2002年の春休みのひとコマ

Yさんにこのブログを教えたが、見ているかどうかテストするために、Yさん絡みのエントリを増やしてみよう。

それは、2002年(大学2年から3年生になろうとしていた時期)の春休みのことだった。

Yさんは自分がハマっているものを、良く私にすすめてくることが多かった。

私はどちらかというと、こうやって他人に染められる側の人間だった。

Yさんは私に、手強いシミュレーションで有名な「ファイアーエムブレム」をすすめられていた。

ところがゲームに詳しかった私は、あれは私についていける代物じゃないと結論が出ていたので、中々やろうとしなかった。

Yさんがすすめてきていた時期は、ちょうどゲームボーイアドバンスで「ファイアーエムブレム」の新作が大々的に復活していた頃だった。

2002年3月29日発売された「封印の剣」というヤツだ。

猛烈なメールでのプッシュに私は根負けして、ゲームショップで買ってきて遊ぶことにした。

かつて、親父が1994年1月21日に買ってきたスーファミの「紋章の謎」をやっていて、確か第一部の8章辺りの竜騎士が後ろから追ってくる面がどうしてもクリアできずに辞めたものだった。

ところが、今回買ったファイアーエムブレムは、戦う前に戦闘結果の予測が表示されたり、色々親切に変わっていて、私でも付いていけそうなゲームになっていた。

それでも初心者の鬼門とも言える、7章だか8章だか確か闘技場が初めて出てくる面のドラゴンナイトが敵ユニットにせめて来る面で諦めたのだが。

このシリーズで、なにより挫折するかしないかの分かれ目になるのは、ダメージ計算式が理解できるか出来ないかだと思う。

攻撃力?防御力=ダメージといういたってシンプルな計算式なのだが、ゲーム上で一切説明がなく、自分で気づかなくてはならなかった。

だが、新しいファイアーエムブレムは、戦闘の予測結果を表示してくれるので、今まで説明不足だった部分が飲み込めて楽しめるようになっている。

私は未だにクリアーしておらず積みゲーになっているが、まとまった時間が取れたらやってみたいと思っている。

もう9年も前の話だ………。

あの頃は、こうやってYさんと毎日しょっちゅうメールでやりとりをしてて、大学、バイト、遊びと毎日が心配事に悩まされること無く楽しく過ごしていた。

それに比べて今は、Yさんとの関係もすっかり疎遠になり、一緒に遊ぶことすらなくなり、メールを出すことすらどこかはばかれるような空気になってしまった。

今日ふとそんな昔の楽しかった出来事を思い返してしまい、昔に戻りたくなってしまった。

あの頃は毎日が充実していたものだった………。

どこで道を違えてしまったのだろう。

今はホームページも、ブログも頑張っているのにうまくいかず、ゲーム配信はしびれを切らしてやめてしまった。

ゲーム配信は掲示板をまだ残しているが、さっき魔が刺して久しぶりに掲示板を除いてみたが、書き込み一つ無い寂れっぷりにまで落ちぶれた。
これじゃもう再開の目処は全く立たないだろう。

3/31に消すつもりだったが、これなら躊躇なく削除して、完全にゲーム配信から縁を切ることが出来る。

ブログだって、これだけ毎日気合の入ったエントリをしているのに、誰にもみられることがなく、このブログも一人相撲の状態である。

仮に、ここで自殺予告したり、自殺者を募集しても、偽善者に邪魔されること無く、何も問題なく事が運ぶのではないだろうか?

最近はあまりにも自分の人生がうまくいかず、衝動的に自殺しようと考えてしまうことが非常に増えている。

ただ黙って自殺するのも面白くない。
どうせならここで告知してから自殺したり、同じく自殺したい人を募集して誰かを道連れにしてやりたいぐらい負の感情で今の私は爆発しそうになっている。

その後のことなど何も考えていない。
なぜなら自殺してこの世から消えてしまったら、後のことなど考える必要なんてないからだ。

昨日、外に出て、小春日和の風景を見て、不意にこのような昔楽しかった出来事を思い出して泣きそうになってしまった。
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ゲーセンに入り浸っていた頃の話

2007年、あの頃、親が仕事について口うるさかったため、家に居づらく、用もないのに無理して車で外に出歩いていた。

この時期見かねてハローワークにも通ったこともある。
が、あそこはお役所仕事でまるで役に立たない。
あそこに通って身になったのは、行き帰りの時、張っていた自衛隊のスカウトマンにスカウトされて自衛隊の試験を受けるきっかけが出来たことだけだ。

私がこういう身分になっても意固地にハローワークに行かず自力で求職活動を行っているのはその経験があったからだ。
あれなら、家でネットで求人見てるのと変わらない。余所のハローワークはどうか知らないが。

最初は夜遅くまで一人で車でドライブしていたが、大体近所は飽きるほど走りきってしまい、ガソリンも勿体無いということで、他に時間つぶしの方法を考えていた。

DSやPSP持ってって車内でゲームってのもあったが、当時はまだ携帯機用のゲームは中古でも若干高かった。
安いのは既にブームが去って飽きられた脳トレとか古いバージョンのモンスターハンター、後はクソゲーの烙印を押されたソフトぐらいだった。

しょうがないので、ゲーセンに通うことになった。

2007年では既にゲーセン=アミューズメント施設化していて、金ばっかりかかるトレーディングカードゲームや体感型のもの、カードにデータを保存して遊ぶようなゲームが主流になっていた。

私は金がなかったが、安く時間を潰したかったので、もう廃れてきてて遊ぶ人間がほとんどいない弾幕シューティングを好んで遊んでいた。
人気がないので100円で2クレジット遊べる設定で、私の望みどおり100円で長持ちさせるにはうってつけだった。

私は古いタイプのゲーマーだったので相性もあっていた。

ちょうど当時置いてあったのが「虫姫さま ふたり」「怒首領蜂 大往生」「雷電IV」辺りを良くやっていた。
腕は期待しないで欲しい。この手のゲームは初心者もいいところなので、こなれてきても1クレジットで良くて3面が関の山だった。
後は「パロディウスだ!」「出たな!!ツインビー」辺りがレトロ枠に置いてあった。

通っていたゲーセンはいくつかあるが、小さいところやセガ系列のところはもう潰れてなくなってしまった。
潰れて長らく空き店舗だったところに最近別の業者が凝りずにゲーセンをオープンさせたが私向けの筐体は置いてなかった。
パチンコ・パチスロ、プライズ・プリクラ系がメインであった。

ゲームやるためにわざわざカード買ったりってのも嫌だった。初期投資が勿体無いと感じていた。

いつも一人で来ていたら金の消費ペースも上がって困るので、同じく無職ニートしてる友達を連れてきてただゲーセンをウロウロして時間が過ぎるのを待ったりしていた。

そこで、他のゲームをチラチラ見ていたら、いつも同じ人で集まって盛り上がっている筐体があった。
その時はどこまでそのゲームのことを知っていたのか今ではわからない。

そいつらを見てる限り、なんかマニアックで近寄り難い空気を発しており、「絶対あんなゲームにハマるもんか!!」と硬派なゲーマーを気取っていた。

2007年10月下旬。仕方なし足を突っ込んでいたアーケードシューティング界に、期待作が投入されるところだった。
それは、私も子供の頃、家で飽きるほどやった大好きな横シューティング「グラディウス」「パロディウス」のコナミが出す横シュー「オトメディウス」である。

見た目は萌えキャラを使ってて人目の多いゲーセンで遊ぶのをはばかれるような恥ずかしいデザインだったが、私はこれに非常に期待していた。

そして大手メーカーが出すだけあって、このゲームも当時ゲーセンで流行りだしていたカードにデータを保存する形式を採用していた。

私もその対応カードを別途購入して用意したのだった。

カードを買った日。まだ「オトメディウス」稼働日には早かった。
当時良くつるんでいた無職ニート仲間でゲーセンに来て時間を潰している間に買っておいたのだ。

せっかくカード買ったんだから、なんか対応ソフトないかと店内をぐるぐる見渡していると、

「期間限定!!初回プレイ無料!!」の張り紙をしている筐体が目に入った。

それが、「クイズ マジックアカデミーIV」だった。

無料という単語につられて、ついつい買ったばかりのカードを挿入してプレイしてしまう。

初回プレイは、ゲームの説明を聞かされる体験チュートリアルみたいなもので、実質ゲームが遊べるのは2回目以降だ。

なんか最初は、オタクっぽい絵柄で気持ち悪かったし、乗り気じゃなかったが、オンラインでクイズ対戦が出来るところに激しく惹かれたのだった。

実は先ほど書いた、いつも同じ人で集まってキモく盛り上がっていたゲームこそこれだったのだ。

初回プレイの“体験入学”が終わってすぐ、迷うこと無くコインを入れていた。

画面越しにいる対戦相手が、私と同じく人間であることに激しく興奮していた。

私はゲームの知識に関しては誰にも負けない自信があった。アニメとゲーム、テレビっ子だったので芸能分野を武器に勝ちあがっていった。

友達から外れ、一人で白熱していたら、仲間の一人が私の様子を見に来た。

私の初めて触るこのオンラインクイズゲームに対する興奮と衝撃に反して、かなり冷めて見られていた。

何時間でも遊んでいたい衝動に駆られていたが、一人で来ているわけではないので、適当なところで切り上げてその日は帰った。

それから「マジアカ」にハマる日々が始まった。

当初の目的だった「オトメディウス」は、稼動初日に一回プレイしただけで飽きて辞めた。
というか、マジアカにハマりだしてから弾幕シューティングはやらなくなった。

「オトメディウス」の売りであるタッチパネルボムも、既にマジアカに触れているとなんら珍しさを感じなかった。
マジアカも、直接タッチパネルに触って入力する操作形態だが、これがかなり新鮮でクイズゲームとの相性が良く無理矢理さが感じられなかった。

このころ、東京の会社に面接に行く予定を入れていて、東京に行ってもゲーセン巡りしながら、面接の時間までの時間つぶしにこのゲームをやりまくっていた。

12月になって落ち着いてきてから、友達のYさんにもこの面白さを伝えてみた。

Yさんは実際やりだすと、私よりも興奮してハマりだし、本当に短い間だが、毎日のように私を誘って夜中まで筐体に張り付いてゲームを一緒にやっていた。

一番ハマっていた日で、深夜2時くらいまでゲーセンにいる日があった。
行く前にドン・キホーテで“夜食”まで買いこむほどの力の入りようだった。

私はその時食べたイカの素焼きだか何かを食べて、食べ慣れないものを食べたせいか、帰ってきてすぐにお腹を壊しひどい病気にかかり数日寝こむことになった。
その時の話はまた別の機会に話したいと思う(病名も忘れてしまったから詳細を出来たら思い出しておきたい)。

Yさんはこの一件で、飽きていったようだが、私の熱狂はまだまだ止まらなかった。

年が開けてからも、マジアカ目当てのゲーセン通いは続いていた。
情けないことに、毎日通えるほどお金がなかったので、やりたい衝動を抑えて、大体週3回程度で我慢していた。

ちょうどマジアカに力いれている店が、平日限定2クレジットサービスを始めたので、そこに通うことにした。
そこは、最初の方に書いた、いつも同じ人で集まって盛り上がっているゲーセンだった。
そのゲーセンにはマジアカ廃人が集まっていたらしく、いろんな人がやってきてはプレーしていた。

両手でタイピングする術も見よう見まねで身につけた。

※マジアカの問題形式には、画面下に文字入力ボタンがずらっと並び自分でそれでタイピングして答えを回答するものがあり、なれない人は片手で入力する文字をちまちま探しながら押していくのだが、これを両手ですらすら出来るようになると立派なマジアカプレイヤーの証とも言える。
PCで言えば、タッチタイピングが出来るぐらいのレベルと同等だ。

2クレジットサービスが始まってから、私のプレイペースは着実に早まっていた。
2007年11月から本格的にハマりだし、マジアカIVがVに入れ替わってしまうのが2008年2月下旬。
Vになると、一部のものを除いてデータがリセットされる。
このわずか4ヶ月間で、賢者になるまで魔法石(経験値のようなもの)を稼ぎ、スタッフロールまで見た。

マジアカの腕前としてはIV基準で言えば、ケルベロス組とサイクロプス組を行ったり来たりして、運がよければフェニックス組に上がれる程度だった。

そんな熱狂的なハマリっぷりだっただけに、自然と最新バージョンのVへの期待も高まるものだ。

Vの稼働日は何度もゲーセンに足を運び、取り替えてる業者の前を行ったり来たりしながら、早く遊べないか待ちきれなかったものだ。

そしてその日の夕方、Vが稼動していた。平日(火曜日)だというのに、マジアカの筐体の前は人だかりが出来ていた。
全員が待ち望んでいた新作なのだ。無理もない。私もそれに並んで遊んでいた。

だが。
Vの稼働開始とともに、私はマジアカから飽きはじめていたのだった。

画面や音楽はにぎやかになって私好みなのは良かった。

なのに、魔法石を稼いだだけでは階級が上がらず、厳しい昇級試験を乗り越えないと次の階級に上がれないのだ。
階級が上がれないと、対戦前の予習や決勝戦で好きな問題形式を選べない。私はこれに不満があったのだった。

私の強みはなにより、ゲーム問題であり、それ以外は凡人か下手するとそれ以下のオバカさんだ。
ゲームに関してだけはずば抜けた強さを持っていて、決勝まで上がれたとき、それをひけらかすのが楽しかったし、それが最大の武器であった。

しかし、変なゲーム性を追求したせいで、どうしてもクリア出来ない課題を前に、いくら金を使っても階級が上がらず、だんだん不満が溜まっていった。

ちなみにV基準では、私はガーゴイル組とミノタウロス組を行ったり来たりする底辺クラスで、大魔導師に上がるための条件「ミノタウロス組で優勝せよ」が達成できなかった。
一度、この条件に当たる前に、優勝したことはある。まぐれだが。

どうにもならないので、Yさんについてもらって手伝ってもらったぐらいだ。
Yさんは既にマジアカには冷め切っていて、嫌だろうなあと思いながらも付き合ってもらった。

2008年5月、大手のラウンドワンでも早くもマジアカ2クレジットサービスが始まった。
恐らく、私と同じように不満をためて、やめてった人が多かったテコ入れだったのだと思う。

私はまだ平静を保てず、はまり込んでいた。

2クレジットサービスのおかげで、また離れ始めた心が戻り、「ミノタウロス組で優勝せよ」にチャレンジし続けていた。
この間も、何度かYさんに手伝ってもらっていたが、今一歩といったところで優勝を逃すのだった。

Vになって検定試験という新しいモードが追加された。
検定試験は、一人用で、テーマに沿った問題が25問出題されて、高得点を狙っていくものだ。
私は、マジアカ=対戦だと思っていたので、まったく興味をもたなかった。

が。
2008年6月にメタルギア検定というものが始まったときにやり込んだことがある。
なぜなら、私が得意とするゲームを扱った検定だったからだ。
これについては、巷の評判は悪かったが、私はかなり楽しんでいた。

しかし、メタルギア検定に飽きだしたころ、同時にマジアカへの熱も冷めていった。

理由としては、組分けシステムが変わってからさっぱり勝てない、
そして、階級がいつまでも上がらない。

この2点だった。

だいたい、いくらIVからVに変わったとか言っても、やってることは全く同じなわけで、これまで飽きなかったのが逆に不思議なくらいである。

また2008年9月12日にDS版が出ることも拍車をかけていた。

わざわざ、ゲーセンに来てやる必然性のないゲームだ。
家でネットにつないでだらだら対戦できるならそれに越したことはない。

同時期に現実を見始めたことも大きい。
このゲームをやり続けていた最大の理由は、100円で長く遊べるからだ。
うまくいけば15分弱は遊べる。2クレジットだと、その倍近く遊べることになる。

マジアカを知る前までは、弾幕シューティングが長持ちすると思っていたが、20分もやれば心地良い疲労感に襲われ疲れてしまうが、マジアカはそういう反射神経やきわどい腕前は求められず、長時間遊ぶにはもってこいだった。

2008年の夏ごろから、私は逃げ続けるのをやめて必死に就職活動に精を出すようになった。
そうなると、意味もなく外で時間をつぶす理由がなくなる。

せいぜい、面接で嫌な気分になったのを晴らすために帰り際、車内でスーツから普段着に着替えマジアカをやりにいく程度になった。

その後もマジアカはVI、VIIとバージョンアップしていくが、新しくなった時だけ初日に少し触る程度で、もうすっかり昔の熱狂さは湧いてこなかった。

2010年2月11日。DSでマジアカ2が出たが、最後にマジアカに寝食忘れるほどハマったのは、これが発売されて、発売日から数日間対戦相手に困らなかった時期だけだ。

そのマジアカDS2も、だんだんと飽きてきていた。
ちょうど臨時職員の仕事が始まったこともあり、ゲームに時間をかけられなくなったのもある。

ゲーム問題だけを(そういう設定で遊べる)ハイスコアを狙うためにたまにやる程度になった。

それも先日3000点を超えたことで、完全に飽きてしまった。
これ以上の点数を出すには、よっぽど運が良くなければたたき出せない。

1ゲーム18問だが、いくら沢山正解しても、問題によっては合計2000点いかないこともある。そんな環境でのスコアアタックだ。

こうして、私とマジアカとの関係は終わりを告げた。
DSで3がでればやるだろうが、一時的にやって終わりになるだろう。昔のように延々とハマり続けることはもうない。

というか、間違いなくIIIやIVのころは、ゲーセンで流行っていたが、VI辺りからはもうゲーセンでやる必要性がないのだから、さっさと有料でもいいからPCネットゲーに移行するべきだった。

だいたい、VIの段階で、MMORPGで言うギルド(フレンドモード)みたいな機能を付けるべきだと私は思っていたら、今度出るVIIIでやっとそういう機能(サークル機能)を実装するのだそうだ。
この機能が、数年前私がこうすべきと考えていた機能と細部までが一致し、内心驚いていた。

どうせ、PC版に移行するのも何年か後にやるだろう。それだと遅すぎるのだ。

もう既にフリーウェアで似たようなゲームが出ている時点で負けている。
世の中の先を見る眼がなさすぎるとしか言いようがない。

今のゲーム業界で働いている人間が、たいしたゲーム好きでない人間ばかり雇入れている証拠の一つだ。
ゲームに情熱を持ってない人間が、仕事でゲームを作ればこうなる。

今のゲーム業界は、有名大学出身の頭でっかちな器用さも必要なのは否定しない。
昔のようにゲームでないと食っていけないような、落ちこぼれの集まりでは成り立たないということはわかる。
が、そういった落ちこぼれを避けるように排除していった結果もこのざまだ。

マジアカが世間で体感的に流行ってきたなと感じたのは2008年のVが出始めた頃だった。
まだIVの頃は、その筋の知っている人だけで盛り上がっている感じだった。
ときどき、ネット見てると(ちょうどIIIの時代)マジアカのことを書いてるHPやブログがわずかながらあったが
なぜこんなに必死なのか当時はわからなかった。
じっさい体験してみると、他人に話したくなるという気持ちがよくわかった。

私はトリビア現象と呼んでいるが、世間で話題になりだすと、たいがいのものは同時にブームに終わりが見え出すものだ。
ネットでもだいぶマジアカの話題が良く出てきた頃、私は既に飽きてきていて、そのうち大規模なテコ入れをしないとこの人気も終わるなと思っていたら、今やネットでもあまり話題にされなくなった。

これは1よりも出来が格段に良くなったDSのマジアカ2の売上の悪さや発売時に話題にものぼらなかったことが指し示している。

私の2000年代後半の数少ない明るい思い出の一つだ。
マジアカに出会わなければ、私は代わりに何をやっていたのだろうと疑問に思う。

ネットゲー廃人してた頃の話

昨日初めて友達にこのブログの存在を教えた。
Yさん見ているだろうか?昨日は3時間も長電話してしまって申し訳ない。
近々、Yさんを題材にしたエントリも書いていきたいと思う。
で、知り合いにも教えたブログなので、少しは気分転換に明るい話題も取り上げていきたいと思う。

昨日は嫌なこと続きで、精神的にかなり参っていた。
特にいきなりネットがつながらなくなったのは辛かった。
原因はなんとなくわかっていたのだが、確証が持てない限りは試すに試せない状況だった(ネットが使えないから本屋に立ち読みにいったぐらいだ。勿論具体的な対処法など出てる本は無いわけだが)。

ウチは私のPCとゲーム機、親父が2PCでネットをするので、当然ルーターでネットワーク管理をやっている。
数日前、親父が私の使っているPCの性能をはるかに上回るPCを買った(詳しくしらないが、BD-ROMドライブに3D対応グラボ&モニタ。贅沢し過ぎだろう)。

で、親父はネットの設定は全くできないので、買い換えるたびに普段は険悪な仲なのに、私が登場しネットの設定をやるハメになる。

一時期ネットゲームをやっていたので、ポートを開けるためにIPアドレスを固定していた。
なので、PC側の設定も、「事情を知っている人」でないと設定できない。

私は自分の使っているPCやゲーム機に関してはわかるが、親父がどのようにネットに接続しているかなんてわからない。
必要な情報を聞き出せば良い話なのだが、仲が悪く口を聞くことどころか普段顔を合わせることすらないので、コミュニケーションが取れない。

多分、“昔の私”が設定しているのだろうが、一時しのぎで設定したことなんか覚えているはずがない。
というかまず、1台だけしか使っていなかったPCが、いつの間にか2台になって、両方ともネットにつないでいるし、状況が全くつかめなくなっていた。

通常、ルーターってのは親切に出来ているので、PCでわざわざ設定しなくてもとりあえずLANケーブルつなげれば、ネットに繋がるように作られているのだが、ウチのルーターは昔のわざわざポート開放しないと遊べないネットゲームのために、各PCに割り振ったIPアドレスを入力しないとネットどころかルーターの設定画面にすら繋がらない、面倒な状態になっていた。

全部一人で管理してればわからなくなることなんてないのだが、ルータとかモデムは親父の部屋にあるからどうなってるのかわからないし、かといってそこら辺断りもなしに家探ししようとしたら親父が嫌がる。

で、ここのPCのIPアドレスはいくつだったっけな?と、毎度毎度困りながら設定するのだが、今だからわかったことだが、ルーターにはまだ使ってないLANポートがあり、そこに新PCのLANケーブルを繋げて、いつの間にか2PCが同時にネットに繋がるようにしていたようだった。

そうやってルーターにつなげているなんて知らなかったので、前と同じIPアドレスでつなげようとするが競合して繋がらない。

「おかしいな?」と、試行錯誤するも、そもそもやることなんて決まりきってるので悩む余地もないのである。
でも事情を聞く空気ではないので、手探りでとりあえず色々いじくってみる(と、言っても繋がりそうなIPアドレスを入れるだけなんだけど)。

そうやって今回もまた一時しのぎで設定したIPアドレスでとりあえずネットにはつながったのだが、問題のある設定だったらしく、次の日の朝、ネットどころかルータが全く応答しなくなり、全端末がネットに繋がらなくなった。

ちょっといじくったところ、結論としては「これルータ再起動するしかなくね?」なのだが、そんな状況に陥ったことがないので、試すわけにもいかない。
これが、私一人で使ってるものなら躊躇なく出来るのだが、親父もネットやっているので「壊しました」では合わせる顔が無い。

この日は、一日中外出して逃げることにした。仕事も探さないといけない身分だし。

そしてその日の夜、案の定親父の新PCもネットにつながらず、また私が呼ばれた。
昨夜の設定が良くなかったのと、状況がなんとなく読み込めたので、IPアドレスの設定を問題の無さそうなものに変えたあと、ルータのコードを10秒ほど抜いて再起動。

そして、なんなく、全端末が復活。

ちなみにこれでやっと開放されるかと思えば、Windows7は初めてらしく、このOSではメールソフトはどうなってるのか等、フリーメールしか使ってない私には全く分からない無茶ぶりの質問がいくつか来て、応対することになる。

ネットが使えれば、適当に検索して、全部アドリブで対応していく。
私は、PCに関しては興味のあること以外は調べないので、自分に縁のない用途に関してはいつもこうやって手探りで感覚的にやっていく。

PCの基本的な動作に関しては、ゲームで言えば説明書を読まずに試行錯誤するようなモンで、わざわざ勉強するほどのものではない。
昨日PC関連の書籍を何年かぶりに見に行ったが、半分は本にする必要すら感じられない初歩的な本ばかりで唖然とさせられた。

ある程度専門的な知識が必要なこと以外は、トライ&エラーで何とかできるはずだ。

ところで。
ADSLのサービスが始まり、ルーターを使ってネットワーク接続するのが一般的になる前は、ルータも不親切で機能も少なく、こういった設定一つとっても苦労した人が多かったようである。
特に特定のポート開放を求められるネットゲーム・アプリケーションには手を焼いていたようだ。

昨日のトラブルを経て、私はもうネットゲームをやらないので、IPアドレス固定の設定をやめようと思うのだが、最近のXbox360やらPS3はポートとじてても不具合なく対戦出来るのだろうか?
それに関しては、既にゲームで使いそうなポートは開けっ放しだったため、調べていなかった。
ポートをわざわざ開けなくても問題ないのなら、このしち面倒臭い設定を解除してもなんら問題がない。

長々とこんな前置きを書いたのは、私がルーターのネットワーク設定に詳しくなったのは、一時期ネットゲームにハマっていたためである。

電話回線から定額制のISDNに乗り換えたのが2001-2002年の冬頃だったはずだ。
その時に、ISDN用のルーターを買って、複数台のPCやらゲーム機を接続できるように設定した。

実はISDNのころから、ルーターは存在していた。
機械の中身はISDN用の仕様に作られているので、若干作りは違うが、巷のADSL・光向けのいわゆるブロードバンドルータと使い方は一緒だ。

ただ、ISDNルータは全然普及していなかった(ISDNが定額制で天下とっていたのは1,2年もなく、すぐにADSLのサービスが都会では始まったので、家のような地方都市で整備が出遅れてる連中の足元を見ていた状態だった)。
そのため、店頭価格で4万とかいうバカみたいな値段で売られていた。しかもISDNルータって種類が少なくPCショップにも1,2個しか置いてなかった。

しょうがないので、メーカー直販のサイトで25000円で売っていたので、そこで買った。

このときだ、私がルータの設定やLAN(PC)側の設定の仕方や仕組みを勉強したのは。
まだ2001年だとインターネットも今ほど情報が充実していなくて、少ない情報を頼りに必死に調べたものだった。

結局ISDNルータもブロードバンドルータも仕組みは全く一緒なので、ポートの開け方だのPC側でどうやって設定してやればルータとつながるか等、その時覚えた知識が今に活かせているというわけだ。

さて、ここからがこのエントリの本題となる。

私が初めてハマったネットゲームは、2000年12月21日に発売されたドリームキャストのファンタシースターオンラインだった。

当時私は大学1年生でちょうど冬休みに入ろうとしていた。

いわゆるMOタイプのアクションRPGで、ロビーでゲーム部屋を作り、最大4人で敵がひしめくダンジョンを協力して攻略する(いわゆるディアブロ系)。
ダンジョンの数は4つしか無いし、マップパターンも少なく何十回も遊ぶにはとてもじゃないが物足りないレベルの低さだが、当時としてはそれでも十分であった。
なぜなら、綺麗な3Dグラフィックでネットゲームが出来るなんて、当時はとても珍しかったからだ。
PCではまだドリームキャストレベルのスペックを満たすPCはハイスペックで全然普及していなかった。
あの頃、PCで流行っていたネットゲーはとんでもなく遊びづらい2Dグラフィックのウルティマオンラインだった。

面が少ないので、すぐクリアしちゃうため、最終的にはレアアイテム目的で潜ったり経験値稼ぎを延々やるだけである(それも初代は最大LV100で今の感覚だとすぐにカンストしてしまう感じ)。

それでも十分目新しかった。飽きっぽい私が半年は夢中になったゲームだ。
翌年2001年のゴールデンウィークに、毎日朝までロビーでチャットして盛り上がったのは覚えている。

セーブデータはサーバーに保存される形式ではなく、オフラインでも遊べるよう手元に残るタイプだった。
このころはまだダイヤルアップ接続が主流で、ネットやるのに電話代がかかるから、23時?8時まで電話料金が定額になるテレホーダイに加入して安く抑えるのが当たり前だった。
だから、その時間が来るまでオフラインで一人で鍛えておいて、23時が過ぎたら接続して集まってくるみんなと遊ぶというような感じだった。

盛り上がった日はついつい夜更かししてしまい、深夜3時4時どころか朝方までプレイしてしまうことも珍しくなかった。

今でこそ不便に思うかもしれないが、これはこれで当時は楽しめたものだった。
遊ぶ時間帯が大体決まっているから、仲良くなった友達とも遭遇率が高くなるメリットもあった。

しかし、時期がたつにつれ、チーター(データ改造してプログラムを暴走させデータを消してしまう悪質な人)も出てきて、まともにゲームが遊べなくなっていった。

サービス開始から大体半年後に、様々な不満点を解消したVer.2が発売されたが、その頃には私もみんなもこのゲーム自体に飽きだしていた。

そしてどんどん遊ぶ時間が減っていき、徐々にフェードアウトしていった。

それでも半年とはいえ合計700時間はプレイした。
メモリーカード1枚に1キャラしか保存できないので、ドリームキャスト用のメモリーカードを沢山買い足したぐらいのめり込んでいた。
今手元には、メモリーカード2枚と大容量に特化したかわりにモニタ等機能を削除したメモリーカード4Xを2枚持っている(1枚で従来の4枚分のデータが入れられる)

このゲームやる前からネット仲間だった人今も元気かー!?

かんたろう、YUG.さん、はいぱあさん、電気羊さん、HIT、シリウスさん、てぃーるさん、元気にしてるかあ!?

そして、電話で直接話したれつしは今も元気かあ!?もし見てたら連絡くれい!!
れつしとは同い年で、今の私のように無職でバイトも続かず、凄い精神不安定で悩んでいた。
この人とは、ゲームでではなく2ちゃんねるの夢・独り言板で当時私はスレッドを立てて将来の不安を今のように日記にして書いていた。れつしも同じように書いていた。その時にたまたま出会った。

ミスチルの大ファンで、私はこの人に影響されてミスチルを聴き始めた。2001年夏にちょうどベストアルバムが出たので買って聴きまくっていた。

HPもやっていた。今でいうところのメンヘラ的な日記サイトだったが、毎日アクセスしていた。
この人に、よくHP作りなよとすすめられていた。そして疎遠になって2年後、私はサイトをやり始め気づけば7年も続いている。

なぜ疎遠になっていったのかというと、やはり私がこのファンタシースターオンラインに飽きていったからだった。
れつしはVer.2が出てからもずっとハマリ続けていて、その後ゲームキューブ版も買ってやり続けていた。
しかし私はもうこのゲームにはハマれなかった。全然プレイしないので、れつしも他の人と仲良くなっていって私のことは忘れていったようだった。

そして代わりに、私もれつしを除いたネット仲間が大きな期待を寄せていたのが、2002年5月16日にサービス開始したファイナルファンタジー11だった。

手軽にプレイ出来るものの、ゲーム的な物足りなさが目立ったファンタシースターオンラインと比べ、一つのサーバーに一斉に接続して同じ世界を共有してプレイするMMORPGは、未体験の人間にとってとても魅力的なジャンルだった。

当時はプレイするために必要だったPS2用ハードディスクもネット通販のみの販売で、かなりの品薄で手に入れるのが大変だった。

私は2002年1月、メーカー直販サイトで販売受付をするという情報を知り、アクセスが集中する中、根気よく再接続を繰り返してなんとか入手した(信じられない話だが、決済するだけで2時間以上かかった)。

ちなみに、FF11が出る頃にはさらにこのHDDは入手困難になっていった。

そんな胸踊る期待に反して、私はFF11にはハマれなかった。
サービス開始直後、アクセスが集中してサーバーがパンクし、まともに遊べるようになるだけで半月はかかり、
その後もゲームバランスなどが整備されておらず、混沌とした状態であった。

FF11にハマれなかったのは、今でこそ常識となってきているが、MMORPGが廃人仕様で、そのノリについていけなかったためだ。
絵はすごいキレイで、町とか外の景色といった世界観はPS2初期のゲームとは思えないほどの凝りっぷりで、陳腐な表現だが、「画面の中に一つの仮想世界がある」というしか表現のしようがない凄さだった。

だが、私以外のネット仲間は、一緒のサーバーに登録し、一緒にパーティを組んで遊んでいたため、はまっていったようである。
そもそも私は、ネット仲間の中でははぶられている方で、寂しい私はネット仲間が集うHPの掲示板より、当時人が増えだしていた2ちゃんねるで常連ぶったレスを付けまくって悦に浸りストレスを発散させていたものだった。
(このころ、実は現実でもYさんなど親しい間柄で集まって遊ぶときにリアルで2ch用語をネタでたまにおりまぜて喋ったりと痛いことをやっていた)

そんな私が、ふとしたきっかけでFF11にどっぷり浸かることになった。
2002年9月。大学3年生の私は、就職活動という嫌なものが近づき始めていた。
講義には欠かさず出ていたし、バイトもしていたが上司が高圧的な人に変わることが分かり、6月いっぱいでやめて、退屈な時間が増えていた。

そんな時、やりはしなくなったが課金はしていたFF11を魔が刺してプレーし始めたのである。

就職活動から逃げたかったこともあったのだろう、サービス初期と比べ落ち着いた空気になっていたFF11の世界が入り込みやすかったのもあるかもしれない。
たまたま、太郎という私より年下だけど社会人の人と知り合い、リンクシェル(ギルドみたいなもの)にも入れてもらい、凄く仲良くなった。

その日を境に、私はFF11が面白くなってきて、引きずり込まれるようにはまり込んでいく。

しかも、以前は戦士のような前衛ジョブを好んで使っていたが、今度はLVが上がると使える魔法が増えていって面白いという理由だけで魔道士系のジョブで遊ぶようになった。

当時は、魔道士がパーティプレイでは大人気で、消極的な私でもパーティへの誘いが来るほどの人気であった。
一人で孤独にしていたら、勝手に誘いのメッセージが来る。それが現実でも孤独感を覚えていた私にとって嬉しかった。

こうして授業と寝る時間以外はFF11にどっぷりと浸かる立派な廃人になっていくのだった。

レベル上げのパーティには困らなかったため、レベルだけはどんどん上がっていく。
先行してプレイしていたネット仲間が時間をかけてやっていたことをわずか2ヶ月程度で追いついてしまった。

私が急いでいた理由は、私もネット仲間と一緒に遊びたいという理由もあった(単純にハマっていたという理由も大きいが)。

しかし、ゲームの進行度が追いついたからといって、彼らは私と遊ぼうとはしなかった。
より親密になっていった彼らと私との距離感はもう埋められないレベルに達していた。

それが確認できてからは、私はきっぱり彼らのことを忘れ、ゲームを楽しもうと決めた。
だが、私はネットでも友達を作るのが下手なのか、かなりの時間FF11をやっているのだが、フレンドは全然出来なかった。
やり始めた頃できた太郎以外に話せる知り合いは出来なかった。

しかも太郎は、社会人で忙しいし、それほどゲームに固執しない人で、だから肝心のゲームは何時まで経っても全然進むことがないのであった。
限られた時間にログインしてもフレンドとチャットしてるだけで一日が終わったり、かなりのスローペースっぷりを発揮していた。

今思えば、ネットゲームというものは本来こうやって遊ぶものだと痛感した物だ。
大事なのはゲーム上の数値を上げることじゃない、その場で自分が対人関係を築いて楽しめているかどうかだ。

FF11に飽きてからは、他のオフラインのゲームをやるときも、それまではデーターに固執していたところがあったが、レベル上げややり込みプレイみたいなものは全く興味が無くなってしまった。
しょせんゲームのセーブデータなんて、電池切れや衝撃などの事故がきっかけであっさり消えてなくなってしまうわけで、
その中で楽しくないことまで頑張ってもしょうがないと気づいたのだ。

その後FF11は、結局半年はどっぷりとやり続けた。
まだ最初の3ヶ月ぐらい(2002年9?12月)は真新しいことも多く充実した時間で楽しんでいた。
その頃は、まだFF11以外のことにも関心はあったが、その後廃人症状が悪化していった。

年明けの2003年1月?4月。
大学がちょうど長期休暇に入ることもあり、毎日朝から晩までず?っとFF11ばかりやり続けるという末期症状に陥っていた。
そしてちょうどゲーム内でのLVもカンストの60に近づいていた。

初期のFF11は廃人仕様というのは今でこそ有名だが、メーカーとしてはLVをカンストされては困るので、LV50からレベルアップに必要になるEXPを莫大に増やすという措置で延命を図っていた。
だが、すっかり当時の私のようにゲームの虜になってしまったプレイヤーは、そんな足止めなんのそので端から見てると「やってられねえよ!糞バランスのクソゲーが!!」というゲームでも、文句も言わずやり続けるのだ。
(それに輪をかけて当時は他にまともに遊べるMMORPGどころかネットゲームもとても少なかったため、標準的なバランスというものが存在しなかった)

毎日10時間近く、同じ狩場で同じ敵を相手にひたすら経験値を稼ぐ作業。
レベルがいくつか上がったら、また場所を変えて同じぐらいの時間をかけて同じことの繰り返し。

もうこれぐらいのレベル帯のプレイヤーになると、ギルド仲間と親しくなっているので、パーティ中も目の前のパーティ組んでる人と会話せず、ギルドチャットで会話するのが当たり前になっていた。
だから、パーティメンバーが6人もいるのに、誰も必要最低限の会話以外せず、ただ黙々と無言でEXP稼ぎの作業を繰り返すだけだ。

当時のネットゲームとしては異端と言われていたが(ネットゲーは自分で物語を紡ぐものと言われていたからだ)、FF11にはメインシナリオが存在する。
私は無印版のメインシナリオを終わらせるところまではプレイした。
それと、メインジョブの高性能専用装備を手に入れるためのサブクエストも全部こなした。

そして無印版の段階でのメインディッシュはあらかた遊びきった頃、2003年4月17日に初の拡張ディスク「ジラートの幻影」が発売され、新しいストーリーやエリア、ジョブが登場したのだった。

だが。
最初の頃こそ夢中になって新しい要素を楽しんでいたのだが、この拡張ディスクの発売によって、私の心は急速に離れていく。

拡張ディスクは、いわば普通のゲームで言えば(少なくともこのころのFF11は)、続編といってもいいぐらい影響力のあるものだった。

同じ世界でデータも共通しているけど、ゲーム性がガラリと変わる。

例えば無印ではLV60が最高だったけど、拡張ディスクの発売でレベルキャップは引き上げられ、最終的にLV75まで上げれるようになる(今はLV99まで上げれるように計画しているそうだ)。

世界観やゲームバランスが大きく変わっていき、私はついていけなくなった。
無印の段階でも十分廃人仕様だったのだが、当時はそれでも多くの人間がのめり込んでいたので、さらにマゾい路線に作られていき、特に、フレンドの少ない私には肩身の狭い状態になっていった。

そのなかでも、引退に追いやった出来事といえばやはりこれだった。

私は、白魔道士というジョブをメインにやっていたのだが、レイズIIと言う戦闘不能を回復する際、(死んでしまったとき経験値が減らされるのだが)減ってしまった経験値を大幅にリカバーできる魔法を持っていないとパーティに参加してはいけないという空気が広がっていた。

だが。
その必須魔法のレイズIIは、非常に入手困難なレアアイテムに設定されていて、流通量も少なく競売では100万ギルの相場を誇るいくら廃人でもそう簡単に手の届かないところにあるものだった。

なぜかというと、当時最高レベルのパーティをもってしても倒すのが困難なネームドモンスター(隠しボスみたいなもの)が稀に落とすという入手手段しか無かったからだった。

ましてや、ゲーム内に仲間のいない&作れない私には、とても取れる代物ではなかった。

しかし、そのレイズIIを持っていないことを隠してLV上げパーティに参加し続けていた。

だがある日、不運にも私の参加していたLV上げパーティで戦死者が出て、レイズIIを持っていないことを告げると空気が悪くなり、即パーティ解散というバツの悪い出来事が起こってしまった。

そのことを、唯一フレンドだった太郎に話すと「じゃあ、黒魔道士やればいいじゃん」と前向きな解答を出してきた。

※FF11にはメインジョブの他にサポートジョブというものが設定できて、モグハウスと呼ばれる自分の部屋に帰ると、自由にジョブチェンジが出来る。
サポートジョブはメインジョブの半分のレベル分、能力の恩恵を受けられるのだが、サポートジョブに設定するジョブもレベルを上げていないと効果を発揮しないので、複数のジョブのレベル上げをしているのがFF11では当たり前だった。

つまり、メインジョブとして白魔道士をLV60以上まで上げていた私は、サポートジョブに黒魔道士を付けていた。
その黒魔道士のレベルが大体35程度まで上がっていた。

太郎の助言を聞いて、私は気を取りなおし黒魔道士をメインジョブにして続けることにした。

が。

この辺りでもう、私はFF11というものに冷め始めていた。

「ジラートの幻影」というゲーム内容がなんとなくそりの合わない内容(つまり期待はずれ)だったというのもある。

これがだいたい2003年5月下旬頃だったはずだ。

ここで私は初めて気づいたのだった。どこか物足りないところも出てきていたけど、無印時代のFF11が好きだったのだと。

世界観も本当に魅力的で、具体的なことを書いていくとまた長くなっていくので別のエントリにまわしたいが、当時のオフラインのRPGにはないぐらいのロケーションの豊富さや、魅力に満ちた構成に酔っていた。

ジラートの幻影の新しい世界には、その魅力をあまり感じなかった。

ゲームバランスも修正されて、いい意味での大味さがなくなったり、LV上げの場所もLV30以降はほぼ同じ場所に固定されてしまい、私は決まりきった当時のゲームプレイに飽きだしていた。

無印の頃は、頻繁に調整が入ることもあって、前はここが稼ぎやすかったとか、ここ強い敵がいて危ないけどおいしい場所とか、レベリングのポイントも頻繁に変わっていって、ただLV上げするだけでも色んな場所を点々と出来て楽しめたものだった。

そういうものが、しっかり管理されるようになってきてからというもの、やることが決まってしまって飽き性の私をとうとう飽きさせたようだった。

こうして、私の長いFF11廃人の旅は終わりを告げた。

その後、YさんからPCのウルティマオンラインをやろうと誘われ、遊んだのだが、内心もうネットゲーには懲り懲りしていた。

だが、現実の友達と遊ぶのなら楽しいだろうと思い遊んでみたが、Yさんがいるから楽しめたが、そうでなかったら私のPCの性能が低いせいもあったのだろうが、操作性は悪く画面は重いし、海外のゲームだから説明書読んでも概要がわからないわで、最悪のゲームであった。
Yさんに良くメールで誘われた物だが私はサボって中々ログインしようとしなかった。
いっぽうYさんは一人でもそこそこプレイしていたようである。

私は、ここぞとばかりにFF11をすすめてみた。
友達がいるならFF11も楽しめると思ったからだ。
数年たった今でもたまにすすめることがある。環境を整えるのが大変という理由でやろうとはしないが。
(FF11が出始めのころはPS2ではHDDが必要だし、PCは当時の水準ではハイスペックなものを求められたためだった)

さて、私がFF11廃人だったのが2002年10月?2003年5月である。
これはちょうど大学3年生から始まる新卒の就職活動の中でも最も重要な時期と重なる。

そんな時期に私はFF11に逃げ込んでいたのだ。

いちおう、私は大学で就職活動のカリキュラムも受けていたし、リクナビ2003に登録したり、最初の頃は就職活動をしよう!という意識はあった。

だが、以前にも書いたが、そもそも行きたい学部に入れなかったので、リクナビから送られてくる資料やエントリー企業が、自分の行きたい職種とかけ離れていたため、少なくとも就活の初期は、やろう!やろう!という気持ちは持っていたが、現実とのギャップに悩み苦しみ、どうしてもFF11に逃げてしまう自分がいた。

その証拠に、FF11に冷めてからは、いちおう頻繁に就職課に通い、履歴書の書き方やなんかいい会社ないか直接聞きに行っていた。

仮にFF11がなかったとしても、今の私のようにウダウダと自分の部屋で悩み苦しんでもがいている姿が想像できる。

ある意味、FF11廃人になってしまったことは必然とも言える(いばって言うことじゃないんだけど)

一度ネットゲー廃人を経験したことで、耐性が付いたため二度とネットゲーにハマることはないだろう。
ただでさえ、ゲームそのものに冷め始めているぐらいだ。
とりあえず、寝食忘れてゲームにはまり込むなんてことは絶対無いことは断言出来る。

なぜなら、途中でも少し書いたが、ゲームのやり込み要素なんて、ただのデータの数値いじりなだけであって、それ以上の意味を感じられないからだ。

私はそれを身を持って味わった。

だから、PSPのひたすらレベルを上げてレアアイテムを探しまくるようなタイプのゲームがなぜはやっているのか理解出来ない。

まあ、私のような体験をしたことのない若い中高生辺りが、仲間内で買って遊んでいるから流行っているのだろうと思う。
一人ぽっちでモンスターハンターやファンタシースターポータブルを遊ぶのはつまらないだろうが、そのゲームによって友達との絆が深まって楽しい時間を過ごせているのなら実に健全だと思う。

調べてないけど、多分そうやって遊ばれてるんだろう。だから、この手のゲームは一時的に凄い売れるけど、ブームが過ぎたら中古屋に投げ売りされている。
今日私は中古ゲーム屋をみたが、あれだけ流行っていたモンハン3rdポータブルの中古が大量に置かれていて、びっくりしたものだった。

私はそれは、いい時代が来たな…と歓迎している。

私の時代は、そうやって仲間で集まって遊ぶゲームはなかった。
だからこそ、ネットゲームにそれを求めていたのだった。

しかし、ネットゲームは友達を作るのが難しいし、作れても顔も声も素性も分からない人相手に一緒に遊ぶのだ。
今の時代だからいえるが、これは気持ち悪い習慣だと思わないだろうか?
一歩間違えば出会い系サイトとやってることが変わらないと言っても言い過ぎではない(基本的に下心がないから悪いものではないのだけど)。

ネットゲー廃人から脱してもう8年にもなるが、あれからネットゲームにはまり込んだことは一度もない。
それどころか、やりたいとも思わない。

………だが、“似たようなゲーム”に一時期のめり込んでいたことがある。
次回はその話を書きたいと思う。

家の家庭環境について

今日の夕方頃、久しぶりに夫婦で激しい言い争いがあったそうだ。
私は家に居づらいのでたまたま外出していなかった。

詳しくは聞かされてないが、恐らく私が定職についていないことも関係しているのだろう。

私の父親は典型的な亭主関白タイプで、昔っから怖くてまともに話をすることが出来なかった。
当然逆らうことや言い訳はできなかったし、気難しく、ワンマン気性という、今の時代ある意味希少なタイプの人間だ。
漫画「巨人の星」のおやっさんみたいなものだ。

特にここ数年歳を取ってくると殿様気性はより強くなっていき、手の付けられない状態になっていった。

ただでさえ、会話の少ない家庭だったのに、この数年は触ると何言いがかりつけられるかわかったもんじゃないので、親父には好きなようにさせて、私も母親も関わらないようにしていた。

家のことは一切しなくなったし、嫌がらせなのか天然でボケてきたのかトイレに入ると床におしっこをもらしていくし、筋の通らない理屈をこねて自分の我を通そうとする。

全部、無言で許容してきた(我慢してきた)。

これは私が定職についててきちんとした収入があれば、ある程度発言力を持てて、対抗出来たのだろうが、今の私は社会的弱者でどうにもできない。

そんな夫婦関係は私にとってははっきりいってどうでもよい。

仕事のことについて、説教されるというのは本当に困ってしまうものだ。

そりゃ、本来会社員やっているべき年齢の人間がいつまでもフリーターあるいはニートでフラフラしているのが頭に来て怒りたくなる気持ちはわかる。

ところが多くの無職は共感してもらえるだろうが、
私だって好きでこんなことをしているわけではないので、怒られてもなんともしようもないのだ。
(そりゃ24,25のころはまだ遊んでたい、働きたくないでござるみたいななまけぐせはあった。若さ故の余裕みたいなものがあったのだろう)

特に私は、学生の頃はそうでもなかったが、卒業してホームページやりだしてからは、ボケッとしているのが苦手になり、働いてる頃、休みの日も目的を持ってなにかやってないと不安になる人間になってしまった。

だから、することが何もない無職の一日というのは長くて辛いし(することがないと眠くなって昼間から睡魔に襲われ寝てしまい夜型生活になるのが一番キツイ)、
でも、求職活動というのは(いま完全に無職ニートの私が言うと言い訳にしか見えないが)周りの状況とか、私が社会のレールから外れてしまったという事情などもあり、
私ばっかりが頑張ってもそううまく回るものでもない。

創作活動やっている人ならわかってもらえるかもしれないが、毎日予定通りに、思ったとおりに作業が進むだろうか?
プロはそこもきっちり管理しなければならない立場になるが、親であっても第三者の事情のよくわかってない人間にチャチャ入れられたところで、対処に困ってしまうというのが本音である。

多くの無職ニートはそうだろうが、やる気はあっても具体的にそれが表れてないというミスマッチが、やりにくい環境を産んでしまっているのだと思う。

私の場合は、実際会社員として働いていた期間もあってここに入るが、恐らく一番多いパターンは、一度も(バイトは除いて)働いたことがないニートよりも、一度就職したけど失敗して辞めたタイプだろう。
そして、TVでたまに見せ物にされている(やらせ臭い)「ひきこもり・ニート」のような一度も働いたことがない、働けないみたいな変人扱いされてる人よりも、一見何の問題もなさそうな普通の人で働く意欲がなかなか出てこない一度挫折した人間を治療するほうがよほど難しいと思う。複雑な事情が絡み合っているからだ。

親が子供に向かってそういう状態に陥って怒るってことは、(本当に働きたくない人をのぞいて)信頼関係がなかったり、(私は人のせいにするつもりはないが)育て方をどっかで誤ったんだろうと思う。
私がなぜ就職活動でつまづいたかは以前書いたので、そこを読んで欲しい。
関連→就職活動に失敗した理由

私の場合は2007年(25歳の時)の頃がしょっちゅう親に怒鳴られたり一番ひどかった。バイトはしていたが定職についていなかった。

妹が植物人間で、介護施設の世話になってるつてで、その介護施設の社長が親の友達なので、そこになんとかして入れようと私をボランティアという形で昼間無理矢理働きに行かせるようにした。
しかし、バイトもしているので決まった時間に毎日長時間働きに行けず、親がうるさい時や体裁をギリギリ保てるラインを模索して、適当にやっていた。

そんな態度だと当然ボランティアから上に上がれるはずもない。

私自身、介護職は乗り気でなかったし、贅沢を言えない立場になった今でもこの職種に就きたいとは思わない。
大変なのは家にいてわかるし(ボランティア初日に障害者の排便処理を手伝わされていわゆるアソコを触らせられるという強烈な出来事もあって余計嫌気がさしていた)、
私はこういう人を扱い体を動かす仕事は苦手で、当時から事務仕事のほうが向いていると思っていた。なにより薄給だというのもある(利益を追求する団体ではないからだ)。つまり大変なだけで将来性に期待できない。
3ヶ月ぐらいボランティアやっていたけど、やはり楽しいとは思える仕事ではなかったのが決定的だった。

そうしてうやむやになってきたころに、自然とフェードアウト出来たが、相変わらず親父の発狂は止まらなかった。
ただ、当時は私にも非はあった。働かず楽に暮らしたい気持ちも強くて、真剣に将来のことは考えていなかった。
だが漠然と安定した身分につきたいとは思っていた。

2007年10月。親父の発狂があまりにひどくなってきたので、登録している転職サイトでよさげな会社を適当に選んで受けることにした。
勤務地は東京だ。こんな家さっさと出たかったためだ。

ネットでエントリしたあと、その日の夕方、その会社から電話がかかってきて11月中旬面接に行くことになった。
一次面接、二次面接も通り、初めての内定を手に入れた。とはいえここも契約社員だったのだが、健康診断や代理人の手続きなど割としっかりした会社であった。2chにもスレが立っているほど(評判は悪いが)の会社だった。

何年も就職できなかったのに、内定をとれたことをあっさり書いているが、求職活動なんて本来こんなものだ。
沢山うければ(確率的にはそりゃ上がるが)良いというものでは決して無いと思っている。そりゃ沢山チャレンジする努力が必要なのは認めている。

採用が決まって初めて親父にその会社の話が行く。
勝手に会社を受けて勝手に話を進めていたことに親父はあまりいい顔をしなかった。
そして直前でいろいろとごねられて、そうしている間にも入社時期は近づいてきて、しかし身内でもめているため準備がままならず、時間切れで断ることになってしまった。

それから2008年を迎えた。

嵐のような2007年がウソのように、2008年からは親は仕事について口出しをしてこなくなった。
そして私も一連の出来事を経て、年齢的にも危うさを感じていたので、バイトをしながら必死に就職活動に精を出すようになったのである。
その後の話は、以前書いた新聞販売店で働くのはおすすめしないにつながっていく。

このことからわかると思うが、周りが無理矢理働かせようとしたって、まず続かない。
放っておくよりは働くきっかけを与えるという点では良いかもしれないが、今の例のように押し付けがましいと逆効果になる。

結果的に2007年親の介入がひどかったから、2008年その反動で必死に求職活動をするようになったわけで、また無職に戻った2009年以降、家に居づらく怒鳴られることもあったが数えるほどしかなく、基本的に見捨てられている今の状態だと、こういった心境の変化も起きなくなった。

以前にも少し書いたが、じゃあ私はどうしたいと思っているのか?

新聞販売店、(バイトだが)臨時職員でも事務職をやってきているので、出来れば事務職をやりたいと思っている。
が、地元にいても決まりきった仕事しか無い。
新卒の時も既卒の時も就職活動でつまづいている一番の原因はここなのだ。

地元に自分の合う仕事がなかなか無い。

募集しているのは大体にたようなとところばかり。都心にでも行けばまた状況が変わってくるのだろうが、私の住んでいる町は本当に決まりきった求人しか出ていない。

だから、家をでたい。

2009年、無職の頃、自分の所有物を全部ダンボールに詰めて整理した。いつでも家から出られるようにするために。

ぶっちゃけ、大半がゲーム関係ばかりで、じゃまになるので、この際処分してもいいと思っている。
ゲームレビューサイトは7年やっても軌道に乗らず、ゲーム自体への興味はほとんどなくなってきていて、ゲームを心から楽しめなくなってきていた。
今の私は創作活動に興味があり、これを飯の種にするほど頭がお花畑ではないが、趣味でやっていきたいと思っている。

だいたい、今の私は、というか30近い歳になってくると、もう一生懸命仕事をしてそれで給料をもらって食べていければそれでいいと思うようになっていく。欲がなくなってくるのかもしれない。

多分、ちゃんと社会のレールに乗っかっていたとしたら、30手前というのは一番仕事が面白くなってくる年齢じゃないかと思う。

仕事を覚えて効率よく回せるようになってきて、そしてそれが成果に出てきて、出世もして部下ができる。
貯金もたまってきて、もらえる給料も増えてきて、ちょっとした贅沢も出来るようになってくる。

私はその、本来年齢的にそういうやり甲斐が出てくる期間までしっかりした下積みをしなかったので、今も辛い思いをしている。

大体、私もそうだが、親父もこんな落ちぶれた私を見たくないだろう。私が親父と顔を合わせるのが嫌なのと同じように、向こうもそう思っているはずだ。

ただ、私はもう年齢的に真っ当な職につくのは無理だと思っている。
私には友達もいないし、起用でもない。

だから、東京に出ていって、デバッガーのバイト(ゲームが得意だからってこれで出世とか全く狙ってない)と、もう一つなんかまともなバイトをかけもちしながらお金を貯めて、株で生計を立てようと考えていた。
(幸い新聞販売店にいたときの給料が高くて、だらだら合計1年以上無職やっていてもまだ貯金が残っているのが凄い)

働きたくないから株をやるのではない。もう私にはそれしか残されていないとつねづね思っていたからだ。

株やるのだって楽じゃない。まず、勉強しなくちゃならないし、安定した収入を見込めるものではない。
それに、人間関係を築かず部屋に一人こもって毎日PC画面にかぶりついて作業をする。
これがやる前から苦痛な環境に見えるのは想像に難くない。

そんなことを考えていてうだうだ実家で過ごしていた矢先に、東日本大震災である。
こっちは至って平和な日常生活に戻っているが、関東はまだ余波を受けているようだ。
というか、あの地震はこれまでのものと違って一時的なもので済みそうにない。

特に地震が起こって最初の一週間は、目の前が真っ暗になりひたすら絶望に打ちひしがれていた。

こんな状態が長く続けば、上京して一人暮らしなんてとてもじゃないが出来る雰囲気ではないし、
私も会社員をやっていたから感覚的に分かるが、例えば12月とか繁忙期みたいな時期に採用活動なんて出来ない。
そんなことやってる暇がないのだ。仮に人を雇ったって教えている暇がない。
今でこそ関東も少しは日常を取り戻しつつあるようだが、イソイソと仕事が無いからと田舎から出ていって仕事を探す状態にはまだないことはわかっている。だから目の前が真っ暗になったのだ。

かといって関西までいく気は起きない。

一応、いま私が無職で無気力でほとんど動いてないけども、頭の中にずっと思っていることを文章に起こした。

使用PCよもやま話

さて、前のエントリで昔使っていたPCについて色々調べていたら、つい書きたくなってしまったので、このエントリを書くことにした。

もう気づけば私もPC歴が14年にもなるベテランである。
その実、触ってた期間が長いだけで、中身はサッパリ無い見掛け倒しなのだが。
去年PCを買い換えたときに色々勉強してそれなりの知識は持った。

意外に1990年代のPC事情とかを2011年にもなって語っているところは少ないのである。
2000年前半に書かれたページならいくつかヒットするのだが、
おそらくその後PCが一般化してきて、PCにこだわりを持たないネットユーザーが増えたせいだと思われる。

私の家にPCを導入したのは1996年2月11日(日)の事だ。

覚えている人はいるだろうか。1995年11月23日にマイクロソフトが出したWindows95というOS。
これに群がる人達の事を。
このブームに家の父親が乗っかり、店頭価格約20万のPC9821V10を購入した。

さて、当然当時中学生だった私はPCなど買えるお金なんて無いので、頻繁に買い換える父親のPCマシンのお下がりを使っていた。
以下の使用時期は、私が実際に使っていた時期であり、父親が購入した日も一緒に書くが、時期が大幅にずれるのはそういった事情があるからだ。
自分でマシンを買ったのはお恥ずかしいことだが去年の6月にBTOで組んだ10万のゲームパソコンが初めてであり、かつ初めて父親の使っているマシンの性能を追い越した(父親は未だにデュアルコアで私はクアッドコアである)

●NEC PC9821V10(1996年2月購入。1997年7月?2000年2月まで使用)

★今の尺度でもわかるざっくりした性能紹介★
・CPU Pentiumプロセッサ 100MHz
・RAM 8MB
・OS Windows95
・HDD 850MB
・ドライブ 3.5FD&CD-ROM(4倍速)
・サウンド PCM

数値を見ただけで、こんなん20万で売ってたのかよ!!と言いたくなる代物だ。
特に注目して欲しい。HDDなんて1Gも無いのだ。
これにOSで領域を取られるので、実質半分も自由に使えなかったはずだ。
当時は、フロッピーやMOなどの外部保存出来る媒体が主流でHDDは高かったためだ。

勿論改造すればある程度までパワーアップは出来る。しかし、装着できるパーツも限られており、改造で強化するにも限界値があった。
これを未だに現役で使い潰すのはさすがにプロでも無理だろう。特にメモリがどう頑張っても128Mまでしか認識しないのが厳しい。

サウンドのPCMというのは、内蔵音源の事だ。
昔のファミコンやスーパーファミコンといったゲーム機を思い起こして欲しい。
ゲーム上の音は内蔵された音源を介して鳴らしていた。
この内蔵された音源がPCMしか無いという意味だ。

普通にWindows95のゲームやるときなら不自由はしなかったのだが、MS-DOSのゲームをやるときとか音が貧弱で困ったものだった。
MS-DOSだとFM音源が主流で、FM音源が載ってないウチのPCで起動するとファミコン以下の聴くに耐えないビープ音で演奏される。

ファルコムの「白き魔女」とか買ってきても、友達の家にあるキャンビーじゃいい音がなるのに、家のPCでやろうとすると騒音でしか無いビープ音でやるハメになる。
こういった悲劇が起こったものだった。

後は、まだ当時はCD-ROMドライブはPC界においては主流じゃなかった(家庭用ゲーム機ではバンバン使っているのに不思議な時代である)。
CD-ROM版がないゲームを買ってきたとき、箱を開けたら大量のフロッピーが収納されており、それを一枚一枚入れ替えてインストールする、今ではちょっと考えられないことがあった。

家の親父が買ってきたシムシティ2000がフロッピー媒体でその枚数に驚いた記憶がある。

ちなみに、このPCの3D描画性能は無いに等しいレベルで、スクリーンセーバーでポリゴンのものを選ぶと、その描画だけでガリガリ読み込み、傍目にも厳しそうに一人称視点で3D迷路をランダムに動きまわる映像が展開していた。

このPC、Windows95のロンチに合わせて出しただけあって、OSをWindows95として扱うにはスペックが厳しすぎて、かといって、PC9821としても機能不足で、ただ背伸びをしただけのどっちつかずなPCであった。
(上にも書いているが、ゲーム遊ぶには不足した機能が多く、友達が持っていた数ヶ月前のキャンビーの方がMS-DOSに特化していて扱いやすかった。CD-ROMは無い代わりにFDD2つ付いていてFDのゲームインストールにも便利だったし)

だが、このPCにモデムをつけて、1998年末から2000年春まで2年近くインターネットにつなげてバリバリ使っていた。
当時のネットは電話回線が当たり前だったから、重たいページは嫌われるどころか見られすらせず、掲示板とか文字媒体がメーンの場所を閲覧するには全く不自由はなかった。IE4.0もきちっと動作するし、変に色々ソフトを入れようとするとすぐHDがパンクするが、ただネットするだけならこれでも当時なら十分であった。

●PC9821V200青札タワーモデル(1997年7月購入。2000年4月?2003年3月まで使用)

★今の尺度でもわかるざっくりした性能紹介★
・CPU MMXテクノロジPentiumプロセッサ 200MHz
・RAM 32MB
・OS Windows98(初期はWindows95でアップデートさせた)
・HDD 3GB
・ドライブ 3.5FD&CD-ROM(4倍速&書き込み2倍速)
・サウンド PCM 拡張FM音源

これも青札とかいいながらかなり値の張ったPCだったはず。
タワー型で大きく拡張性に優れているのは良い。
しかしこれは、わかる人ならわかるだろうがPC9821時代末期の末期に出たPCで、この後すぐにPC9821は長い歴史に終止符が打たれ、独自規格のPC98は事実上廃止となり、NECはPC98NXへと移行することになった。
要するに、今のメーカーパソコンと一緒で、独自規格を捨てて統一しちゃったって事だ。
私はそんな時代遅れのPCを2000年から何も知らず使い続けていた。

ちなみに独自規格って言うのは、強引に書けばたびたび出てきていたMS-DOSで動作するソフトのことで、PC黎明期の16ビット時代にNECのPC98規格がウケちゃってPC=NECだったが、Windows95以降PCの規格が統一されちゃって、98=古いという構図になっていった。

つまり、9821のアプリケーションは、NEC製でも98NX製では動かない。互換性やら独自規格をなくしたためだ。

まあある意味PC普及のために、PC98シリーズを撲滅させるのは必然だったかもしれない。
今のPCは面倒くさい仕様とかなくて凄い分かりやすいからだ。

このPCも今は廃棄して家にはもう無い。今思い返せば勿体無いことをしたものだ。

当時の私は、ゲームをやるなら面倒な知識が必要ない家庭用ゲームで十分と思っていたからだ。

しかし最近PCの知識を蓄えた私としては、やはりこういう古きよき時代のPCは一台でも手元に置いておきたかったと痛烈に思う。

あの固執したある意味特別な人間だけがPCを持っていた異質な時代。対応パーツで性能アップさせ、悦に浸る快感。
当時は当たり前の光景だったから、全く気にもならなかったが、今となっては貴重な時代だ。

今の私は家庭用ゲームだけでなく、PC98のゲームにも触れてみたい欲求がある。
エミュレータではなく、出来れば実機で。
余談だが、私はエミュレータが大嫌いで、家庭用ゲームも全て実機で揃えている。

相変わらず当時の私といえば、ネット閲覧にしか使っていなかったから宝の持ち腐れ状態ではあった。

●PC98NX(2000年2月購入。2003年4月?2006年3月まで使用)

実はこのPCの型番を覚えていないため、スペックなど確認できない。
ミニタワータイプのPCで、ネットするにはFlash(まだ動画サイトは普及していなかった)が若干カクつく程度で、ネット見る程度ではもう全く不自由しないPCではあった。
ただやっぱりグラボが貧弱で、3Dのゲームはまともに遊べるレベルではなかった。

2004年2月にISDNからやっと光回線に乗り換え、回線がいきなり太くなった。
恩恵はそれなりにうけていたが、PCのスペックが足を引っ張り、画像などは処理はもたつきがみられた。
ブログやアフィリエイトの重たいサイトも増えてきて、その手のサイトを見るには重くて耐え難いものがあった。

この辺りからはあまり面白い話もないし、省略していく。

●VAIO PCV-RZ51(2003年3月購入。2006年4月?2010年6月まで使用)
OS WindowsXP SP2
CPU Pentium4 2.53GHz
RAM 256MB(+増設で768MB)
HD 120GB

とうとうウチの親父もNECには見切りをつけ、ソニーのVAIOに切り替えたようだ。
ちなみに次に親父が買ったPCは、もう高いだけのメーカーパソコンにはウンザリしたらしく、BTO(というか知り合いの会社のPC詳しい人に組んでもらったっぽい)で組んだPCになっていた。

まあ普通にネットやオフィス系のアプリ使う分にはもう十分なスペックである。
ただ付属のモニタが液晶ではあるが15インチというのが駄目な所だ。

2006年にもなると、アフィに画像ベタベタのサイトが当たり前になってきて、そういうサイトは重くて固まりそうになることが目立った。
また、動画サイトも台頭してきて、高画質動画が重すぎてとてもじゃないが見れたものではなかった。

このPCではゲーム配信にも使ったのだが、動画のエンコードをやろうとするとスペック不足で設定で負荷を軽減させないと出来なかった。また、エンコードの速度も遅く、負荷がひどいと重くなって固まってフリーズに悩まされることも多々あった。

巷ではデュアルコアのCPUが普及してきて、値段的にもおてごろ価格になっていたなかで、敢えてシングルコアのこのPCを使い続けていたが、動画の編集などしようとするとオーバースペックで肩身の狭いPCになってしまっていた。

●BTOで組んだ現役PC(2010年6月購入)
OS Windows 7 Home Premium 64bit
CPU Intel Core i7-860(QuadCore 2.80GHz)
RAM 4G(2Gx2)
GPU nVIDIA GeForce GTS 250
HD 1TB

ゲーム配信もやるようになったため、満を持して最新PCに乗り換えた。
ついでにメーカーパソコンのモニタは使いまわせないってことで、モニタも気前よく21インチのデカイヤツを買った。

ゲーム配信や動画のエンコードなど行う分には申し分ないスペック。
1年近く経った今でも、「まだクアッドコアは早い」と言わしめるごり押しPCだ。
まだ出始めで早いとも言われたが、どうせ貧乏性で頻繁にPC買い換えないのだからと64ビットのOSにした。

が、肝心のゲーム配信をやめてしまったので、今や無用の長物と化しているわけだが。

ただ前PCは120GBしかHDDがなく、空き容量も無くパンパンだったので、買い換えた価値はある。

高画質動画もアフィやでかい画像ベタベタのクソブログもサクサク表示してくれてとにかく快適だ。

私は、シングルコアの性能アップに物理的な限界を感じていたので、PCのスペックアップに興味が全くなくなっていた。
どうせいくら性能をあげたところで、一時的な負荷に根負けして不安定な動作になるのだろう?と思っていたからだ。

しかし、このCPUを複数積む現在の進化形態は実に良く考えられている。
とにかくいくら負荷をかけても、常に安定した動作をする。

私はあのシングルコア時代の、信頼性に欠けた挙動が最もPCで好きになれない部分だった。
それが、今のPCはとにかく信頼できる。

それに4つのCPUを付けているが、ハイパースレッド機能がついていて仮想的ではあるが8コア載っかっている状態なのだそうだ。タスクマネージャを起動してみると確かに8コア動いているのが確認できる。

最近のPCの広告バナーを見ると、もっとメモリが欲しいなと感じるが、
動画配信もやめてしまい、ただでさえ性能を持て余しているのだから、増設したって意味が無い。

グラボも解像度が1920*1080で、これまでのPCとは別次元の広さだ。

だが。
このPCには致命的な欠点がある。

ソフトが何一つ入っていないのである。

これまではずっとメーカーパソコンだったから、最初から一太郎だのエクセルだの一通りのアプリが備わっていた。
だが、今のPCには、PC自体に金かけたせいで、すっからかんなのである。

才能はあるんだけど、発揮する場所がない、勿体無いPCと言える。

結局日々のネット閲覧とサイト更新にしか使われていない現状だ。

そんなわけで、このPCの横には、未だに前使っていたVAIOが置かれ、事務作業するときなどはそっちのPCを立ち上げて使っている。

せっかくのゲームパソコンだし、PCゲーにでも手を出してみようかと考える日々だ。
モニタは私の部屋で一番でかくHDMI端子が付けられる唯一のモニタだし、今のところほぼすべてのPCゲーが推奨環境を満たしている。
ハイスペックを求められることで有名なFF14のベンチマークしてみたが、余裕とまではいかないが推奨環境を上回るスコアを出していた。

そして主力である家庭用ゲーム機は未だにブラウン管のAVケーブルで遊んでいる。
ゲーム配信やめるんだったら、テレビ買い換えればよかったな…と実はひそかに後悔している。

パソコンモニタにHDMI端子ついてるから、それでやればいいのだが、
そうなるとゲームやってる時はPC見れなくなるし、なによりHDMIで繋げられるゲーム機がPS3しか無い。
Xbox360は発売日に買ったのでD端子でないと駄目だ。Wiiは言うまでもない。

となると、結局馬鹿高いテレビを買うしかなくなる。困ったものだ。

しかしこうやって振り返ってみると、時代の進歩に驚かされる反面、あの昔のPCが一般に普及する以前のPCオタクたちが凝っていた時代が遠い昔のような心地良い懐かしさを感じてしまう。

今はPCの進歩も頭打ちになり、こだわる必要性が薄れてしまったのもあるのか、昔のPC野郎たちの情熱が失われてしまったように思う。

あの時代、今では考えられないほど確かにめちゃくちゃに理不尽でもあったけど、昔と比べると今はPCにそれほどの魅力を感じられないものになってしまったきがしてならない

今も昔もクリエイティブな使い方のできるマシンであることに変わりはないのだが、
今のPCは、どこか昔のアウトローな雰囲気がなくなって、初音ミクのボーカロイドだの面白い動画制作だの
表立ったきらびやかな創作活動が主流になってしまい、昔には確かにあった無駄なこだわりが消え去ってしまったように思う。

あの頃、PCに情熱を注いでいた人達はいまの現状をどう思っているのか、果たしてその人達は今何をしているのか非常に気になるところだ。

当の私は、PC98マシンを発掘して改造してMS-DOSで実機でゲームを動かしたりしたいと思っていたりする。
家庭用ゲーム機の中でも最も好きなゲーム機がPCエンジンのCD-ROMなので、どこかPCオタクに通ずるものはあるとは思うのだが(エロゲーが沢山あったからってわけではなく、当時としてはずば抜けたテクノロジーに子供心ながら単純に惚れていた。同時期にドラクエ3だので感動していたヤツらを尻目にイース1・2とか天外魔境とか、内蔵フォントで漢字混じりの文章表現やトラック再生の派手なBGMなどに当時しびれていた)

これからPCはどこに向かっていくのか、ひたすらに気になってやまない。

就職活動に失敗した理由

私がなぜ就職活動に失敗したのか、今日はその話を書いていく。

最初に結論を書けば、行きたい大学に入れなかったからだ。

私はガキの頃から、父親の影響でゲームばかりやっていた。
家には、物心付く前からファミコンと大量のカセットがあったし、その後PCエンジンという、まず私の年代の家庭では持たないだろうゲーム機(しかも当時ゲーム機でありながら7万円はするCD-ROMドライブまで買っていた)ももち、
テレビゲームに関しては至れり尽くせりであった。

また、徳間書店が発行していた「ファミリーコンピュータマガジン」系のちょっと硬派なゲーム雑誌を親が買っていて、私もなんともなしにそれらのゲーム雑誌を読みあさっていた。

昔のゲーム雑誌は、ゲーム開発者のコラムとかゲーム会社や開発機材や環境を紹介する記事なんかも扱っていた。
そういうバックグラウンドも見ていると自然とゲーム開発に興味を持っていくものだった。

ただ実際にプログラムを組んだりはしていなかったので、そういう面ではゲーム業界を目指すには全然押しが足りなかったと言える。

ゲーム機は沢山あったけど肝心のPCは、私が中学2年生の頃にやっと購入した(未だに忘れない、最初のマシンはNECのバリュースターV10であった。20万円もしたのに既に持っていたプレイステーションより全然性能の低い困ったPCであった)。
Win95ブームの時に導入したものだ。
関連→バリュースターV10の詳細

同時期にスーファミでRPGツクールが出てて、近所の電気屋に中古1000円で売っているときに買って、それで一本作品を完成させることは出来なかったが、そこで色々気ままにスクリプトをいじくってイベントを作ったりはしていた。

本当はここで本格的なRPG1本でも作ってれば力が付いていたのかもしれないが、適当にスクリプト作ってるだけでも面白かったので、数ヵ月後まだ中古でも4000円ぐらいしたのだが、RPGツクール2も買った。
こっちはエディターの完成度が非常に高く、新機能を試したりして楽しんでいた。

ガキだったからなのだろうが、飲み込みは早かった。スイッチとかの理解も早かったし、うまくイベントが動かないときは、何が原因か探し当てるのも早かった。
このゲームのおかげで、テレビゲームの仕組みがよく理解できた。

その後、中学3年生の時の選択授業で迷わずBASICプログラムを選び、課題である電流計算のプログラムを割と早く完成させて、余った時間に背景に色をつける方法とかを先生に教えてもらって色々いじっていた。
(ちなみにこの先生は、私の1年生の時にひと騒動あった担任の先生だ)
関連→中学校時代に受けたいじめ

しかし私の中学校はでかく、いろいろな人がいるわけで、その中に一人だけやたらPCに詳しいオタクがいて、この人にはさすがに勝てなかった。
この人も当然私と同じ選択授業を選び、私以上のスピードでプログラムを書いて私以上の高度なことをやらせてもらっていた。

同じ塾にも通っていて、合格したら当時はまだ高かった64メガのメモリを買ってもらうとかPC好き以外には訳の分からない報酬を貰う予定でいた(ちなみに私も当時は詳しくなかったので、この報酬も間違ってる可能性が高い。確か64メガだか64ビットだかのメモリーだったかCPUを買うとか言っていた)。

この狂ったPCオタクは高校に入ってからPCへの興味が急激になくなり、当時流行っていたSHAZNAみたいなビジュアル系バンドをやりだしてますます訳の分からないヤツになっていった。
最後にそいつの話を聞いたのはauの携帯電話の代理店でバイトをしてて、営業成績トップだという話を人づてに聞いたきり。
相変わらず訳の分からないヤツだと思ったものだ。

なぜ、長々こんな話を書いたのか?

私の世代は、ファミコン絶頂期でゲームクリエイターを将来の夢に持つ人は珍しくなかった。
今と違ってまだ夢に満ち溢れていたし、一攫千金狙える世界だった。

中学時代の同級生にも一人いた。そいつとは同窓会で久々に会ったのだが、
ノートにRPGの魔法や特殊能力などのデータを書きだし攻略ノートを作っていて周りから影で変人扱いされていたヤツだ。
進路選択で高専でそれっぽい学科を選んだが、名前に騙されたらしく自分の意に沿う勉強が出来なかったことを不満にあげていた。でも、なんだかんだでコンピュータ系のカリキュラムだったので就職にはつまずかなかったという。

私もそういう馬鹿な連中の一人なのだが、今思い返すとちょっと事情が違ったように思う。
ただドラクエだのマリオだのやっていて「俺もこんなゲーム作りたい」と漠然と夢を持つヤツらとは違って、
父親が買っていたゲーム雑誌を見ていたおかげでそこらのただファミコンやってるだけのガキより多少は詳しかった(ゲームも沢山プレイしている)。
だが、具体的にPCいじってプログラムをするほどでない微妙な位置にいる人間だった。

ゲーム業界というよりも、プログラムに興味があった。
そりゃ身近にあるゲームを仕事に出来たらより良い限りだろうが、そこまで限定はしてなかったと思う。

今でも個人的にネットでプログラミングについて調べたりする。だが全くの素人には理解できる解説がなかなか無いのが残念な所だ。

ゲームはゲームでも、プレイステーション2以降のゲーム機にはあまり興味が出ない。
ファミコンやスーパーファミコン時代の平面処理(スプライト)で一生懸命動かしてる頃のゲームに興味がある。
プレイステーションやセガサターンにも興味はあるが、3Dポリゴンのゲームを動かすには制約が多いので、どうやって工夫しているのかに興味がある。
最近のゲーム機は、容量やメモリ(勿論ハイエンドを目指せば制約が出るのだが)を気にせず作れるので、私としてはあまり魅力的に見れない。

思えば、ゲームに対しての興味が薄れていったのもPS2が主流になってきてからだった。
その頃にゲームレビューサイトを立ち上げて、買ったゲームは必ず最後までやり切る!と決めるまではゲームに夢中になることが減っていたと思う。

話を昔に戻すが、そんなガキ(中学生)だった。

親も私の嗜好を分かっていたのか、工業高校の電子機械科をすすめられたが、パンフレットを見る限りなんか違う感じだったのと、自分の学力を試したいというくだらない理由で合格率2%のちょいと受かるのが厳しい進学校を選んだ(今思えばそのまま工業高校に行けばよかったと後悔している)。

で、大学を選ぶ段で、情報系の学部に行きたかったのだが、家の事情で仕送りとか無理だから実家から通える大学ときつくいわれ、渋々地元ではバカ大と言われてる経済学部に入ったのだった。

そうして大学3年秋になりはじまる就職活動では、私の就きたい職種は全く無く、営業系ばっかりで、
リクナビ2003に登録しても、引っかかるのはやはり営業系ばかり。
強いて行きたいと思えたのは広告印刷系の会社ぐらいだが、ここの説明会のババアが就職氷河期で買い手市場だからって異常に強気で、その態度が気に入らず、さっさと退室した。

こうして就職活動はまともにやれないまま、あっさり卒業式を迎え、私は人生につまづくことになった。

バイトはしていたものの名実ともに無職となった2004年4月、私は円形脱毛症になっていた。
そして、就職は出来なかったけど、収入に結びつかなくてもいいからなにかやろうと思い立って始めたのが
ここで何度か出てきているゲームレビューサイトであった。

新卒の就職活動に失敗してから私の時間は止まっている。
あれからもう丸7年たとうとしている。未だに解決の糸口は見えてこない。

私は怠けているのだろうか?

こうやって思い通りにならなかったとき、他の人はどうやって折り合いをつけて生きているのだろうか?

決して好きでこんなことをしているわけではない。

才能と結果が必ずしもイコールとなることはない

次に書くテーマで2007年?2010年までやっていたゲーム配信について、執筆のために色々現状など下調べをしていた。
今は様々な配信サイトがあるが、もっとも人が多くてメジャーなのがニコニコ生放送である。

そして私も、コメントは一切しないが暇つぶし&BGMがわりに見に行くが、見ているというより付けてほったらかしてる感じなので、面白さよりも長時間配信するかどうかで見続けるか決めることが多い。
主に見る配信は、BGMがわりには丁度良いゲーム配信がほとんど。

ニコニコ生放送の場合、30分ごとに延長手続きをしないと配信が止まってしまう。
また、サーバーが混雑している時や人の多い20時?深夜2時までは30分延長するごとに500円も取る。
もともとこういう配信ツールは無料で使えたのに、人が多いのをいいことに商売に使うなんて、この会社は本当にセコイ会社だと私は思う。
この他力本願な会社は真っ先に潰れて良いと常々思っている。
そういえばなんか、地震災害の時にtwitterという馬鹿ツールで被災したとかデマ垂れ流して袋叩きにあっていたようだが、民度が低さだけがひたすら目立つどうしようもない会社だ。

さて、ニコニコ生放送では少なくても500。多いときは4000以上のチャンネルが同時に配信されている。
こんなに多いと、見るものに困ってしまうほどだ。
私が最後に配信していたPeerCastという場所では多くても200チャンネル程度だった(はず。去年夏に引退して以降、全く視聴すらも辞めたので詳しく覚えてない)。

しかもchリストは恐ろしく見づらく、しょうもないサムネイル画像表示するぐらいなら、重たくなる原因の画像なぞ無くしてしまい
1ページにびしっと見やすく表にして表示して欲しいと思う(PeerCast補助ツールみたいにな!)。

twitterといい、最近人のむらがるサイトはどうしてこうもインターフェイスが悪いのか!!
私が時代についていけてないだけなのか!?余談だがtwitterなんか自慢じゃないが使い方wiki見てもなお、見方や用語がよくわからない。あんなクズツールのどこが面白いのやら本当にわからない。

まあ、そんなわけで、面倒くさい私はトップページに堂々と載っかっているいわゆる予約枠のchしか見ない。
ちなみにこの予約枠も時間帯にかかわらず(これはいくら取ってるのか知らないが)金を取る。

で、予約すると金取ってるだけに、トップページに表示してくれるのだが、金使ってまで配信するような人は、人集めや人気取りに必死なわけだ。

私は、配信者の面白さは二の次で、BGMがわりに居心地のいいchかどうかが全てなので、そりゃ面白けりゃ自然とそっちに見入ってしまうから面白いに越したことはないが、配信者の人間性なんてはっきりいってどうでもいい。

昔は、まだ私自身もゲーム配信をしていたころは、私も1リスナーとして配信を見ながらレスを付けたりして盛り上げたものだが、今はもう配信者とのコミュニケーションも引退と共に時間の無駄と感じて、眺めるだけにして全く辞めてしまった。

で、ニコニコ生放送はそれでもch数が多すぎるので、視聴の参考にするためのツールが充実している。
それは、盛り上がっているかどうかを数値化した、ちくわちゃんランキングというものが存在している。
私もこの辺はあまり興味がないので調べてないのだが、要するにコメントしている人の人数とコメントの勢いをランキングにしたものである。

視聴者が多く盛り上がってる=面白い配信なのだろうとよりたくさんの人が集まってくるという仕掛けだ。

これは私がかつて配信していたPeerCastでもリスナー(視聴者)数を表示して人気指数を視覚化していた。
この人数表示はUstreamでもそうだし、比較的標準的に付けられている機能だから、別にPeerCastが特別というわけではない。
そりゃ見る側としても現在見てるchが何人見ているかは気になるものだ。

ちなみにPeerCastは、配信ツールのなかでは古参を誇る歴史の長いもののため、人数表示による人気至上主義が歪んだ状態を生むことを想定して早い段階から非表示配信を推奨するようになっていった。
一時期管理者が逮捕騒動で変わるまでは、ほとんどが人数非表示での配信ばかりであった。

今のニコニコ生放送がまさにその人気至上主義の状態なのだが、真っ当なやり方で配信していても、配信者がいくら面白い実力者であっても、現状ではちくわちゃんランキングなどで上位を獲得するために徹底した人気取り&人集めを行う配信者には絶対に勝てない。

原因としては2つある。
・ch数が多すぎるくせに、インターフェイスがダメすぎるので探す気が起きない
・当然自然と人が集って賑わっているchをなるべく見たいと思う視聴者側の心理

たまにやりすぎなぐらい露骨に人集めをしている配信者に出会うことはあった。
だが、素直に「これは見るに堪えないな…」と思ったら、黙って視聴を辞める。一々文句なぞ書かない。

私はそれ以上配信者の人間性とか深い部分まで考えたことはなかった。
「この人は今のニコニコ生放送の仕様を理解して人を集めて盛り上がろうという努力をしている」程度にしか思わない。

ところが先日、2chで「ニコニコ生放送」スレッドを見て、価値観のあまりの違いに驚いてしまった。

そこでは、
・露骨な人集め&人気取りは邪道である
・面白い配信者ならば自然と人が集まってくる
・才能がなくても継続は力なりの精神で努力さえ続けていればいつかそれが実る時が来る

そもそもニコニコ生放送の利用者自体10代?20代前半だからこそのピュアな本音なのだろう。

だが、努力だけしていても、才能だけあっても、見てくれる人がいなければそれは全く意味のない行為となる。
本当は地道な努力の積み重ねで手堅く固定客が増えていくのが理想なのはわかる。

しかし現実問題、配信に限らず、ネットにしろリアルにしろ、人気が出るというのはきっかけが必要なのだ。

特に配信なんてのは、まず見てくれる人がいて成り立つものだ。
つまり、人集めや人気取りだって立派な努力の一つなのである。

正攻法で、例えばゲーム配信であれば、自分のやりたいゲームばかり配信してるだけじゃ、いつまでたっても人は増えない。

努力が報われないのは、私がここで気合の入った長文エントリを毎日投稿したって誰も見ていなかったり、
7年もやり続け、個人サイトでは最大級を誇る本数を取り扱ったゲームレビューサイトが閑古鳥が鳴いている状態という事実を突きつければ、説得力が出るだろう。

少なくとも日本では(外国ではどうか知らない)。
自分のしていることを宣伝したりする行為は、出る杭は打たれる文化によって、相当に叩かれるだろう。
しかし、それは多くの人に自分がしていることをアピールするために必ず通らなければならない道なのだ。

有名になって目に付くようになれば、当然嫉妬などつまらないだの叩かれる機会も増えるだろう。
だが、誰にも知られぬまま努力を繰り返しているだけの無意味な惨状と比べるとどちらがマシだろうか?

最初はやりすぎなぐらいでもいい、宣伝、売名どんとこいだ!
そりゃ理想としてはある程度力をつけてからやるのがベストではあろう。

それに、人集めに必死な配信者を擁護するわけではないが、そういった人達は、やはりどこか盛り上げ上手だし、最低限の配信設定も勉強して、それなりに見れる配信にはなっている。

実力至上主義が間違ってるとは言わないが、自分のしていることを観てもらうための努力だって十分必要だと言うことを訴えたかった。

私のゲーム配信についての話は後日改めて記載する。

世の中の全ての価値観はテメエで決めろ!!

今回のエントリーは趣向を変えて、私が書こうと思っている小説(プロット)の主題、テーマ。
特に20代の間に痛感したことだ。

題目のとおり

「全ての価値観は自分で決めるものだ!」

情報化社会と言われ続けて20年近く経ち、言葉だけが先行していた印象だが、今やそれが現実になっている。

毎日、莫大な量の情報が生み出され、そのほとんどは見られることもなく消えていく。

みんなはちゃんと、自分の意見を持っているだろうか!?

世論や人の意見に流されていないだろうか!?

「俺はネットで湾曲されてない情報を見ているからマスコミに洗脳されていない情報強者だ!!」
などと思っていないだろうか!?

ネットだから大丈夫。安易にそんな考えをいだいていないだろうか!?

ここを見てる(かもしれない)あなたは、本当に「自分の意見や意思」を持っているだろうか!?

もう一度、自分の中を隅々まで分析して確固たる自分の意志が確立されているか己を見つめ直してみて欲しい。

2chのまとめブログやアフィブログを見ただけで、「その気」になってないだろうか!?

だが待って欲しい。与えられる情報を鵜呑みにしているだけでは、ネット普及以前の習慣だった新聞やテレビニュースを見ているのと同じことだ。

昨日私は、スタジオジブリのすばらしさという特番をたまたま見た。テレビなぞ全く見なくなった私がである。

その時に痛烈に思ったことがある。

「ジブリは世界的に評価されているから素晴らしい映画だ!」

盲目的にそう受け止めていないだろうか!?

自分の意見をしっかり持っているものは、そこで素晴らしい部分をしっかり力説できる。

だが、いざ問いかけられてみて、うろたえて言葉に詰まってしまったり、誰でも答えられるような上っ面な感想しか述べられないのであれば、それは「あなた」の本当の感想ではない。
所詮そのレベルならば、マスコミの煽り文句や巷の評判の受け売りに過ぎない。

意思をしっかり持った人間ならば、凄さと同じくらいダメな所も目についているはずだ。
いくら世界的に評価されたからといって、0から10までほめられるような映画とは私は全く思っていない。

ジブリ映画の、特に宮崎駿の表現技巧は光る面も多いが、崇高なテーマは、パンフレットとかインタビューの制作意図を見なければ理解出来ない分かりづらいものだし、ジブリ映画=子どもでも見れる印象が植えつけられているが、私は全くそうは思わない。
アレはいい大人がみなければ、深層に潜む伝えたいテーマが視聴者に伝わってこない。

こういうことを瞬時に良い面を認めた上で、欠点も見抜く意思が人間には必要だ。

一般的に低俗だと言われているものだって、みんなが低俗だというから低俗だと決めつけていないだろうか!?

実際触れてみて、自分の琴線に触れる部分があれば、それは自分の中では有意義なものとなる。

世間の評判ばかり気にして、無個性でマニュアル化した人間になっていないだろうか!?

このエントリを見て、もう一度自分の中に問いかけてみて欲しい。

自分がどう思ったか、まずこの感覚を大事にして欲しい。
みんながこういうから、それが正しいとは思うなんて愚の骨頂だ。

私がこれからやりたいプロット書きで大事にしていきたいのはこの辺りだ。

低俗な題材でも結構。土台がしっかりしていれば、面白いものになると信じている。
崇高な文学小説なぞくそくらえだ。ゲームやオタク向け深夜アニメ、ライトノベルから得られる物など何も無いなんて誰が決めた!?

肝となるのは、自分がその情報を見て、どう感じたか、どの辺りの心を動かされたかだ。

世評の勢いに乗ってそれに流される人間こそ真の情報弱者としか思えない。

自分を一歩変えたいと思うなら、まず自分の確固たる意見や意思を持つことだ。
ブレない意思を持つ。時には他人から叩かれるだろうが、そこでめげてちゃいけない。

まず先入観を取り払う。これはほんとうに大事なことだと思っている。

市役所の臨時職員の仕事 事務補助編

選挙事務の仕事が、楽しく働けたので、他に仕事のあてもなかったし、情けない話だが再び臨時職員に登録した。
2ヵ月後連絡が来て、また市役所で働くことになった。

勤務先は、市役所本庁舎ではなく、とある施設の事務補助である。
今回は10ヶ月。一般的な臨時職員の事務補助の仕事内容とほとんど同じだろうが、一応紹介していく。
もし万が一特定されると今回は困るので、ある程度はぼかすが、内容的には読めるものになっていると思う。
また、そういうナイーブな話を扱うので、今回はあまり毒も書かない。
つい最近の出来事だったのもあるし、10ヶ月も関わった職場なのでまだ書けないこともある。

●8:45?10:00
新聞をスクラップに挟む。書類を課ごとに仕分けて書類棚に入れる。

●10:00?11:00
本庁舎へ私の所属する施設宛の書類を取りに行く&本庁舎宛の書類を運ぶ
基本徒歩なので、雨や寒い日など悪天候の日や季節は辛かった。

●11:00?12:00
関連施設へ、書類運搬。遠いので公用車を使う。片道25分位。ラジオを聞きながらまったり。
用事が無い日は、行かなくてよくなる。

●12:00?12:15
11時台に郵便局の人が、郵便物を持ってくるので、課ごとに仕分けて書類棚に入れたり、同じ課なら本人に渡す。

●12:15?13:00
昼休み。
保険屋の営業が頻繁にやってくるので、対応するのが面倒くさい。
気を遣ってあまりきつい物言い(私はいわゆるバイトだからそんな金持ってないとか言って断りたかった)をしなかった。というか既に保険には入っていた。

選挙事務の時と違って、近くに良い飲食店もなかったし(建物内に食堂はあるんだが値段も高いしイマイチ美味しくなかった)、親に作ってもらったおにぎり2個を食べて後は寝ていた。
ちなみに、このおにぎり、最初の4ヶ月は、梅おにぎり固定で、正直飽き飽きしていた。
私は睡眠時間を削って、ゲームレビューサイトの更新をやっていたので、基本的に寝不足であった。
朝ごはんを食べる時間も寝る時間にあてていて、この昼のおにぎりがその日初めて口にする食料だ。

●13:00?14:30
別の関連施設へ、車を使って書類運搬。2箇所まわるので、1時間30分はかかる。
私の場合は安全運転と称して、時間つぶしも兼ねていたが。急いだって別に良いことがあるわけでもない。
かえって事故ったら自分が損することになる。

●15:00?15:30
郵便局に出す後納郵便物を伝票に集計する仕事。
決められた伝票に決められた様式で書くだけなので慣れたら10分もせずに終わる。

●15:30?16:15
本庁舎へ書類の受け取りと、ウチから本庁舎宛に出す書類を書類棚に入れてくる。

●17:00
部長と管理者(一番偉い人)宛において行った業者の名刺を整えて渡す。

●17:15
業務終了

この仕事は、とにかく空き時間が多いのが最もしんどかった。
車で外回りする時が最も楽だった。一人で外出するから気が楽だし、時間がたつのも早い。

空いた時間は、シュレッダーに溜まった紙をカラにしたり、コピー機の用紙を補充したり、
使い終えた書類で片面が真っ白で再利用出来るものと分けて、分けた書類の片面を印刷機で真っ黒にして
すぐ使えるようにするとか。

後は、本庁舎とやりとりする時に使う封筒作ったり。

はっきりって、それでも時間は余る。
余ってるからってボケッとしてるわけにはいかないので、マニュアル読んだりして、仕事しているふりをする。

私は、この職場に馴染めなかったので、なんか浮いていて辛かった。
仕事はいたって真面目にやっていたし、飲み会にも欠かさず出席していたんだけど、駄目だった。
見た目が既にうだつの上がらないオタク臭を醸し出していたので、陰で笑いものにされていたのだろう。恐らく。
同属嫌悪ってやつなんだろう。だから、いるだけで正直きつかった。
耳が聞こえなくなってきたのも、ここで働き出して半年が経過した頃だった。

市役所ってのは、はっきりいってオタクが多い。
稀に異性に奥手で、金持ってるんだけど無趣味で、女に縁がなく童貞って言う絵に書いたような人も普通にいる。

まあ、公務員って勉強しないと入れないから、頭でっかちな人が多い。
でも倍率が高いから、下手な民間企業より(場所によるだろうが)仕事自体はしっかりやるし、人間関係もひどくない。

PCちゃんと詳しいし(特にPC担当がいてひとりだけ異常に精通してる人がいた。元エンジニアだったんじゃないかってぐらい詳しい)、全部の部署ではないだろうけど、ぶっちゃけ2chとか普通に見てる。
職場の会話で、そういう話も普通にする。高校生みたいなノリでゲームの話も良くやっている。

あとは、あまり書くとマズイのだが、私のいた職場では休職してる人もいた。10ヶ月いたけど一度も顔を合さなかった。
他にも外様から見ると、問題が結構あるように見えるんだけど、守秘義務もある(こういうことあんま書いちゃいけないんだよねホントはね)。
それでも話せるところと話せない境界線については一応把握しているつもり。

実態を全て暴露したい気持ちもあるが、役所も役所でどうにかしたいと思っていても、民間と違って馬鹿馬鹿しいしがらみに縛られて、なかなか手をつけられないこともあって、すぐに行動に移せない事情がある。

市役所が民間と最も違うのは、役所自体が“市”の顔として見られるから体裁も気にしなければならないのである。

例えば、私のいた職場でも、東日本大地震の救援に行ったのだけど、市民の声で「対応が遅いよなにやってるの」という厳しい声が挙がっていた。

内情を軽く知ってる私としては、地震のあった3/11(金)は週末だったが、普段は休みの土日は恐らく正職員は余震や二次被害について対策本部みたいなのが出来て、役所としてどう動くかフル回転していたはずだ。

すぐ救援に行っても、体制が整ってないのに出ていっても、二次被害に遭えば元も子もないし、
体裁を繕って、みっともない醜態を晒さないための準備もある。

私もここまで褒め殺しするほど気に入った職場ではないけども、客観的に見ても、役所の中では全国的に見てもレベルが高いほうだと思う。

話が大幅にそれていってしまった。

要するに、この臨時職員の仕事は、正直言ってかなり緩かった。
私が社会適応力があれば、ここで楽しく働けたのだろうが、私には合わなかったようだ。

ただ向こうはどう思っているかわからない。
平社員はなかなか心を開かない私に、なんか困っていた感じだった。

ここの仕事が終わった後、送別会(飲み会)に呼ばれて、渋々出席した。

その時、課長(お偉いさん)には、真面目に仕事をする人だということを言ってくれた(おべっかかどうかも今となってはわからない)。

次の仕事の当てがまた無いので、また情けないが臨時職員に登録だけはしておきたいが、
今回は10ヶ月間、人事課の臨時職員担当者と毎日顔を合わせていたので、なかなかかっこ悪くて行きづらいのだ。

私は去年の11月末で終わったが、私のポジションを引き継いだ臨時職員は不幸だったなと思う。
3月に災害が起こって、いっけん無関係の地域にみえて、内部は対応に追われて恐らくガタガタだろう。

ここで、今後の私はどうしたいか少し触れて終わりたい。

やはり、新聞販売店でも市役所の臨時職員でも、事務的な仕事をやってきたので、これからも出来れば同じ方向の事務職に就きたいと思っている。

が、現実は厳しい。
対外営業は出来ないけど、事務職なら…って人は、多いはずだ。
そうなると競争率が高くなるわけで、何の売りもない私がその戦場で勝ち残れる確率は絶望的だ。

もう今の私は、打ち込めるものもなく、何をやっても上手くいかず、7年間やり続けたレビューサイトも全然成果が上がらず、立ち上げたブログも全く見る人がいない。
ゲーム配信も完全にやめてしまった。

もう立ち直る材料が何一つ無い。

最近、深刻に悩みすぎて、夜も眠れず困っている。寝ても、途中で目が覚めて眠れない。

周りで相談に乗ってくれる、話を聞いてくれる人もいない。

もう完全に自殺コースまっしぐらだ。

市役所の臨時職員の仕事 選挙事務

市役所の臨時職員の仕事のうち、選挙事務についてどのような業務内容だったのかを経験を元に伝えていく。

なお、当然ながら自治体ごとに体制が異なるはずなので、そのへんはご理解いただきたい。

私のところでは、投票日の約一ヶ月前から本格的な準備が始まる。
選挙管理委員会という部署があり、通常業務はそこに所属する人で間に合っているのだが(といっても普段はすることが殆ど無い暇なところだ)、
いざ選挙が開催されるとなると、他部署からも応援が必要になるほどの忙しさに見舞われることとなる。

そこで臨時職員の登場となる。

主な仕事は、各投票所の設営準備。職員が作成したスケジュールに沿って、各投票所に機材を手配したり、業者に連絡して会場の準備を手伝ってもらうことになる。

私は、この業務の中でも、多忙を極める投票日直前の約2週間、応援として呼ばれた。
そのため、残念ながらこの仕事を担当していた設営班についてはあまり詳しくない。

設営班は、4人の臨時職員で構成されており、年齢的には30前後といったところ。

毎日、各投票所に投票台や机、椅子など必要物資の搬送や手配に追われている感じであった。

選挙活動が本格化する告示後、設営班の仕事はさらに増えるため、それを補うために私含め2人の臨時職員が増援として呼ばれた。

増えた仕事というのは、各地に設置された立候補者のポスターが貼られる看板の管理である。
実はこのポスター、いたずらをすると警察沙汰となる。その監視と、ポスターが雨などで剥がれていないかのチェック、
もし問題があれば、発覚した時点でポスターを貼り直したりしなければならない。
ポスターはどこに張っても良いというわけではなく、選挙管理委員会が定めた場所以外に貼ってはならない。
なぜなら、立候補者のポスター掲示場は、選挙管理委員会が責任を持って管理しなければならないためだ。

応援で呼ばれた私の仕事は、毎日車に乗って、ポスター掲示場をまわって、問題がないかチェックする仕事だった。
8:45?12:15、13:00?17:15まで毎日、車に乗って地図を頼りに、看板の調査に回る。
おかげで、市内全域の地理にはずいぶんと詳しくなったものだ。

また、一人でやるには厳しい仕事だった(一人で地図を見ながら回るのは負担が大きいため)ので、
2人でナビ役と運転役のペアで仕事を行っていた。

とにかく市内のあちこちに配置されたポスター掲示場を1つ1つ全てチェックしていくため、市内在住している人間でもわからないような田舎道までも隅々まで一日中走りまわるため、やはりその観点からも一人でやるには厳しい物があった。

監視役のいない外回りの仕事だったので、結構気楽な仕事であった。
いくらお昼休みがあるとはいえ、一日中車に乗り続けるのはしんどいこともあり、区切りをつけて休憩したり、車の中で世間話をして盛り上がったり、割と自由奔放に仕事をさせてもらえた。

特に良かったのは、私よりちょっと遅れて入ってきた、2人目の臨時職員が、45歳のおじさんで、とにかく気さくな方で、話のわかるおっちゃんといった軽い感じの方で、和やかな雰囲気のまま仕事が出来たことだった。

車中2人きりで仕事をするわけで、ペアとなる人が性格的に合うか合わないかというのは重大な問題である。

話も弾むし、気の合う人だったので、仕事とはいえ苦痛さが全くなかったのは大きかった。

夏場で外は暑かったが、車内はクーラーが効いていて快適だったし、しんどいことは何一つなかった。

だが、さすがに投票日前後ともなると、かなりの激務となっていった。

まず、開票所の設営準備は、応援として呼ばれた私2人も当然関わることになる。

このへんから、残業も増え、かなり忙しくなってくる。

特に投票日は、目の回る忙しさであった。
まず、投票日は、朝6時に市役所に集合し(前日も期日前投票の作業に追われ夜遅くまで残業である)、選挙の案内板の撤去や、各投票所のトラブルに対応するため、本部でずっと待機する必要があった。

開票の終わった投票箱を、当日のみ雇われた大学生らしき人と手際よく片付けたり、深夜2時になってもまだ終わらない開票作業に、当然ながら付き合わなければいけない。

担当職員の善意で、まだ作業が残っているだが、2時頃にみんなの疲労度を考慮に入れてくれて帰らせてくれた。

次の日が休みなら根性で頑張れただろうが、次の日が平日で普通に出社しなければならないことが最もつらいことであった。

翌日も疲れが取れない中、相変わらずの忙しさであった。
開票所の後片付けが待っている。大量の備品を整理して元の場所に片付けたり、開票所の体育館を元の状態に戻すための力仕事(専門業者がやってくれるが)。目の回る忙しさであったのは言うまでもない。

そのあとも、各開票所で過疎地の片付け、使った機械を各支所に再びしまう、などの仕事が待っていた。

とはいえ、選挙日終了後、2日目にもなると、あらかた片付けも終わり、平常運転となった。

応援で呼ばれた私と2人は、ポスター掲示場の設置(強力)に協力してくれた企業に御礼の品を渡し、あいさつをするという仕事が残っていた。
これを1日こなすことで、私の業務は終了する。

2週間は、とても楽しく働かせてもらえた。

まず、一緒に働くメンバーが気の合う人達ばかりで、不愉快になることが一切なかった。

昼休み、昼食をどうするか初期は悩んでいたが、職員会館がちかくにあり、そこに入っている飲食店が安い割にかなり美味しいということを教えてもらって、勤務中の半分以上は、そこでご飯を食べていた。
私一人ではなく、同じ仕事仲間も頻繁に食べに来ていたので一緒にご飯を食べたりしていた。

また、臨時職員同士、チームワークがとてもとれていたので、仕事が終わった後に、夜ご飯をそこへ食べに行ったり、私の勤務最終日には、みんなでそこの飲食店でご飯を食べたことも思い出の一つだった。

この仕事をしている間は、本当に毎日が充実していた。
嫌なやつもおらず、やりたくない仕事もみんなで協力してやり遂げ、毎日同じ仕事だけでなくいろんな仕事があって、とてもやり甲斐のある仕事だった。

選挙管理委員会の正職員の人達も割と優しい人達ばかりで、不快に感じることが殆ど無かったことも良かった。

なにより、ひとつの目標に向かって、毎日みんながひとつになって、いろんな仕事をこなしていくことが面白かった。

仕事の内容が内容だけに、毎日が新生で、飽きることがなかったことも良かった。職場の雰囲気も凄く良かった。

本当に色んなことがあった。
ちょうど鳥インフルエンザが流行っていた頃で、各投票所に消毒液が急遽必要になって、
消毒液のエタノールを容器に詰め込む作業が突発的に入ってきて、時間もない中、皆が必死に終わらせるため奮闘したり、くそ重たい計数器を4人がかりで2Fに運んだり、逆に2Fから階下に運んだり、本当に面白いエピソードが多かった。

たった2週間だったけど、これが終わった跡も相変わらず仕事がなく困っていたために、臨時職員に応募したのは、仕事が面白かったからだった。

しかし、2度目に採用された臨時職員の仕事は、期待に反する職場だったのである。

<次回に続く>
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