人間ばかり雇入れている証拠の一つだ。
ゲームに情熱を持ってない人間が、仕事でゲームを作ればこうなる。

今のゲーム業界は、有名大学出身の頭でっかちな器用さも必要なのは否定しない。
昔のようにゲームでないと食っていけないような、落ちこぼれの集まりでは成り立たないということはわかる。
が、そういった落ちこぼれを避けるように排除していった結果もこのざまだ。

マジアカが世間で体感的に流行ってきたなと感じたのは2008年のVが出始めた頃だった。
まだIVの頃は、その筋の知っている人だけで盛り上がっている感じだった。
ときどき、ネット見てると(ちょうどIIIの時代)マジアカのことを書いてるHPやブログがわずかながらあったが
なぜこんなに必死なのか当時はわからなかった。
じっさい体験してみると、他人に話したくなるという気持ちがよくわかった。

私はトリビア現象と呼んでいるが、世間で話題になりだすと、たいがいのものは同時にブームに終わりが見え出すものだ。
ネットでもだいぶマジアカの話題が良く出てきた頃、私は既に飽きてきていて、そのうち大規模なテコ入れをしないとこの人気も終わるなと思っていたら、今やネットでもあまり話題にされなくなった。

これは1よりも出来が格段に良くなったDSのマジアカ2の売上の悪さや発売時に話題にものぼらなかったことが指し示している。

私の2000年代後半の数少ない明るい思い出の一つだ。
マジアカに出会わなければ、私は代わりに何をやっていたのだろうと疑問に思う。
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家の家庭環境について

今日の夕方頃、久しぶりに夫婦で激しい言い争いがあったそうだ。
私は家に居づらいのでたまたま外出していなかった。

詳しくは聞かされてないが、恐らく私が定職についていないことも関係しているのだろう。

私の父親は典型的な亭主関白タイプで、昔っから怖くてまともに話をすることが出来なかった。
当然逆らうことや言い訳はできなかったし、気難しく、ワンマン気性という、今の時代ある意味希少なタイプの人間だ。
漫画「巨人の星」のおやっさんみたいなものだ。

特にここ数年歳を取ってくると殿様気性はより強くなっていき、手の付けられない状態になっていった。

ただでさえ、会話の少ない家庭だったのに、この数年は触ると何言いがかりつけられるかわかったもんじゃないので、親父には好きなようにさせて、私も母親も関わらないようにしていた。

家のことは一切しなくなったし、嫌がらせなのか天然でボケてきたのかトイレに入ると床におしっこをもらしていくし、筋の通らない理屈をこねて自分の我を通そうとする。

全部、無言で許容してきた(我慢してきた)。

これは私が定職についててきちんとした収入があれば、ある程度発言力を持てて、対抗出来たのだろうが、今の私は社会的弱者でどうにもできない。

そんな夫婦関係は私にとってははっきりいってどうでもよい。

仕事のことについて、説教されるというのは本当に困ってしまうものだ。

そりゃ、本来会社員やっているべき年齢の人間がいつまでもフリーターあるいはニートでフラフラしているのが頭に来て怒りたくなる気持ちはわかる。

ところが多くの無職は共感してもらえるだろうが、
私だって好きでこんなことをしているわけではないので、怒られてもなんともしようもないのだ。
(そりゃ24,25のころはまだ遊んでたい、働きたくないでござるみたいななまけぐせはあった。若さ故の余裕みたいなものがあったのだろう)

特に私は、学生の頃はそうでもなかったが、卒業してホームページやりだしてからは、ボケッとしているのが苦手になり、働いてる頃、休みの日も目的を持ってなにかやってないと不安になる人間になってしまった。

だから、することが何もない無職の一日というのは長くて辛いし(することがないと眠くなって昼間から睡魔に襲われ寝てしまい夜型生活になるのが一番キツイ)、
でも、求職活動というのは(いま完全に無職ニートの私が言うと言い訳にしか見えないが)周りの状況とか、私が社会のレールから外れてしまったという事情などもあり、
私ばっかりが頑張ってもそううまく回るものでもない。

創作活動やっている人ならわかってもらえるかもしれないが、毎日予定通りに、思ったとおりに作業が進むだろうか?
プロはそこもきっちり管理しなければならない立場になるが、親であっても第三者の事情のよくわかってない人間にチャチャ入れられたところで、対処に困ってしまうというのが本音である。

多くの無職ニートはそうだろうが、やる気はあっても具体的にそれが表れてないというミスマッチが、やりにくい環境を産んでしまっているのだと思う。

私の場合は、実際会社員として働いていた期間もあってここに入るが、恐らく一番多いパターンは、一度も(バイトは除いて)働いたことがないニートよりも、一度就職したけど失敗して辞めたタイプだろう。
そして、TVでたまに見せ物にされている(やらせ臭い)「ひきこもり・ニート」のような一度も働いたことがない、働けないみたいな変人扱いされてる人よりも、一見何の問題もなさそうな普通の人で働く意欲がなかなか出てこない一度挫折した人間を治療するほうがよほど難しいと思う。複雑な事情が絡み合っているからだ。

親が子供に向かってそういう状態に陥って怒るってことは、(本当に働きたくない人をのぞいて)信頼関係がなかったり、(私は人のせいにするつもりはないが)育て方をどっかで誤ったんだろうと思う。
私がなぜ就職活動でつまづいたかは以前書いたので、そこを読んで欲しい。
関連→就職活動に失敗した理由

私の場合は2007年(25歳の時)の頃がしょっちゅう親に怒鳴られたり一番ひどかった。バイトはしていたが定職についていなかった。

妹が植物人間で、介護施設の世話になってるつてで、その介護施設の社長が親の友達なので、そこになんとかして入れようと私をボランティアという形で昼間無理矢理働きに行かせるようにした。
しかし、バイトもしているので決まった時間に毎日長時間働きに行けず、親がうるさい時や体裁をギリギリ保てるラインを模索して、適当にやっていた。

そんな態度だと当然ボランティアから上に上がれるはずもない。

私自身、介護職は乗り気でなかったし、贅沢を言えない立場になった今でもこの職種に就きたいとは思わない。
大変なのは家にいてわかるし(ボランティア初日に障害者の排便処理を手伝わされていわゆるアソコを触らせられるという強烈な出来事もあって余計嫌気がさしていた)、
私はこういう人を扱い体を動かす仕事は苦手で、当時から事務仕事のほうが向いていると思っていた。なにより薄給だというのもある(利益を追求する団体ではないからだ)。つまり大変なだけで将来性に期待できない。
3ヶ月ぐらいボランティアやっていたけど、やはり楽しいとは思える仕事ではなかったのが決定的だった。

そうしてうやむやになってきたころに、自然とフェードアウト出来たが、相変わらず親父の発狂は止まらなかった。
ただ、当時は私にも非はあった。働かず楽に暮らしたい気持ちも強くて、真剣に将来のことは考えていなかった。
だが漠然と安定した身分につきたいとは思っていた。

2007年10月。親父の発狂があまりにひどくなってきたので、登録している転職サイトでよさげな会社を適当に選んで受けることにした。
勤務地は東京だ。こんな家さっさと出たかったためだ。

ネットでエントリしたあと、その日の夕方、その会社から電話がかかってきて11月中旬面接に行くことになった。
一次面接、二次面接も通り、初めての内定を手に入れた。とはいえここも契約社員だったのだが、健康診断や代理人の手続きなど割としっかりした会社であった。2chにもスレが立っているほど(評判は悪いが)の会社だった。

何年も就職できなかったのに、内定をとれたことをあっさり書いているが、求職活動なんて本来こんなものだ。
沢山うければ(確率的にはそりゃ上がるが)良いというものでは決して無いと思っている。そりゃ沢山チャレンジする努力が必要なのは認めている。

採用が決まって初めて親父にその会社の話が行く。
勝手に会社を受けて勝手に話を進めていたことに親父はあまりいい顔をしなかった。
そして直前でいろいろとごねられて、そうしている間にも入社時期は近づいてきて、しかし身内でもめているため準備がままならず、時間切れで断ることになってしまった。

それから2008年を迎えた。

嵐のような2007年がウソのように、2008年からは親は仕事について口出しをしてこなくなった。
そして私も一連の出来事を経て、年齢的にも危うさを感じていたので、バイトをしながら必死に就職活動に精を出すようになったのである。
その後の話は、以前書いた新聞販売店で働くのはおすすめしないにつながっていく。

このことからわかると思うが、周りが無理矢理働かせようとしたって、まず続かない。
放っておくよりは働くきっかけを与えるという点では良いかもしれないが、今の例のように押し付けがましいと逆効果になる。

結果的に2007年親の介入がひどかったから、2008年その反動で必死に求職活動をするようになったわけで、また無職に戻った2009年以降、家に居づらく怒鳴られることもあったが数えるほどしかなく、基本的に見捨てられている今の状態だと、こういった心境の変化も起きなくなった。

以前にも少し書いたが、じゃあ私はどうしたいと思っているのか?

新聞販売店、(バイトだが)臨時職員でも事務職をやってきているので、出来れば事務職をやりたいと思っている。
が、地元にいても決まりきった仕事しか無い。
新卒の時も既卒の時も就職活動でつまづいている一番の原因はここなのだ。

地元に自分の合う仕事がなかなか無い。

募集しているのは大体にたようなとところばかり。都心にでも行けばまた状況が変わってくるのだろうが、私の住んでいる町は本当に決まりきった求人しか出ていない。

だから、家をでたい。

2009年、無職の頃、自分の所有物を全部ダンボールに詰めて整理した。いつでも家から出られるようにするために。

ぶっちゃけ、大半がゲーム関係ばかりで、じゃまになるので、この際処分してもいいと思っている。
ゲームレビューサイトは7年やっても軌道に乗らず、ゲーム自体への興味はほとんどなくなってきていて、ゲームを心から楽しめなくなってきていた。
今の私は創作活動に興味があり、これを飯の種にするほど頭がお花畑ではないが、趣味でやっていきたいと思っている。

だいたい、今の私は、というか30近い歳になってくると、もう一生懸命仕事をしてそれで給料をもらって食べていければそれでいいと思うようになっていく。欲がなくなってくるのかもしれない。

多分、ちゃんと社会のレールに乗っかっていたとしたら、30手前というのは一番仕事が面白くなってくる年齢じゃないかと思う。

仕事を覚えて効率よく回せるようになってきて、そしてそれが成果に出てきて、出世もして部下ができる。
貯金もたまってきて、もらえる給料も増えてきて、ちょっとした贅沢も出来るようになってくる。

私はその、本来年齢的にそういうやり甲斐が出てくる期間までしっかりした下積みをしなかったので、今も辛い思いをしている。

大体、私もそうだが、親父もこんな落ちぶれた私を見たくないだろう。私が親父と顔を合わせるのが嫌なのと同じように、向こうもそう思っているはずだ。

ただ、私はもう年齢的に真っ当な職につくのは無理だと思っている。
私には友達もいないし、起用でもない。

だから、東京に出ていって、デバッガーのバイト(ゲームが得意だからってこれで出世とか全く狙ってない)と、もう一つなんかまともなバイトをかけもちしながらお金を貯めて、株で生計を立てようと考えていた。
(幸い新聞販売店にいたときの給料が高くて、だらだら合計1年以上無職やっていてもまだ貯金が残っているのが凄い)

働きたくないから株をやるのではない。もう私にはそれしか残されていないとつねづね思っていたからだ。

株やるのだって楽じゃない。まず、勉強しなくちゃならないし、安定した収入を見込めるものではない。
それに、人間関係を築かず部屋に一人こもって毎日PC画面にかぶりついて作業をする。
これがやる前から苦痛な環境に見えるのは想像に難くない。

そんなことを考えていてうだうだ実家で過ごしていた矢先に、東日本大震災である。
こっちは至って平和な日常生活に戻っているが、関東はまだ余波を受けているようだ。
というか、あの地震はこれまでのものと違って一時的なもので済みそうにない。

特に地震が起こって最初の一週間は、目の前が真っ暗になりひたすら絶望に打ちひしがれていた。

こんな状態が長く続けば、上京して一人暮らしなんてとてもじゃないが出来る雰囲気ではないし、
私も会社員をやっていたから感覚的に分かるが、例えば12月とか繁忙期みたいな時期に採用活動なんて出来ない。
そんなことやってる暇がないのだ。仮に人を雇ったって教えている暇がない。
今でこそ関東も少しは日常を取り戻しつつあるようだが、イソイソと仕事が無いからと田舎から出ていって仕事を探す状態にはまだないことはわかっている。だから目の前が真っ暗になったのだ。

かといって関西までいく気は起きない。

一応、いま私が無職で無気力でほとんど動いてないけども、頭の中にずっと思っていることを文章に起こした。

就職活動に失敗した理由

私がなぜ就職活動に失敗したのか、今日はその話を書いていく。

最初に結論を書けば、行きたい大学に入れなかったからだ。

私はガキの頃から、父親の影響でゲームばかりやっていた。
家には、物心付く前からファミコンと大量のカセットがあったし、その後PCエンジンという、まず私の年代の家庭では持たないだろうゲーム機(しかも当時ゲーム機でありながら7万円はするCD-ROMドライブまで買っていた)ももち、
テレビゲームに関しては至れり尽くせりであった。

また、徳間書店が発行していた「ファミリーコンピュータマガジン」系のちょっと硬派なゲーム雑誌を親が買っていて、私もなんともなしにそれらのゲーム雑誌を読みあさっていた。

昔のゲーム雑誌は、ゲーム開発者のコラムとかゲーム会社や開発機材や環境を紹介する記事なんかも扱っていた。
そういうバックグラウンドも見ていると自然とゲーム開発に興味を持っていくものだった。

ただ実際にプログラムを組んだりはしていなかったので、そういう面ではゲーム業界を目指すには全然押しが足りなかったと言える。

ゲーム機は沢山あったけど肝心のPCは、私が中学2年生の頃にやっと購入した(未だに忘れない、最初のマシンはNECのバリュースターV10であった。20万円もしたのに既に持っていたプレイステーションより全然性能の低い困ったPCであった)。
Win95ブームの時に導入したものだ。
関連→バリュースターV10の詳細

同時期にスーファミでRPGツクールが出てて、近所の電気屋に中古1000円で売っているときに買って、それで一本作品を完成させることは出来なかったが、そこで色々気ままにスクリプトをいじくってイベントを作ったりはしていた。

本当はここで本格的なRPG1本でも作ってれば力が付いていたのかもしれないが、適当にスクリプト作ってるだけでも面白かったので、数ヵ月後まだ中古でも4000円ぐらいしたのだが、RPGツクール2も買った。
こっちはエディターの完成度が非常に高く、新機能を試したりして楽しんでいた。

ガキだったからなのだろうが、飲み込みは早かった。スイッチとかの理解も早かったし、うまくイベントが動かないときは、何が原因か探し当てるのも早かった。
このゲームのおかげで、テレビゲームの仕組みがよく理解できた。

その後、中学3年生の時の選択授業で迷わずBASICプログラムを選び、課題である電流計算のプログラムを割と早く完成させて、余った時間に背景に色をつける方法とかを先生に教えてもらって色々いじっていた。
(ちなみにこの先生は、私の1年生の時にひと騒動あった担任の先生だ)
関連→中学校時代に受けたいじめ

しかし私の中学校はでかく、いろいろな人がいるわけで、その中に一人だけやたらPCに詳しいオタクがいて、この人にはさすがに勝てなかった。
この人も当然私と同じ選択授業を選び、私以上のスピードでプログラムを書いて私以上の高度なことをやらせてもらっていた。

同じ塾にも通っていて、合格したら当時はまだ高かった64メガのメモリを買ってもらうとかPC好き以外には訳の分からない報酬を貰う予定でいた(ちなみに私も当時は詳しくなかったので、この報酬も間違ってる可能性が高い。確か64メガだか64ビットだかのメモリーだったかCPUを買うとか言っていた)。

この狂ったPCオタクは高校に入ってからPCへの興味が急激になくなり、当時流行っていたSHAZNAみたいなビジュアル系バンドをやりだしてますます訳の分からないヤツになっていった。
最後にそいつの話を聞いたのはauの携帯電話の代理店でバイトをしてて、営業成績トップだという話を人づてに聞いたきり。
相変わらず訳の分からないヤツだと思ったものだ。

なぜ、長々こんな話を書いたのか?

私の世代は、ファミコン絶頂期でゲームクリエイターを将来の夢に持つ人は珍しくなかった。
今と違ってまだ夢に満ち溢れていたし、一攫千金狙える世界だった。

中学時代の同級生にも一人いた。そいつとは同窓会で久々に会ったのだが、
ノートにRPGの魔法や特殊能力などのデータを書きだし攻略ノートを作っていて周りから影で変人扱いされていたヤツだ。
進路選択で高専でそれっぽい学科を選んだが、名前に騙されたらしく自分の意に沿う勉強が出来なかったことを不満にあげていた。でも、なんだかんだでコンピュータ系のカリキュラムだったので就職にはつまずかなかったという。

私もそういう馬鹿な連中の一人なのだが、今思い返すとちょっと事情が違ったように思う。
ただドラクエだのマリオだのやっていて「俺もこんなゲーム作りたい」と漠然と夢を持つヤツらとは違って、
父親が買っていたゲーム雑誌を見ていたおかげでそこらのただファミコンやってるだけのガキより多少は詳しかった(ゲームも沢山プレイしている)。
だが、具体的にPCいじってプログラムをするほどでない微妙な位置にいる人間だった。

ゲーム業界というよりも、プログラムに興味があった。
そりゃ身近にあるゲームを仕事に出来たらより良い限りだろうが、そこまで限定はしてなかったと思う。

今でも個人的にネットでプログラミングについて調べたりする。だが全くの素人には理解できる解説がなかなか無いのが残念な所だ。

ゲームはゲームでも、プレイステーション2以降のゲーム機にはあまり興味が出ない。
ファミコンやスーパーファミコン時代の平面処理(スプライト)で一生懸命動かしてる頃のゲームに興味がある。
プレイステーションやセガサターンにも興味はあるが、3Dポリゴンのゲームを動かすには制約が多いので、どうやって工夫しているのかに興味がある。
最近のゲーム機は、容量やメモリ(勿論ハイエンドを目指せば制約が出るのだが)を気にせず作れるので、私としてはあまり魅力的に見れない。

思えば、ゲームに対しての興味が薄れていったのもPS2が主流になってきてからだった。
その頃にゲームレビューサイトを立ち上げて、買ったゲームは必ず最後までやり切る!と決めるまではゲームに夢中になることが減っていたと思う。

話を昔に戻すが、そんなガキ(中学生)だった。

親も私の嗜好を分かっていたのか、工業高校の電子機械科をすすめられたが、パンフレットを見る限りなんか違う感じだったのと、自分の学力を試したいというくだらない理由で合格率2%のちょいと受かるのが厳しい進学校を選んだ(今思えばそのまま工業高校に行けばよかったと後悔している)。

で、大学を選ぶ段で、情報系の学部に行きたかったのだが、家の事情で仕送りとか無理だから実家から通える大学ときつくいわれ、渋々地元ではバカ大と言われてる経済学部に入ったのだった。

そうして大学3年秋になりはじまる就職活動では、私の就きたい職種は全く無く、営業系ばっかりで、
リクナビ2003に登録しても、引っかかるのはやはり営業系ばかり。
強いて行きたいと思えたのは広告印刷系の会社ぐらいだが、ここの説明会のババアが就職氷河期で買い手市場だからって異常に強気で、その態度が気に入らず、さっさと退室した。

こうして就職活動はまともにやれないまま、あっさり卒業式を迎え、私は人生につまづくことになった。

バイトはしていたものの名実ともに無職となった2004年4月、私は円形脱毛症になっていた。
そして、就職は出来なかったけど、収入に結びつかなくてもいいからなにかやろうと思い立って始めたのが
ここで何度か出てきているゲームレビューサイトであった。

新卒の就職活動に失敗してから私の時間は止まっている。
あれからもう丸7年たとうとしている。未だに解決の糸口は見えてこない。

私は怠けているのだろうか?

こうやって思い通りにならなかったとき、他の人はどうやって折り合いをつけて生きているのだろうか?

決して好きでこんなことをしているわけではない。
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