俺の長くない人生について

28歳の時から、「俺の人生はもう長くない」と言い続けてきた。
そして、自分の予想通りの人生を歩み続けている。

ふざけてこんなことを言っているわけではない。

このブログを始めて4年。現状ではもう限界点を越えている。

周りからは「選り好みしなければ仕事なんていくらでもあって、就職しないのはお前が悪い」
こうやって言われ続けていた。

ハローワーク行けよハローワーク行けよ

これで解決すると思っているのなら、それは大きな間違いだ。

俺は、若い頃から就活してたが、ダメな奴はとことん就職できない

多くの場合、自己分析が足りないとかやりたいことがわからないからバイトでフリーターでと言う。
だが、俺にはやりたいことがあったし、人生目標や設計が漠然とではありながら持っていた。

はっきりいって、ハロワ行くってのは、周りに“就活してますよ”とアピールしているだけ。
そもそも、中途採用がメインだから、新卒未経験の若年者が入れる余地は、俺が若かった10年前からなかった。

俺が、就職できないってのは、自分でもなんとなくわかっている。
そして、それを直す努力をしろと周りに言われるが、それを出来ないからこの歳まで困り続けている。

直せないのをわかっているから、自分のやりたいことというか、向いてる方向に向かっていくしか無い。

このへんの葛藤、わかるだろうか?

やりたくない仕事を絶対やらない、働かない、そういう意味で言っているのではない。

まず、客観的にこれまでの人生を振り返って、親との関係が悪かったと思う。
うちの親は、結婚の動機が、恋愛結婚じゃなくて、母親のほうが家出してきて、田舎から出てきて適当な結婚相手を探してて、今のダメ親父と、結婚して、俺が生まれた。

この段階からダメだと言うつもりはない。ただ、家族との仲が悪く居心地が悪いというのは、これでなんとなく理解してもらえると思う。

その後、親父が俺に、将来のことや仕事についての話になると、

「なんでもいいから汗水たらして働いて金を稼げ」

これしか言わない。
この教育方針がダメだったんだと思う。

その言動の裏側にあるのは、将来自分が年老いた時に、養ってもらおうというセコイ考えが渦巻いていた。

だから年老いてきた今、俺にたかってきて、「なんとかしろなんとかしろ」と年を追うごとに、
俺に対して難癖つけて、説教してくる。
で、それに対して、俺はさっさと家を出て、地元からとにかく離れたいと思い続けてきた。

学校卒業して、就職浪人して困っている俺に、悩んでいる俺に、相談に乗るとかじゃなくて、

「ふらふらフリーターしてねえで、まっとうな職について金を稼げ」

とにかくこればかり口を酸っぱくして怒鳴られ続けた。

10年も人生に躓いていたら、なんかもっと、「お前は何がやりたいんだ」みたいな話になるべきだったように思う
(それ自体が、解決に導くとか、意味を持つ行為にはならなくても)





俺のやりたいこととか、生きてる原動力は、もうここを長く見に来てる人ならご存知のとおりかと思う。

よくネットで、「誰よりもゲームを愛している」みたいな人を見かけるが、俺から言わせれば全然青二才で、まだまだ甘っちょろく見える。

俺は、沢山のゲームをプレイして、ゲームレビュアーとしての見識を深めたかった。

それ自体を飯の種にするなんて虫のいい考えは持っていない(これも口を酸っぱくするほど書いた気がする)

別に趣味でもいい。
俺のゲームへの見方は、コラムシリーズを立ち上げて、いくつか書いてるが、ああいう感じだ。
技術者じゃなく、素人で、雑誌の開発者のコラムを熟読した聞きかじりの知識しかないが、その厳しい立場から必死に
「ゲームはどのように成り立っているのか?」というのを考察したかった。

ただ、出来ることなら、もう気づけば本当に丸10年続けてきたゲームレビュー
日中、金を得るための仕事も、それに近いものであれば良いという願望は当然あった。
(ゲーム作りと言っても、何か芸一つ持ってなければ作れないので、絶対ゲーム業界で働きたいという感情ではない)

何もそこまで贅沢を言うつもりはない。
このゲームレビュアーを、なんとか続けられるような、状態にさえなれれば、それでよかったし、そうしようと足掻いてきたつもりだった。

だが、無理だった。

肝心のゲームレビューも、人を楽しませるつもりでやってるわけじゃないから、全然見られていない。結果も出ない。

なにせ、一番辛いのは、自分の信念が、社会に、理解されないことが苦しい。

ゲーム動画配信をやっていた時期もあった。
そこでも、一時的に人気は出たが、残ったリスナーは、俺より年下で、俺の悩みをわかってくれる人がいないから、
配信しててもつまらなくなって、リアルをなんとかしたいという事情もあって、一度引退してしまった。

そして極めつけはこのブログだ。
ここでも、俺への理解者がなかなかいなくて、絶望の淵に立たされる結果となった。

俺からすれば、周りの反応に対して思うのは

「なんでだろう?」

ってことだ。

アフィカスして楽して金稼ぎしてるわけでもなく、金が無いから金をくれなんて一度も言ったことがない。
仕事がなくて困ってるなんとかしたいとは、散々言った。
それで、ネットの外で、これだけ頑張っても、どうにもならなくて、それで、自殺するしか無いと言う結論にどうしても行ってしまう。

ただそれをグチグチ言ってるだけで、死体蹴りされていく。

だから、段々とブログにも本心を書くことをやめて、力も入らなくなってくる。





パッとしない小説を書いて、それを当てようと今はとにかくこれにすがっている。
長年文章だけを書き続けて、俺にはもうこれしか残ってないと思っているからだ。

他人からは馬鹿にされるレベルだろうし、全然作業もはかどらずおよそ現実的ではないが、
それでも、今の俺にはもうこれしか残されていない。

本当はどっかで下積みをしたりすることが必要なのだろうが、俺にはそんなコネも余裕も残っていない。

口だけでどうせやってないんだろう?と思われるから、俺のいくつかのアイディアの一つで、このブログの読者層というか
内容にあった、小説を公開形式で書いている。

まっとうに社会復帰する路線を放棄しているようにみえるだろうが、そんなことはまったく思っていない。
その方向でなんとかなりそうなら、それを当然選んでいる。

どうしようもないから、もうこれをやるしかなくなっている。





後、勘違いされそうだから、もう一つ断っておくと。
俺はゲーム中毒者ではない。

クリアすると決めたゲームは、終わるまでは時間を作ってでもやりつづけるが、
そういうものがなくなったら、ゲームから離れたり出来る。

四六時中ゲームやってないと満足できないような身体ではない。

3月に入ってからは、ほとんどゲームレビュアーとしてゲームは全くプレイしてない。

金を得るために、やりたくない仕事をしにいってるせいで、現実逃避的にあるゲームをやっているところはあるが、
こういうゲームの遊び方は、俺にしては相当珍しい。





小説書きに必死になってるのは、自分の努力を金にするために一番現実的だからだ。
小説自体は書いたことがないから、その考えは的はずれなのはわかっている。

だが、俺にはもうそれしか残されていない。

だから今、今書いているブログ記事の自分の心境
この心境の吐露を、なんとか小説書きに向けるように必死になっている。

ゲームレビュアーとしての安西爆弾は、しばらく休止せざるを得ない。
まず、趣味の一つだったゲーム漁りを、金の関係で、もうかれこれ3年我慢している。





まあ、もう俺という一人の人間は、存在することは無理だろう。

実はこのエントリを書こうと思った矢先に、祖母が自殺した。
病気で死んだのではなくて、自殺した。

なんで自殺したのかは謎なのだが、人はこうも簡単に死ねるんだなということを実感している。

俺ももう、強いストレスと、長年悩まされるノイローゼへ耐える力ももうなくなってきた。

俺の人生はもう長くない
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俺の人生はもう長くない #1

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素人のゲームデザイン考(2):壁際のカメラワークの問題

沢山ゲームレビューしてきたというが、どういったところを見ていたのかというのを、最近文章化出来る目処が付いた。
それをシリーズ化して、いくつか記していきたいと思う。

なお、断っておきたいのは、筆者は、ゲーム技術者でもなければ、ゲーム開発に携わったこともなく、これといった勉強もしたことがないズブの素人だ。
ただ異常な数のゲームを体験してきて、その上での考察であることを断っておきたい。





前回、1回で収まるように、ムリをしてでもカメラワークの考察を書いたのだが、このテの話題で壁際のカメラワークについてよく議論されているので、独立して語ることにした。

というのも、色々他の考察を読んでいくと、自分から見てあまりにトホホな内容になっていることが多いためだ。





なぜ、壁際のカメラワークといった問題が出てくるのか

前回記述したように、立体処理が可能となったことで、ゲームで使われる舞台に凹凸(おうとつ)が付けられるようになった
それまでは、どこまで行っても、方眼紙の世界だったから、壁という障害物が存在しなかった。

つまり、視点を遮るもの(=カメラの挙動を邪魔する存在)が、平面処理のゲームでは、絶対に存在し得なかった

しかし、ポリゴンを使った、三次元処理になると、x軸(横)、y軸(縦)、そして三次元を成立させるz軸(奥行き。高さにおける上下方向)の概念が登場する。

z軸の概念は、3次元空間を表現するための必須要素であり、カメラワークとz軸は、お互いがぶつかり合い、せめぎ合い、どのように処理するべきか、という好敵手のような存在となっているのだ。





コナミの持ってるらしい特許「カメラワークの透過処理」はそれほど大きな効力を持たない

これは、ゲーム業界の関係者じゃない視点による考えなので、大いに的外れな点も多くあると思うが、筆者の文章の書き方は、体感を重視しているので、それを前書きしたうえで書く。

おそらく、一番気になっているだろう話題を、先に潰しておこうと思う。

コナミが出願している特許の原文を一応読んでみた。
最初に断っておくが、読む価値が無いので、それっぽい特許を取っているという認識を持つ程度で構わない。

それではなぜ、大きな効力を持たないのかというと、理由を幾つか。

コナミが特許侵害で仮に裁判沙汰を起こしたとする。
民事裁判というのは、御存知の通り、結構ゴネることが出来る世界なので。

例えば、壁を無視してカメラワークを取ったゲームがあって、手前の壁やオブジェを消して表示しているとする。

それで訴えられた場合、これを作った開発者も、結構な言い訳を出来る余地があるから。

・このゲームは、壁がある設定ではあるが、ゲーム上では表示してない
・半透明ではなく完全に透明、消失処理しているから侵害してない(原文通りだと、半透明と記載されているが、半透明と透明だと意味合いが異なる)

まだ色々、バカバカしい言い逃れが思いつくのだが、書いててあまりにバカバカしくなってきたため、このへんにしておく。






壁際のカメラワーク問題を解決しているゲーム

やはり過去発売されてきたゲームを例に出して解説したほうが説得力があり早いと思われる。

・スーパーマリオ64(任天堂/N64)
カメラ自体に当たり判定をつけているように見える処理をする。
一方で、壁を貫通して視点移動出来る場面も多くあり、統一性がない。
どちらかと言うと、衝突判定をつけているのではなく、場所ごとに、視点移動の制限をもうけているのだと思われる。
プレイヤーとの間に、壁が挟まった場合、それらは透明処理される。
また、逆に、透明処理の解決が難しい箇所の場合は、強引にプレイヤーを映そうとカメラが勝手に動く。
これらは、3Dゲーム黎明期の作品だったため、考えぬかれたというよりも、場当たり的な対応をしていただけだと思われる。
それから、マリオ64では、もう一つ取られた解決方法として、四方の壁を取っ払ってしまったり、障害物を減らすマップデザインを意識しているエリアが結構多くある。

・ゼルダの伝説 時のオカリナ/ムジュラの仮面(任天堂/N64)
そもそも視点操作を実質的に禁止した。カメラ操作はZボタンでプレイヤーの背後に回りこむ、いわゆるデフォルト視点にリセットする形(あとは主観視点での見回しのみ)。
この思い切りには当時驚いたものだった。ゼルダ64は当時、マリオ64の進化後継的立ち位置だったため、視点制御を不便にしてしまったことに、若かりし頃の自分は理解不能だった。

なぜこのようにしたのかというと、理由は1つしか考えられなくて、壁を貫通して透明処理させてしまうととんでもなく間抜けな絵面になり冷めてしまうからだ。
マリオ64では、カメラが壁を貫通できる場面が数多くあるが、おそらく開発者の想定外で、出来る限りそういう視点にさせたくなかったが、壁が邪魔になることによる不快感を同時に出したくなくて、やむなく残していたのだと思う。

このへんの解決策が、はっきりと完成されないまま、ゼルダ64は開発されていったため、視点制御をプレイヤーから実質的に取り上げることで解決を図ったのだと思われる。

ちなみに、ゼルダ64では、Z注目(ロックオン)中のみ、カメラの衝突判定が無視され、障害物の透過処理も行われる。
これについては、この状態なら、透過処理しても、やむを得ないだろう、敵自体はこちらでルーチン管理できるし、という判断だったと思われる。
確か水の神殿だったか、どこだかで、間抜けな絵面になってしまうところはあったが、開発者的には許容範囲というか、しょうがないと諦めたんだろう。

続編GC風のタクトでは、ハードスペックが上がったこともあり、カメラが壁を超えてしまうことは絶対になくなった(はず)。

・ドラゴンクエスト4/5/6/7(スクウェア・エニックス/DS/3DS/PS2)
アルテピアッツァがリメイクしたドラクエ全般。
360度マップを回せるが、屋内に限り、手前の壁が透明処理される。
屋外では、マップを回転できないか、オブジェと衝突判定があり、ぶつからないように動く。
屋内に限り、そのような処理を許しているのは、背景が黒バックで、絵的に違和感を与えることがないからという判断だと思われる。
(PS1のDQ7/4は、まだ手前の壁の透明化処理されておらず、どの視点にしても物陰が出来てストレスを感じた不満に対しての答え)

ちなみにこれはドラクエの専売特許ではなく、3Dゲーム黎明期に発売されたポリゴンフィールドRPG(S.RPG)では、初期から採用されている。

例を出すと(発売順に記載)
・ファイナルファンタジータクティクス(スクウェア/PS1)
→屋内マップで手前に壁が来た場合、透明になったが、それでも一部マップで物陰が解消されない部分があった
・グランディア/2/エクストリーム(ゲームアーツ/SS/PS1/DC/PS2)
・ゼノギアス(スクウェア/PS1)
など





壁の透過処理とはいうけれど

透過処理と言うより、昔のゲームは、特別何かしてたというわけではないと思う。
というのも、PS1/SS/N64時代のフルポリゴンゲームだと、スペック的に壁のポリゴンは1枚が当たり前。

で、これにテクスチャを貼り付けるわけだが、裏側から見たテクスチャーまでわざわざ計算してない(というかデータを持ってない)。
だからまあ、透明にせざるを得ないというか勝手に透明になっていたとまではいわないが、なし崩し的にそういう設計になっていたと言うのが、事情だろう。





なぜわざわざカメラに当たり判定を付けるのか

現状、ゲームプレイヤーがストレスに感じてしまっている壁際のカメラワークについて
その最たる原因が、カメラに当たり判定を付けてしまっているせいというのは、言い逃れようのない事実だ。

いくつかカメラ処理について例を挙げてきたが、最後にゲームとカメラワークの歴史について軽く触れて締めていきたい。

筆者はマリオ64を大好きで沢山プレイしたが、同時に神格化したくないので、ここらで穿った見方を披露したい。

マリオ64の素晴らしさとか、凄さとかはもう、さんざん他で語り尽くされているので、ここではそういう話じゃなくて、マリオ64におけるカメラワークについての話をする。

ジュゲムカメラがいる世界観が、宮本茂は天才だ!など囃(はや)し立てられていて、このジュゲムカメラがいかに優れているかだのなんだの書かれていることが多いが、はっきりいって自分から見れば茶番の一言でしか無い

これって要するに、逆説的な見方をすればカメラワークのプログラムを擬人化出来るほど手間暇かけましたよ!!というエゴの一つである。
ジュゲムカメラ自体の存在が優れているのなら、続編の「スーパーマリオサンシャイン」でも登場させればいいのに、カメラワークに関しては、カメラのアイコンが出てくるだけ。
それ以降、「スーパーマリオギャラクシー」でも、やっぱりカメラのアイコンが表示されるだけにとどまっている。

ではなぜわざわざゲーム冒頭にジュゲムカメラを登場させたのか?
なにも筆者も、開発者の苦労を見せつけるためだけに、登場させたなどと思っていない。

パソコンやスマホが普及してきた今なら理解してもらえると思うが、カメラのルーチンを作成するとなると、それだけプログラムを走らせるためのリソースが必要になる。

通常のゲームプログラムを走らせると同時に、カメラワークのタスクも計算しなければならない。
当然ながら、3Dゲーム黎明期のコンシューマ機、PS1/SS/N64には、そんな余裕なんて無い。

だから、カメラ操作なんてのは、プレイヤーに投げっぱなしのほうが楽だ。
いかなる状態でも、常に被写体(プレイヤー)と一定距離を取る、L1,R1で一定角度回転。
この仕様が、最もマシンに負担がかからず、カメラ操作できる作りであり、PS1/SS用のゲームはたいていはこの仕様で作られてる。

このカメラルーチンには、カメラの当たり判定ももちろん入っている。

何度も書くが、PS1/SSは、完全な3Dゲームを動かすだけでも結構大変で、ポリゴン処理出来るハードと言っても、
現実的には、2.5D程度のゲーム(例えるなら飛び出す絵本程度の簡単なもの)を作るのが手一杯だった。

そこをなんとか、当時の開発者は、色々工夫して、箱庭風味のアクションゲームやRPGを作っていたというのが現実。
だから、カプコンのバイオハザードとか、スクウェアのファイナルファンタジーなんてのは、プリレンダの1枚フィールドで、2.5Dという収まりのいい仕様で作られ、結果的に大成功を収めている

PS1/SSで、そうやって3Dゲームを作成するのに四苦八苦している中、1996年6月23日マリオ64とN64は発売され世界に衝撃を与えた。

このとき、多くの3Dゲームは、まだ、カメラワークについては、手を付けられる余裕も技術もなく、手付かずの状態だった。

マリオ64は、N64のマシンパワーを見せつける必要性もあり、その手段の一つとして、カメラに当たり判定を付けること、カメラ自体に意思を持っているように見せることでリアリティを演出することにした。
種を明かせば、ジュゲムカメラは発明でも何でもなく、N64のパワーを誇示するために生まれたキャラクターだったというわけだ。

このメカニズムから、どうしてカメラにも当たり判定を付けることが常識になったのかを理解してもらいたい。

プレイヤーは良くこのクソカメラ!などと憤慨することが多い。
しかし、カメラに当たり判定を付ける演出によって、自然とそのモニタの中の3D世界と一体化させようとしている。

カメラ操作できるゲームで、自然と障害物を避けて動くカメラについて、ストレスを感じることはあっても、違和感を覚える人はいるだろうか。

黎明期の3Dゲームは、この当たり前のように行われている処理すらされていないゲームがほとんどだった。
カメラが3D世界の壁を障害物として認識しないで、貫通して動き、被写体(プレイヤー)の邪魔になるものは勝手に排除されて映される。

これほど興冷めされるカメラワークはない。

わざわざカメラが壁を認識して、視点を勝手に近づける。

これをしないと、さんざん書いてきたが、間抜けな絵面になる

間抜けな絵面というのはどういう絵面かというと、地層の断面図を見ているかのような、現実には絶対にありえない構図が画面上に展開される。

それは、どちらかと言うと、現実に存在するもので例えると、舞台を観客席から見ているような状態に近い。

古いたとえで申し訳ないが、
ドリフのコントで、外、玄関、家の中というセットを想像して欲しいが、こんな断面図みたいな構図、舞台だから許されるわけであって、現実では絶対に見られない。





だから、というわけではないが、結果的にカメラに当たり判定を付けることが合理的な処理であると認識されるようになっていった。

で、前回書いた、カメラ操作できるゲームは、実は作り手には制約が多く、思い通りの地形を作れないし、アクションゲームにも向いてないと書いていったのは、このような認識を持っているからだ。

思い通りの地形を作れない理由は、このクソカメラ!ってなってしまうので、その原因を取り除いた結果が、前回書いた

・画一的で、柱や本棚みたいな障害物がなく、地面は平坦で、できれば空中には何もなく、巨大な空間が広がる大部屋
・出来る限り、ひと目で地形を認識できる単調な構造
・理想的なのは、四方に壁のない屋外。

アクションゲームに向いてないのは、意外と地形、敵などの距離感がつかめないから。

・周囲の敵の状況やオブジェなどの距離感をつかみやすくするためには、被写体(プレイヤー)から引いた状態が望ましい
・しかし、カメラと被写体を遠ざけすぎると、間に障害物が入る確率が大幅に上昇する
・現状、俯瞰カメラのゲームは、2Dアクションで極端に視界を狭めた状態で遊ばされている不便なゲームになりがちである(加えて、その視界を自分で操作しなければならない負担を強いられる)

この問題を解決するためには、バイオハザード4がやったように

・カメラと被写体(プレイヤー)の距離を縮めてぴったり貼り付けてしまえば良い

しかし、あまりに近づけると、アクションゲームとして不向きになる
結果、飛び道具で戦い合う、FPSライクなゲーム以外では扱いにくい、使用用途の低い代物になる。


補足すると、FPS(一人称視点)では、視点の問題は全く発生しない。
なぜならカメラとプレイヤーが完全に同一化しているため、カメラにとっての障害物とプレイヤーにとっての障害物が全く同じ状態になっているからだ。





通して読みなおしてみると、開発者の都合ばかり考慮されているような印象になった。

そうではなくて、一つ言いたいのは、たったひとつだけ、プレイヤーへの利点を述べる

・カメラに当たり判定があり、壁際で勝手にカメラが近寄ってくる利点は、後ろに壁(障害物)があることを教えている

カメラを自由に操作できるのだから、要は、開発者としては、180度反転して欲しいって言う意味合いになる。
カメラ操作をフリーにしているのだから、逃げ道としては当然それが最も妥当という話になる。

ここで、やっぱりカメラを壁にめり込ませてでも快適性を追求すべきってのは、カメラワークの歴史の観点から見ると、退化しているようにしか思えない。

そうなると、壁際での戦闘を避ける地形や敵配置などが求められてきて、カメラ操作できるゲームというのは、作るのが本当に大変で難しいものになっている。





最後に余談

モンハン持ちっていう言葉が一時期流行っていた。
PSPにスティックが2本ないから、十字キーでカメラ操作が割り振られていたためプレイヤーの間で作られた戦術だ。

しかし、マリオ64のCスティックの操作性をわかっていたら、もっとPSPで快適なカメラ操作を実現できたと思うのだが、この辺が体系化されてないような気がして外様の身分からすれば残念でならない。

素人のゲームデザイン考(1):カメラワークについて

沢山ゲームレビューしてきたというが、どういったところを見ていたのかというのを、最近文章化出来る目処が付いた。
それをシリーズ化して、いくつか記していきたいと思う。

なお、断っておきたいのは、筆者は、ゲーム技術者でもなければ、ゲーム開発に携わったこともなく、これといった勉強もしたことがないズブの素人だ。
ただ異常な数のゲームを体験してきて、その上での考察であることを断っておきたい。





今回のお題はカメラワーク
1994年末、PS1/SS/N64以降、ゲームにおいてポリゴンによる3次元的表現が当たり前になったことで、ゲーム作りにおいて、カメラワークという、表現技法が登場した。

平面的処理が主体だった頃は、そもそもカメラワークという概念が介在する余地がなかった。
ゲームを動作する、マシンパワーが、立体的処理出来るほどのちからを持っていなかったため、どこまで行っても2Dの平面処理の壁をぶち破ることが出来なかったためだ。

いくらゲーム側で、三次元的な演出や、立体感を出していても、それは擬似的なものでしかない。
つまり、昔のゲーム開発者というのは、制約が厳しい中いかに工夫して映像を表現するかということに異常なほどのリソースを割いていた。

具体的に、昔のゲームが、どのような形で表現されていたのかということを、わかりやすく説明する。

方眼紙の上に、コマ(プレイヤー、敵、障害物)を置いて、その上でコマ同士をぶつけあう程度のものだった。
プレイヤーは、それを真横(サイドビュー)からみたり、真上(トップビュー)から見下ろすといった、ゲームが成立する視点から見てゲームをプレイする。

真横から見てる、真上から見てるというのも、それは、そういう設定にされたゲームというだけであって、方眼紙を一定角度(真上)から見ているという仕組み自体は一緒である


これは三次元処理が主流となったゲームでも、原理的には変わらないが、ポイントなるのは、三次元処理のゲームでは、コマ(プレイヤー)の一人の視点からゲームを遊ばせることが出来たり、視点を自由に動かすことが出来る。
しかし、昔のゲーム機は、一度決められた視点を変えることが出来ず固定するしかなかったため、真横から見る、真上から見るような、いわゆる決められた神の視点と呼ばれるところからしかゲームを遊ばせることが出来なかった。

ざっくり過ぎるだろ・・・と思われるかもしれないが、専門用語など一切使わず、誰にでもわかるような説明の仕方となると、これぐらいシンプルにものになる。

まあ、ゲーム機によっては、

・方眼紙を3枚まで重ねて、それぞれを自由に動かすことが出来る(スーパーファミコン)
・方眼紙のうち1枚を好きな角度から見せることが出来る(スーパーファミコンの回転・拡大・縮小処理の応用機能)

こんな素敵機能を備えていたりするが、基本的に平面処理のものを擬似的に立体化するための補助機能でしかない。

方眼紙を好きな角度から見せることが出来るというのは、有名所で具体例を出すと、

・F-ZERO(任天堂)、スーパーマリオカート(任天堂)
・ファイナルファンタジーシリーズの飛空艇(スクウェア)
・パイロットウイングス(任天堂)

このへんになる。

これらの例を想像すると、実質的にスーパーファミコンの時点で、3次元処理が可能になったのでは?という話になるが、それは違う。

方眼紙を制限なく好きな角度から見れることで、モニタの中に3D空間が広がっているかの錯覚を感じるほどの表現力を実現しているのは確かだが、ここで一旦冷静になってほしい。

しょせん色んな角度から方眼紙を見せれるようになったところで、それはどこまで行っても、紙ッペラ一枚を、ぐるぐる回したり斜めにしてる程度で、厳密に3次元空間が広がっているとは言いがたい。

1枚の書類を、遠ざけたり近づけたり、ぐるぐる回したりしているだけであって、原理的にはこの上にコマを置いて、ゲームをやりとりしているだけで、やっぱり二次元の平面処理なのである。

スーパーファミコン辺りになってくると、これができるようになった、あれができるようになったという話が出来て、
それ以前の、PCエンジンは、メガドライブは、PC88は、ファミコンは、こういう制限があって、とか
知識自慢や懐古に浸って、色々喋りたくなるが、カメラワークの話から大きく逸脱してしまうためにこのへんで締める。





それでは、ポリゴンによる三次元処理が主流になって、ゲームの遊ばせ方がどのように変わったかということを述べる。

前段でも軽く書いたが、全てが平面処理で構成されていた(せざるを得なかった)時代のゲーム機と、大きく変わった点がある。

・固定された神の視点の呪縛から解き放たれ、あらゆる角度からゲームの世界を見せることが出来るようになったこと

先ほど、平面処理のゲームの仕組みについて、方眼紙に例えた。
これが、ポリゴンを用いた三次元処理になると、事情が大きく異なってくる。

世界に凹凸(おうとつ)を付けることができるようになったことで、方眼紙で例えることができなくなる。
例えるなら、ミニチュア、ペーパークラフトが舞台となって、これをあらゆる視点、角度から見て、ゲームを遊ばせるという形へと進化した。

ここで、必要となるのがカメラマンの存在だ。

なぜなら、これまではある一定の固定された視点があったために、そんなものは必要なかった。

もっと厳密に書くと、ゲーム界からすれば、その概念自体不要だったから、必要なかったというよりも、意識する必然性が出た、という方が適切である。


だからゲームは進化したんだよ!テクノロジーの進化って凄いね!終わり

ゲームで飯食ってる著名人なら、この程度で原稿料が出て凄い面白いタメになったとかチヤホヤされてWin-Winなのだろうが、この話はここで綺麗には終わらない。

ここからが本題となる。

このカメラワークの概念について、ゲームをどのように見せていくべきかという方法論が、今回のお題のメインとなる。

カメラワークについては、大きく2種類の方法論がある。

・開発者が予め設定した視点で見せていくタイプ。
・プレイヤーを中心として、常に一定距離を保ち、プレイヤー自身がそのカメラを必要に応じて操作するタイプ。

RPGの移動パートでは後者、戦闘パートでは前者というように、厳密には合わせ技で構成されているものがほとんどだったりするが、基本的に、ゲーム内で極端に比重の大きい方を“採用している”こととしている場合が多い。

それぞれに一長一短と、性格がある。このエントリでは、そこについて切り込んでいきたい。

あと、前置きとして、ややこしくなるので、いわゆる箱庭系ゲームというか、3Dフィールドを徘徊するタイプのゲームを主軸として書く。
ポリゴンだけど、横スクロールアクションとか、3D格闘ゲームとか、そういうのを含めていくと、ごっちゃになって説明が面倒になるので、そぎ落として書く。




開発者が予め設定した視点で見せていくタイプ

プレイヤーの位置によって、開発者が適切だと思った、或いは、見せたいカメラ割りが自動で行われる

メリットとしては、

・カメラマン(視点操作)の制御プログラムを作る必要がない
・コントローラーに、カメラ操作の割り振りがいらないので、そのぶんボタンの数を減らしたり、空いた部分を別の操作に使うことが出来る
・陳腐なマップデザイン(極端に言えば単なる一本道のマップ)でも、カメラの演出一つで、見栄えの良いものに魅せることが出来る
・都合の悪い部分、見えない部分は作らなくていい、もしくは、見ることのない部分、裏データをごまかしてメモリ削減出来る(ゲーム機の性能が上がった現在ではほとんど考慮されないテクニック)
・カメラ操作がないので、プレイヤーをその分ゲームに没頭させることが出来る
・総括すると、全般的に開発者に都合の良いカメラワークを設定できる

一見、開発者に都合が良いシステムに感じるが、デメリットもかなり多く存在している。

・当然のことながら3Dフィールドのすべての部分に、開発者がカメラワークを設定しなければならない
・見やすい遊びやすいだけでなく、カメラのカット割りの演出にセンスが求められる(3Dらしさや立体感を出す必要がある)
・方角を見失うような突飛な視点になりがちである
・視点の切り替わりのタイミングや決まり事に対して慎重になり、配慮しなければならない
・行ったり来たりするゲームの場合、ビハインドビュー視点の仕様だと“行き”は奥へ向かっていたが、“戻り”では、カメラに向かって手前に走り続けるという、滑稽な状態に陥る場合がある(この場合、逆戻りしても激しい違和感を与えないカメラワークにする必要がある)
・開発者に都合が良いといっても、マップの構造が意外と把握しづらいなど(特に方角が迷いやすい)、自由自在にやれる部分が思っていたよりは少ない。
・プレイヤーを映す視点の角度が突然切り替わると、プレイヤーの進行方向と入力方向に誤差が出る問題

これは、奥へ進むために、スティックで上を入力していたのに、曲がり角で突然、カメラが切り替わって、
入力方向がおかしくなってしまう問題。

図解したら一発で分かる話で、お絵かきツールで書いてみたのだが、惨憺たる有様だったために困っている。

この問題を回避するためにバイオハザードでは操作方法にいわゆるラジコン形式を採用していたが、結局直感的なインターフェイスはどっちかという話になっていくと、スティック操作へと収束していった。





プレイヤーを中心として、常に一定距離を保ち、プレイヤー自身がそのカメラを必要に応じて操作するタイプ

今現在、主流となっているシステム。
ハード性能が上がった現在だから主流というわけではなくて、3Dゲーム黎明期から、3Dにするんだからこっちのほうが良いだろうと、実は意外と、こっちを採用しているゲームのほうが今も昔も多い。

左スティックで移動、右スティックでカメラ操作
と言う、操作方法が確立されているが、個人的にはこれが最適解か?というと、まだまだ操作形態については模索する余地があると思っている。

3Dゲーム黎明期の傑作、N64「スーパーマリオ64」は、それなりに良いカメラ割りがされていながら、Cボタンの左右で90度ごとにカメラ回転できた。

「スーパーマリオ64」の場合は、本体ロンチで出す以上、それなりにカッコの付く、絵作りもしなければならなかったから、
カメラ操作もできるけど、ある程度いい位置に勝手にカメラも動きますよという風にせざるを得なかったんだと思う。

たぶん本当に最初は、ここまで勝手にカメラが動くんじゃなくて、自分で動かすような感じだったように思う。
それだとあまりに味気ないから、色々補正をかけていった結果、あんな感じになったんだと思っている


今はカメラ操作できるゲームは、プレイヤーに全てを委ねているが、マリオ64みたいに、合わせ技であがいてみるゲームがもっと出てもいいと思っている。

このシステムは、プレイヤー本意なシステムだからか、メリットも多いが、デメリットもたくさんある。

メリットについて。
・プレイヤーがカメラ操作するため、ゲーム全体に統一感が出る
・また、プレイヤー視点で操作するため、あらゆる場面で、視点に関しての理不尽なストレスが軽減される
(プレイヤーの目線で見るので、画面上のプレイヤーと見えないものが殆どの場合一致していたり、そういう面で一体感がある)
・フィールドをプレイヤーの好きな場所から、眺め回すことが出来る、自由度が高い。制約がない(ように見える)

メリットといえば、実はこれぐらい。
とはいえ、3Dゲームでは、これだけのメリットが実は非常に大きくて、これを成立させるために乗り越えなければならないデメリットがかなりの負担となっている。

以下、デメリット
・ストレスのないカメラマン(視点操作)の制御プログラムを作らなければならない
・コントローラーにカメラ操作の機能を入れなければならないため、その分ボタンが必要になる。理想的なのはアナログスティックが2本というハードルの高さになる。
・マップデザインやモデリングをごまかせない。細部まで、大写しにして見られるので、手抜きできない
・どうやってもプレイアブルのカメラワークが味気なくなってしまう(常にプレイヤー中心の視点になるため)
・カメラ制御させるために、ストレスを与えないマップデザインが要求される

理想的なのは、何もない(柱すらもなく平坦な地面で構成された)大部屋、壁のない巨大な空間が広がる屋外。
なぜなら、壁や障害物に当たり判定をつけて、カメラとオブジェクトが重なり合わないように作られるため。

3Dゲーム黎明期は、カメラに衝突判定を付けないゲームが多かった。
衝突判定を付けず、カメラが壁や障害物を無視して距離をとった場合、プレイヤーはそれらに隠れてしまうことになる。
だから、プレイヤー手前のオブジェを消して表示していたゲームばかりだった。
ところが、この表示の仕方は間抜け極まりなく、カメラにも当たり判定を付けて表示するゲームが主流となった。

その文法で解釈すると、一番最初に書いた地形が理想的となる。
良くこのへんの壁際のカメラワークの悪さはコナミが特許をとってるせいだ!等と言われているが、
素直に透過処理すると、リアルなHDゲームも、あっという間に間抜けな絵面になって世界観が崩壊してしまうからである。

・意外とアクションゲームには不向き

上記の仕様のせいで、実は意外と敵や周囲の地形との距離感が掴みづらく、加えて、カメラ操作もしなければならないため、ACTゲームとの相性は良くない。
証拠として、距離感を取りやすくするためにロックオンシステムが苦肉の策として搭載されている。

まず、壁際での戦闘を避けるようなマップデザインが求められるし、アクションゲームてきに、平坦な地面で、大部屋ばかりで、巨大な空間のマップって言うのは、ゲーム的につまらないものになってしまう。
100%理想的なマップにしなくても、ゲームにはなるのだが、そのぶんプレイヤーへのストレスが蓄積されるため、そのさじかげんを取る必要がある。

これらの問題をクリアしているジャンルのゲームというと、ゲーム的に動的要素が少ない、RPG、MMORPGとの相性が良い。

ちなみにバイオハザード4などTPSタイプのゲームは、これら問題点を、ほぼプレイヤーとカメラ位置をくっつけた状態にすることで解決している。
だけど、性質的には殆どFPS化しているために、銃撃戦メインのゲーム以外では、あまり使える場面が少ない(使えてない)







後半はゲーマーじゃないとわかりづらい話になっているが、それでも、なるべくわかりやすく書いたつもりだがどうだろうか。

通して読んでみると、ゲームがポリゴン化したことで、弊害を多く抱えているという印象を持たれたかもしれない。

個人的にも、そう感じていることが多いが、それでも臨場感や迫力は、ポリゴンという技術を得たことで、圧倒的に表現力が上がったと感じている。
が、同時にゲーム開発で考えなければならないことなどが増えて、ハードルが格段に上がってしまったように思う。

素人の立場からの分析だから、どうやってもプロには劣ってしまうのだが、色んなゲームをやって、見ているところがどこかというのがこれらのお話から漠然と理解してもらえると良いと思う。

当然ながら、自分の中のすべてを文章化できているわけではないので、書き漏らしている部分も多くあると思っている。

評判が良いか、モチベが続けば、このシリーズは続きます。

小説の書き方についての考察 (5)

今回で一応最後。
書き漏らしたところとか、諸々書いて終わる。

考察(2)で、自分にとって理屈抜きに好きな作品を、できるだけ若いうちに見つけろと書いた。

この辺で、その考えはおかしいと突っ込まれたので、なぜかということをちゃんと触れる。

人間の価値観というのは、若い頃に触れたものや目の前で体験した出来事、行動によって形成されていく。
重要なのは、理屈抜きに好きな作品を見つけるとかそういうことじゃなくて、
小説やるんだったら、できるだけ若い時に、影響を受けたとか、そういう作品と巡りあっておくことであって、無いからダメだとか言う次元の話をしているわけではない。

沢山漫画なりなんなり見て知ってたら、それだけ物語のパターンを、知らず知らずに学習しているので、書き手になった時に、自分にとって心動かされたシーン、好きなシーン、印象的なシーン。
こういうものを、記憶の中から探しだして、ネタとして使うことが出来る。

で、好きな作品があれば、繰り返し見ているハズで、当然繰り返し見ていたら、それだけ強く頭が記憶している。
そしたら、アイディアのネタ出しにも有利に作用する。

なんだよパクリかって思われるかもしれないが、これが小説の書き手になるための努力の一つだと言う結論に至った。

もし、これを読んでいるあなたが、天才的頭脳を持っていて、知識のないところからまったく突拍子もないネタやアイディア、オリジナリティあふれるフレッシュなシナリオを生み出せる規格外の才能を持っている人種なら、こんな話は余興でしか無いだろう。今すぐその才能を発揮して成り上がればいいと思う。
こんな人材は世の中に実在しないと決めつけているわけではなくて、稀に1%程度の確率で、そういう人間は存在していると思っている(自分がそうだとは言ってない)。

クリエイターの有名な名言に、次のようなものがある。

「アニメを作りたいならアニメを見るな!」

これは、「ガンダム」を生み出した富野由悠季による発言。
自分は、ゲーム業界については堪能だが、アニメ業界はそれほど詳しくないので、どういう状況で富野由悠季がこの言葉を発したのかわからない。

ついでに言うと、怒られるかもしれないが、自分はどうしても「ガンダム」が楽しめず、この人自体、あまりいい印象を持ってなかった。
過激な発言ばかり先に目がつくので、好きになれなかったが、動画で本人を見た時に、どういう人間なのか、ガンダムで当てるまでどういう人生を送ってきたのか、知った今なら、共感できる人物の一人となった。

この発言の意図は、アニメを絶対見るなってことではないと思う。
アニメ一辺倒では作り手にはなれないよって言うことを言いたかったのではないかと思われる。
これは、自分の勝手な解釈であって、富野という人は、アニメで飯を食っていながら、客であるオタクを否定している奇特な人だ。

自分の作ってるアニメは10代向けのもので、20すぎになったら楽しめない、卒業すべきとまで言っている。

一連の富野発言を引用したのは、これは自分にも耳の痛い領域になるのだが、アニメだけに没頭して、人としての成長を止めて、思考停止することにたいして警笛を鳴らしているものだと勝手に思っている。
だから、その辺をちゃんとしていたら、20過ぎてアニメ楽しんでようが、構わないと本人もいうとおそらく思う。



話を脱線させたくないので、これ以上書かないが、自分の勝手な解釈では、アニメ以外のものにも視野を広げて、色々見聞を広めろってことだと勝手に思っている。

自分の結論としては、ゲーム作りたかったら、絶対に沢山ゲームを知っておくべきだと思っている。
これは、アニメにも、他の分野でも、当てはまる絶対の法則だと確信している。
だけど、それ以前に、外で友達と遊んだり、ゲーム以外のもの、何かしらのエンターテイメントに絶対に沢山触れているはずで、その過去の体験を入念に思い返して、その体験を元に、空想をふくらませてシナリオを書いていく。

なにもないところからアイディアなんて出てこないし、作れないわけで、そのためには、大人は口を酸っぱくして勉強しろと言う。
これには、机にかじりついて勉強するだけじゃなくて、色んな事をやって自分の世界のバリエーションを広げていくということを意味している。




考察(4)の中程で、正義と悪が存在しなければならないという話を軽く書いた。

誤解を招く書き方になっていたので、ここで掘り下げて改めて記述する。

人には、それぞれ立場というものがある。
わかりやすく言い換えると、何らかの組織に所属しているか、生まれ故郷など生い立ちがあり、何らかの境遇を経て、生きてきている。

高校なら、3年A組、B組
会社なら、営業部、経理部
ファンタジー世界なら、軍事国家、ファシズム蔓延する悪(っぽく見える)の帝国、平和主義の国、中立国

そういう集まりに、カテゴリーに、必ず所属していなければならない。
(無職とか専業主婦というのも、それ自体一つの立場と言える)

しかし、所属している組織の思想と、個人の思想が、必ずしも一致しているわけではない。
3年A組とB組は、仲が悪くても、組は違っても親友がいて、隠れて仲良くしていたり、
営業部と事業部、方針が違っても、共感できる人がいて、その狭間で仕事をしている主人公
ファンタジー世界のたとえなら、戦いを交えた後で、国は違えどお互いの目指す理想が同じであることに気づき、立場が違って、しがらみに縛られながら、理想を実現するために葛藤しながら生きていく等。

今書いたありきたりの凡例
心の葛藤を、多くの人に「気になる」「続きが読みたい」と想わせるように、魅力的に描いていくのが作家の仕事だ。

もう一つ、シナリオを進行させるためには、役割が必要。
シナリオの進行役、ボケ役、ツッコミ役、言い出しっぺの役、行動役、悪役、ゲームマスター(ご都合主義へ持っていくための調整役)
ちょっと一概に体系化出来ないが、ある一定の、ロールを作って、そのロールにキャラクターを当てはめていく。
これを固定化してる場合もあるし、いわゆる日常アニメ、ギャグアニメのように、ストーリーごとに変形させていることもある。

これについては、テレビのトーク番組などを参考にすると良い。
司会者がいて、クイズ番組ならパネラーがいて、レギュラーなら成績の良い人、中堅、いつも最下位の人が居る。
トーク番組なら、司会者が聞き手になって、ひな壇の出演者相手に話を広げていく。
ロケ番組とか見ててもそうだが、どんな番組でもロール(役割)が設定されていて、それに基づいて番組が進行する。




コメントで指摘して頂いてなるほどと思ったことなど幾つか。

考察(1)では、語彙の豊富さ、表現力はそんなに重要なのか?というお題で、話を書いた。

これに対していや、表現力はたしかに必要だよという意見を頂いた。

そう思って、自分なりに色々考えた。
まず、なぜ、自分が世間的なそういう一般的な考え、ハウツーで書かれていることに対して否定的になっているのか。

答えはやっぱり、一般的に想像されるような努力は間違っていると思ったからだ。
百科事典を開いて、使わない言葉を必死に覚える。果たしてそれが本当に身になっているのか
いや、期待通りの成果を上げるのか?という点について思うと、疑問をいだいてしまう。

自分は、文章を書くのは好きだが、活字離れを起こしている、矛盾した困った人間だ。
そこで視点を変えて、なぜ活字離れが起こっているのかということを分析してみた。

正確には、活字離れという現象は、本能的に、脳が“自分には不要だ”と思った部分を読むのが苦痛で読み飛ばしてしまう現象なのではないかという考えに至った。

少し話を戻すが、じゃあ表現力を培う、魅力的、個性的な文章を書くにはどうすればいいのかという問題になる。

これについては好みの問題が入ってくるため、一概に体系化することは出来ない。
自分の場合は、密度の濃い文章を好む傾向にあり、自分の書く文章もそうあるべきだと思っている。

読ませる文章を書くには、リズミカルで、軽快で、テンポの良いものが一番だと思う。

最も参考になるのは何かと思った時、「歌詞」が思いついた。
「歌詞」は、400字詰め原稿用紙2枚程度、僅か3,4分で朗読できてしまう分量の中に、魅力的なフレーズがいっぱい詰まっている。
思えば、自分が好きだと思った作品は、どれも台詞が簡潔で、短い台詞の中に心を動かすフレーズが盛り込まれている。
歌詞の中には色んな言葉があり、好きな歌を何回も聞いていれば、その中で使われている単語を自然と覚えていく。
「歌詞」は「台詞」を起こすためにとても参考になる表現の仕方がされているということがわかってきた。

1曲、たった1000文字に満たない中に、心境、心情、情景描写がコンパクトに刻まれている。

好きな歌を何度も聞き返すのは、苦痛にならないどころか、心地良い気分になるだろう。

どうしてもシナリオを書こうとすると冗長になりがちで、自分もそれを気にしており、何か良い参考になる物はないのかと悩んでいたが、「歌詞」的に叙述していくのはひとつの手だと考えた。




いよいよ最後の段落となる。

やったことがある人ならわかると思うが、小説を書くというのは本当にキツイ。
何がキツイって、書いてる時点ではなんにもならないことに労力を注いでいるために、とにかくモチベーションが出ないのだ。

時間を決めて書くとか、締め切りを設定するみたいに、自分を追い込むやり方も考えたが、とにかく、作業の取っ掛かりがつかめないと、どうしたって遊んじゃって、本当に困ってしまう。

小説を努力せずにサラサラ書けるような人間だと良かったのだが、自分は残念ながらそういう超人ではないし、頼れる人もいなかった。
そこでなんとか我流で、やり方を考えていった。

ここまで書いてきた考察シリーズの根底にある考えは、なるべく努力を必要とせずに書く方法だった。
つまりは、楽に書く方法をなんとか見出すためのハウツーだったわけだ。

普段、今ブログを更新しているようなノリで、なんとかサクサク小説を書いていきたい。
楽にやろう、楽にやろうと言う方法論を模索した。
そしたら最初に、ケータイ小説みたいに長文にはせず、簡素に表現していくってことだった。

そして、繰り返しになるが、ここまで書いてきたやり方は、自分にとっての方法論であって、
ボランティアで、小説の書き方を指南しているわけではない。

どちらかと言うと、自分に言い聞かせるために、自分のために、書き残しているに過ぎない。

それから、小説を書く上で重要なことを2点。

大勢の人に共感できることを書く
読んでもらえるような面白い文を書く

自分の手のうちを晒していいのかよ?!って話になるが、
小説の書き方を体系的に理論化しようとして、ここまで自分のロジックを書き上げてきた。

書いてる時点で何の成果も上がってない人間のハウツーなんて参考にする変わったやつは中々いないし、
やり方がわかったからって、すぐ成果を上げれると思っているなら、やれるものならやってみろってことだ。
やり方だけ理解したって、実作業が、すぐに実践できるわけがない。




あとがき

いま、ネットゲームを舞台にした、異世界トリップものが、凄い流行っており有象無象の勢いで作品が増え続けている。
自分自身、ネットゲーム初期を体験したこともあり、ネットゲームを題材にした小説を書こうなんて6,7年前から思っていた。

ところが、多くのネットゲームを題材にした小説は、ネットゲームである必然性がないものも少なくない。

自分がネットゲームを扱う場合は、絶対に“ネットゲーム”でなければならないと思い続けていた。
或いは、ネットゲームに縛られ続けて、実際のMMORPGとはかけ離れた設定が盛り込まれたりしているものが殆どだ。
自分はこれについても(いわゆる現実的にありえないチート設定など)、そういう非現実性が入ってくると、多くの人はワクワクしてくるから受けているんだろうが、自分はどちらかと言うと、しらけていってしまうのだった。

自分がネットゲームを取り扱う場合、現実性(なぜしらけるかというと説得力にかけてくるからだと思われる)、
そして、必然性、この2つを絶対にクリアしなければならないと思っている。

自分はとにかく、今は、手を動かすことが大事だと思っていて、複数の作品を平行して書いている典型的なダメ作家志望の状態になってしまっている。
作業が難航しているのは、こういった題材を扱おうとした時に、どうしても途中途中で作業が滞ってしまい、なかなか前に進まないからだ。

それからほんとうに最後。

書こうと思っていたことを思い出したからこのタイミングになるのだが、

つまらない話を面白く書く

作家志望にはとても重要な事だとコメントで頂いた。

例えば、オタク友達に誘われてカラオケに行ったら、アニソンばっかりだったという出来事があるとする。
この、要約するとなんの変哲もない出来事を、いかにふくらませて、面白くドラマティックに読ませるか?ってことが作家の仕事の究極だと言うわけだ。

だから、ブログで日記を作り続けるなんてことは、実は結構、重要な事で、何年も更新出来ているなら、それだけで誇れることだと胸を張っていいと自分は思っている。

他にも色々書きたいことはあるが、非常に長くなったので、このシリーズはひとところ終わる。

ゲーム会社に入ってゲームを作りたいけどどうしたらいいんだろう?って言う悩みについて個人的な意見

ゲームという媒体に、夢もロマンも無くなって久しい時代。
まだ、目をキラキラ輝かせて、ゲームクリエイターになりたい!!って言う若者がいることに、ちょっと感動している。

ネット見てたら、相談してる20代の若者がいて、案の定袋叩きにされてるし、結局「まず1本ゲーム作ってみろ!!」って言う予想通りの流れになっているところも、ブレない展開で笑ってしまった。

もし、自分が社会的に成功してて、(まあ今は絶対ゲーム会社に入ってゲームを作るって言う漫然とした気持ちはないのだけど)仮にゲーム会社に入ってて立場ある人間だったら、ちょっとネット上でアポ取って話した上でトライアル雇用みたいな形で入れてあげたくなる。

これが、1990年代を体験したいわゆるファミコン世代なら、こういう夢見る人が珍しくなかったから、そこまで感情移入しないけど。

昔、「スーパーマリオクラブ」って任天堂一社提供の番組があって、その子供向けの番組で、
「ゲームクリエイターになるにはどうしたらいいんですか?」って言う子供の質問に対して宮本茂がこう答えていた。

「とにかく遊ぶ。ゲームだけでなく、外で、色んな所で」

他のクリエイターでも、こういう受け答えをしている人がいるのだけど、自分的には、とにかくこれが一番だと思っている。
これは、そう言われて自分が当時思ったのが、実に漠然としてて、抽象的で、具体的にはどうすればいいのかってのが知りたいのに、「何を言ってるんだ・・・答えになってないじゃないか」と落胆したものだった。
だが、いい年齢になってきた今になると、この言葉の意味がよくわかってくる。

「ゲームを1本作って、ゲーム制作の苦労を味わう」ってアドバイスは、当たらずといえども遠からずという感じで、いわゆる荒療治というか、早道ではあるんだけど、困難を伴う、現実主義過ぎる答えだと感じる。

というのも、一人でゲーム作って当てられる才能と実力があるのなら、ゲーム会社という組織に入って群れながらゲームを作る必要性がない。だから同人でゲームを作るってアドバイスは的確ではあるんだけど、ちょっとズレてもいる。
もちろん、技術のない(学生時代に修得する機会がなかった)人で、自分のように、それでも漠然とゲーム屋に行きたかったみたいな難民は、見えていないだけで、大勢いると思っている。
そんなファミコン世代も、続々と高齢化して、夢半ばにして志を諦めて、かなり消えていったとは思う。

それで、自分的に、この手の悩みについての答えは、

「ゲームをやりまくる」

ってことしか、無いと思っている。

ただ遊ぶだけじゃなく、色んなジャンルの色んなゲームを、一般人には真似できないほど遊びつくす。
できれば、ゲームを終えた後に、感想を書いてレポートにまとめる作業もセットでやる。

ただ遊んでるだけじゃないか・・・という話になる。
だから最初に宮本茂のアドバイスを書いた。
もちろん、ゲームだけじゃなく、色々見識を深めるべきなんだけど、その一番優先事項として持ってくるのがゲームということだ。

自分がいいたいのは、これすら続かなかったらゲームを作るなんて作業がそもそも出来ない、続かない
1,2年程度で飽きちゃったり、苦痛で続けられなくなったら、その程度の熱意しかなかったということになる。
ゲーム代稼ぐために、やりたくないきついバイトしたり、そういう現実との折り合いも、試練の一つとして入っている。

敢えて、ゲーム作るために「遊びつづけろ」というのは、本当にその道に進みたいか確認する作業の一つの意味合いを含んでいる。

500本以上、1000本以上、ゲームをクリアするところまで触っていたら、嫌でもそのゲームの仕組みとか意図するところとか、色んな所が見えてくる。
まあ、効率は多少悪いが、その過程は、自分としては決して無駄に終わるとは思ってない。
そりゃ、使える資格を取るとか、そういうことに時間を使うことに比べると、社会的な価値とか生産性は薄く感じられるが、とにかくゲーム関係の仕事がしたいと漠然と思っているなら、これしかないと自分は思っている。

ゲームという商品が、ビジネス要素の強いものになってきて、
大量にゲームを触っているとわかるのだが、
そのゲームの出来が良くて面白い、逆に、出来が悪くてつまらない、というのを抜きにして、
ゲームを好きで作っているなっていうチームと、そうじゃないチームのゲーム

ってのが、なんとなく透けて見える時がある。

これだけ偉い講釈を垂れて置きながら、人生の失敗者で、ゲーム業界からは全然外様の立場で申し訳ないのだが、
外側の人間が、一万円の福沢諭吉を使って、ゲームを買って来る。

値段通り豪華で派手でよく出来てても、仕事でゲームを作ってるような、まさにやっつけ仕事的なゲームだった時は、はっきりいって、がっかりするし、楽しさを感じられない。
なんというか、こういう事務的ゲームよりも、本当にゲームが好きで好きで仕方ない奴が作ってるゲームのほうが好意的に見れる。

やっぱり、ゲーム制作で飯食ってる奴は、ゲームが誰よりも好きで愛しているやつであって欲しい。

その思いもこの考えの中に入っている。

いま抱えてる不満、つれづれと

荷物の仕分け仕事に口だけの女はいらねえ
重たい荷物は結局男任せ。口で指示するだけ。しかも人によっていうこと変わる
できないなら、やめちまえ。


車のでかい部品。表面には50kgの重量表示。
もう一つ。車のでかい部品。推定重量70kg以上。
一つのコンテナに動かすように支持される。
腰を痛めてつらい思いをして動かした後、別の女が来て、その重たい荷物を平気で別のコンテナに移せという。
死ぬ思いで動かしたら、また最初の女が戻ってきて、
元に戻してと言われる。
こんな職場いられるか


「安西くん、休み減らしていい?」
「ちょっとさ、この日人足りないから、休み、全部動かしていい?」
こんなのばかり。
こんな職場いられるか


人の揚げ足とったり、悪口平気で言う奴は、何もしてない人間より格下の人間。
これ、豆知識な。

安西爆弾の今後についてお知らせ

twitterは存在価値が無いため、1月末を持ってアカウント削除
動画配信サイトtwitchも、存在価値が無いため、このたび閉鎖いたしました。

今後、ゲームレビューのサイトも、近々活動を完全に停止し、締める予定です。

ブログに関しては保留。気が向いたら更新、といったことになると思います。

ネットから身を引くことなど、色々決意が固まってきています。

以上です。

ちょっと困ったことになっている

2月から深夜の宅急便仕分けのバイトに行っている。
といっても、一日たった3,4時間程度で、2ヶ月の契約だ。

夜からの仕事、そして、肉体労働。
慣れるだけで半月以上はかかった。
まだ1ヶ月経ったばかりで、今でも仕事が終わってから、腕と足がしびれる筋肉疲労に悩まされる状態が続いている。

今のバイトは、つなぎ程度で仕方なく行っていたのだが、
一緒に働いている人らが、やたら俺が日中なにしてるのか、仕事について異様に気にしてきて困っていた。
3回4回なら、そういう話題ふられても当たり前なのだが、もう毎日のように言われまくっていて対応するのに疲れていた。

嘘を付くのも嫌だし、正直に仕事に困ってるみたいな受け答えをしていた。
(そのおかげで、出勤日を猛烈に増やされ、休みが少ない状態で働いていたが、これは俺も金が欲しかったから別に悪いと思ってない)

そしたら、今の職場でパート社員になれば?って言われ、勝手に話を進められて、いま困っている。

パート社員と言っても、フルタイムじゃないし、時給が上がるわけでもない。
相変わらず、夜勤なのは変わらない。

メリットといえば、
バイトの立場だと2ヶ月以上連続して勤務できない規則なのだが、連続して勤務できるようになるだけ。

はっきり言って、今の職場を長く続けようとは思ってなかったし、バイト以上に深く関わる気はなかった。
現に、バイトとして働いていて「ここは長く働いていられないな」と思っている。
具体的にどこが気に入らないかとかいうことを挙げていくと、ちょっとぐらい我慢しろとか言う話になっていくから書かない。

口ではパート社員になっても仕事内容は変わらないし、ちょっと勤務時間が長くなるだけみたいに言われていたが、
仕事中に突然、面接だって呼ばれて話をすれば、長く勤められるかどうか聞かれるし、そういう人がほしいと言われた。

もちろん、俺だって自分の言い分は面接で伝えている。
今の職場の上司が、良く言ってくれたんだろうが、なにせ急な話で、勝手に話が進んでいたものだから、返答に困る、まだ決められない、というようなことを話した。

それでも、勝手に話が進められ、具体的に数日後からパート社員として働いてもらうみたいな流れに強制的に進められていて困っている。

これに対し、次の仕事のアテもなく、断る理由がないから返答に困っている。

要するに、嫌だけど嫌だと言えない状態に陥っていて、大変に困っているというわけである。

昼間どうしてんの?ここ3月で終わって4月からどうすんの?

そんなこと、心配してくれてるのはわかるが、毎日言われても、答えることが出来ない。

金と仕事に困っているから、やむなく働きに来ているだけであって、それを3日4日で簡単に解決出来るなら、こんなところそもそも来てない。

適当に嘘付くなり、今の上司のはからいを壊して、本音を言って断ってもいいのだが、
それをすると、二度とこの職場で働けなくなる。

綺麗に断って、“しばらくはバイトでいい”みたいな流れに持って行きたいのだが、なかなかいい案が思いつかず困っている。

自分でやりたいって意思を出していて困っているのなら自業自得だが、勝手に決められて行くことに今悩んでいるのだった。


思えば、新聞販売店にバイト上がりで入社するときもこんなかんじだった。
会社の社長が変わって、雲行きが怪しくなってきたから、新聞配達をやめて離れようと思ったら、上司の人に呼ばれて、

「今、これ募集してるから受けてみたら?」

って言われて、周りに流されるまま面接まで受けて、
当時から仕事に困っていた俺は、親や周りを安心させたいからって契約社員とか、金とかに釣られて入ってみたものの
行動を起こす前に感じてた、気乗りしない気持ちを引きずって、こんなはずじゃなかったとやめた。

過去の出来事を無理矢理重ねあわせるつもりはないが、本心では嫌だと思っているのに
また、周りの体裁を気にして、仕事を決めてしまっていいものかと思っている。

働きたくないとかいう次元の話じゃなくて、パート社員に一度なってしまったら
責任を追わなくちゃならないし、簡単に仕事を辞めることが当分の間、できなくなる。

そしたら、俺ももう歳だ。
ずっとこの、宅急便の仕分けの会社で頑張るしかなくなっていく。

それで困っているわけだ。

ゲームレビューの書き方について

もう数年前になるが、このブログでゲームレビューの書き方についての個人的見解を述べたので、もう無駄な労力使って書く気は起きないが。

一歩踏み込んだレビューの書き方

今、改めて読み返すと、脱線しまくりで、校正して再投稿したいと思うが、別に私の指南を参考にされているようでもないようなので、どうでもいい。

それではなぜ、このようなお題目なのかというと、他人が書いた「ゲームレビューの書き方」を目にすることがあって、
思う所あったからだ。

それはこちらとなる。

悪食流 誰でもできるゲームレビューの書き方。

私と違って、生活的というか、実践的な、頭に入りやすい内容で、素晴らしいと思うのだが、内容自体に賛成できる部分は少ない。

気になったところを引用しながら、感想を述べていく。

ゲームのレビューというのは読書感想文と一緒で、
遊ばなければ(読まなければ)書けない。
1ページも読んでいない本の感想を書けと言われても無理な話だろう。



本当にその通り。
ゲームレビューが他と違って、大変なのはこの労力が莫大にかかってくるところにある。
まあ、とりあえず見てりゃ勝手に映像が進んでいく映画だのアニメだのドラマだのに比べると圧倒的に大変だ。
自分で手を動かさないと先へは進まないのだから。

そしてこれが最も大変だと言えるのは、予定通りにゲームをクリアすることが著しく困難であること
映画なら2時間。アニメなら13話なら約5時間。と言った風に、時間の使い方を計算して、予定を組むことができるが、
ゲームの場合、予め予定を組み立てても、早く終わることは極めて稀で、たいていは予定をオーバーしてしまうことが多い。
仮にプロとしてゲームレビュアーやるとした場合、とてもキツくて無理だ!と思わせる原因が実はここにある。
締め切りが設定されていて、追われるようにゲームをプレイしながら、冷静にレビュー記事を執筆するなんて、とてもじゃないが出来る気がしない。

他の媒体は見てるだけで、感想を書く権利はとりあえず得られるが、レビューの質は、その視聴時間でどこと何を見てるかという点で力量が大きく変動し、読む価値のあるレビューかどうかの分かれ目となるが。

出来ることなら遊びながら気になった部分をメモに残していくと良い。



これ、スゲエ重要。
プロの、ファミ通のライターも、メモを取りながらプレイしてると言っているのを読んだことがある。

だが、自分は、レビュー書くために、これまで一度も、メモを取ったことはない。
ポイントポイントを頭で抑えておいて、それを忘れないようにする。

でも、メモしたほうがいいと思う。

というのも、プレイ開始1時間時点での印象ってのが、ゲームレビューでは極めて大事で、
なんか画面の切替が長く感じるとか、コマンド入力が引っかかるとか、そういう手触り。

あと、アクションゲームとかなら、操作感覚。なんか癖があるとか、そういう部分。

クリア時、30時間付き合ったゲームだと、今書いた細かい部分に慣れきってしまい、
一番重要な、やり始めた頃の印象を忘れてしまう。

この辺りを覚えておかなければならないから、メモが重要だと思って、おそらくこの人も強調しているのだと思われる。

全てのゲームはコンセプトに基づいて作られている。
ゲームの設計図の根幹とも言えるのがこのゲームコンセプトで、
そこには当然「プレイヤーに感じてほしい楽しさ」が詰まっている。



これは、ゲーム以外でも言えることなのだが、レビュアーやる上で、根本とも言える要素。

この部分を理解した上で、気になった部分を書いていく。

シリーズ物の、最新作を、過去作を飛ばして、いきなりプレイしても、そのコンセプトを理解しづらいから
発売順から順番にプレイしたり、ジャンルの系譜をそれとなく頭に入れた上でゲームをプレイしていないと、
これを感じ取るのがほんとうに難しい。

レビューを書くのに必要なプレイ時間はレビュー内容によるが、
3~10時間ぐらいが適当だと思われる。
もちろんクリアレビューを書くならプレイ時間に関係なくクリアしてから
レビューを書く必要があるが、
内容と感想を書くだけなら8時間程度で問題ない。
ただし、8時間遊んでもコンセプトを掴みきれない場合はもっとプレイしたほうがいいと思うが。



概ね、共感的な内容だが、この部分だけはどうしても賛成しかねるところだった。
筆者は、ゲームレビューの敷居を下げるために、敢えてこう書いたのだと思われる。

基本的に、ゲームクリアと言われている部分までプレイしていることが前提。

まあ本当なら製作者が用意した全てのコンテンツを体験して、その証となるフルコンプリートまでやってるのが望ましいだろうが
エンドクレジット見るぐらいまでやった上でなら、読み手の大方が納得できるだろう、ってところが、ここだからだ。

あと、敢えてこの時点に設定しているのは、フルコンプリートまでやってしまうと、またそのゲームに対する感覚が変わってきてしまうので、中間的な立場として、ひとしきりのエンディングで終わっておくのがちょうどいいと思っている。

どのレビューにおいても書き方の基本みたいなものはある。
よって、簡単に説明しよう。

レビューに必要なのは
「ゲーム内容紹介」
「そのゲームの特徴・問題点」
「個人的感想」
の3つ。



後半は、完全にハウツーになってるので、引用はこれぐらいで。

まあ、ガッコの先生が、ゲームレビューの書き方を教えるって路線なら、こんな内容になるだろうなって感想。

この3つの要素を、バランスよく書いてれば、面白いゲームレビューになるかっていうと、そうでもないって言うのが経験則。

あと、ダメな例みたいな話があるが、結局読者を増やす、或いは、読者から嫌われないためのやり方になっていて、
それが、必ずしも、ゲームレビューの書き方として正しいかっていうと、またちょっと無難になってしまっているところがある。

個人的には、袋叩きにされてしまうような尖った文章を書けなければ、面白いレビューにはならないと思っている。

だから、今回取り上げたブログでは、ダメだと書かれているが、
やっぱり最終的には、個人的異見を全面的に出していくスタイルが、最高峰だと思っている。

プロが、専業で飯を食っていくなら留意しなければならないことはあるが、
素人が、アマチュアが、ネットで無料で読めるゴミみたいな扱いをされているところで、芸を披露するのだから
蹴っ飛ばされるぐらいでちょうどいい。

結局、レビューってのは、好きな人でないと続かないもので。
どうしても、続かない、苦痛だっていうのなら、それは、好きではないものってことだと思われる。
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