貧乏人生から何とか卒業したかった…

普通に就職して働いて
そんな当たり前のことがどうして俺は出来なかったんだろうといつも悩む

まあ俺の性格上、それはそれで満足できずに、どうしても雲をつかむような夢を追い求めようとするのだろうが

例えば今みたいに

しかし、社会に敷かれたレールの上を走っていたら、少なくとももっと地に足の着いた
建設的で他人からも理解されるような行動を取っていただろうと思う。

「なぜ新聞販売店をやめたんだ」

俺は今日、行った精神病院の先生に言われた。
なぜって言われても、嫌になって続けられなくなったからやめたとしか言えなかった

というか、10年通ってる、この精神病院の先生にも今の俺は見放されてますからね

金払って診察してもらって、不愉快になって帰ってくるってどういうことだっていつも頭にきてる
母親の方は、去年訳あってこの病院に行ったことがあるのだが、

「あんたはあの病院に合ってない。患者はジジババばかりで、どうみたって不釣り合いだ」
と言われているが、今になって俺はあの病院の先生とそりが合わない事を実感している

10年経っても定職つけなくて、挙句、最近は発達障害とか障害の線を疑いだしてそれのせいにしようとして言い合った(少し前に)
そういうのをみて、あきれ果てたんだろうな
オレはオレで、怠けるとかじゃなくて本気でそういう路線を考えていただけなのだが

最近までその意見に肯定してなかったのは、この病院もそもそも別の病院の先生に紹介してもらって通院し始めたからだ
そう簡単に、合わない合わないで、自分に都合が悪いとなかったコトにして次の病院に行こうとするのはやりたくなかったのだった

まあ10年
色々ありましたよ

あまり言ってこなかったが、接客業のバイトはたくさん受けたが全部全滅した

そんなに落ちるか!?ってぐらい落とされた

イオン
ゲオ
ヤマダ電機(契社)
シネコン(2回)
ホーマック(2回)
スーパーデンコードー

これで、全部。
多分

30前にして、慌てて受けたとかじゃなくて、20から25の間に受けたバイト

何がいけないんだと、何回もため息が出た。

そして俺は、こういう店員のバイトとかは、出来ない人間なんだと若かりし頃痛感したものだった

親からは
「働きたくないもんだから、わざと落ちに行ってる!!」
なんて怒鳴られたもんよ

まあ、肉親だろうが他人からしてみたら、これだけ落ちまくってたらそう取られても仕方ないわなと

一回一回を真剣に受けてこれだから困っている

それで、去年、2013年
色々受けたけどやっぱり全部ダメで。

まあ、アレだね
履歴書送り返してくるときに、折り曲げて小さい封筒に入れて返してくるような会社は、こっちからお断りだね

求職者を何様だとおもってんだと

下に見てんのか貴様は

沢山受けてたらこんな風に見えてくるから。自然に。

書類審査だけで顔も見ないで落とす会社もむかつくけど、履歴書折り曲げないで返してくる定形外郵便で金かけてる会社はちゃんとしてるんだな畜生ってぐらい思うし。

あまりに無礼な会社があっていまだに忘れてません

あれは2013年夏のことだった

会って、履歴書30秒で見てすぐ、さんざん俺のディスりが始まるわけですよ

「ずっと市役所の臨時職員で働いてれば?」

「親父に、家族に迷惑かけて恥ずかしくないのか!!」

30過ぎてからの、
職歴ろくにない人間への風当たりの強さを感じるが、にしてもやり過ぎだろお前

途中でブチ切れて帰ろうと思った
ていうか帰ったほうが良かった
圧迫面接とかそんな芸達者なこと出来るとこじゃない零細企業
俺自身、この会社の中に入ってみて、場違いすぎて失敗したと思ったぐらいだ

人間プライド捨てたら、へなちょこになって何も無くなりますからね

未だにWindowsXP使ってるようなヘボいクソ会社に突っ込まれたくないですねホント

履歴書戻してくるとき、めちゃくちゃ小さい封筒で、無理矢理履歴書折り曲げて突っ込んで送り返してきやがった
あんなに礼儀のない会社は初めてだった…

新卒カードの頃から、俺への風当たりは強かった
こんな、求職者を脅してふるいにかけるような会社ばかりだった

そしたら、俺の中で、

「自分で何かやっていかないとこれは無理だな」

と薄々思い始める

ま、
それが、「ゲームばかりやってるゲス野郎」
とか、今になって馬鹿にされて石投げられてもしょうがないことをやりだしてた

まあでも、何か一つ決めたことを10年やり通したんだから、そこは自己評価すべきだと勝手に思ってる
社会ではなんにも評価されないから、死ぬしか無いなと思っているわけだが

何回、入社試験と、適性試験をやったことか…
もう合同企業説明会で手当たり次第応募したとこまでは、全部覚えてない

最近は、最賃の契約社員の採用面接でも、社長が出てきて、PCテストがあって(IT系なので)
面接の時に、3対1で、

「自己アピールを3分間やってください」

というハードルの高さ

俺はおしゃべりだから、余裕で3分を超えて、海坊主の社長から「もういいよ」と遮られるほど必死にアピールしたが!!

落ちた

2013年冬のことだった…

そして最後
2014年初頭
車屋の洗車係のバイト
さすがにこれは受かるだろうと、丁寧に書類を作って俺は送付した

翌日電話が来て

「いやあ、貴方みたいな素晴らしい人はここには勿体無いです」

とか何とか言われて落とされた

そして、やむなくクロネコヤマトのバイトに行く

どんだけ運命はクロネコヤマトで働かせたがってるんだと

こういうことが積み重なって、俺は、社会の常識につき従うことが嫌になった

ま、その結果が、このザマよ

俺の、この10年の対応が、適切ではなかったことは認めざるをえない
10年もあれば、もっと建設的な行動や対応をとれてたはずだ

だが、俺は数々の挫折を踏み越えて、いきたいとお思わなくなったのだ

ぎゃくに、俺がやりたいと思っていることをとことんやってやりたいと思った

楽してゲームをやって生きていきたいだけ
→ま、そうでしょうね
でも、自分の人生、
たった一度だけの人生、わざわざ社会のルールに嫌々したがって、苦労する路線に入り込むことこそナンセンスだと俺はホンキで思ってる
30過ぎた親父の人生論かって感じだが
普通、好きなことやるために生きるんじゃないの?
俺はゲームばかりやってるとはいったって、そのゲームはほとんど自分で稼いだ金で買ってるし、
欲しい物を買うために、やりたくないバイトだって我慢してやっていた
ちげえよ、生きるために働くんだよってのだってわかってる
そこでつまづいて、どうにもならなくなった時、それが今の俺だ
なんか、そうやって人生を俯瞰的に見た時、やるせない気持ちになっても、仕事があって収入を得てたらそれでいいじゃないのか?
その現状を、流されるまま生きるか、納得がいかないから捨てるて別のことをするか決めるのが人生じゃないのか?

俺はそう思ってる

具体的に努力もしてないで結局何をしたいんだ、ただ遊びたいだけじゃないのか
→確かにブログだけ見たら、俺は(30過ぎてのたまうことじゃないが)ゲーム会社入ってゲーム作りたいのか
その辺の目標が曖昧で、目に見えて目標へ向かって行動してないのはあるでしょうね

はっきりいって、いまの俺の最大のなやまはそこであって。

何度も書き続けてるが、俺は本気で、結果がでなかろうが小説を完成させたいと思ってる
それすらも、うまく事が進まないからグダってて悩んでるわけで
この辺が円滑に進んでたら、はっきり言って俺は悩んでませんね
目的と目標があって、それに日々近づいている実感があれば、それが何よりの喜びになる

会社に雇われるに固執せずに、当面は何かしら活動するための生きるための収入源が欲しいですよ本当に
そういうことも考えなければならないから、はかどらないわけで。

正直もうブログに書くことなんてなくて、でも伝えたことをなんとかひねりだして書いている
だから理解してもらえない、もらいにくい内容になっているだろう

今の俺の抱えてる心の葛藤やどうしたいのかという問題
それをなんとか伝えるために一生懸命書いた

それすらも最近は無駄だと思い始めて、ブログから離れ始めているが

後はもう、最後のたびにでなければならないことだ
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クドカンの新作ドラマごめんね青春がヤバくて面白すぎた

俺が一番凄いなと思っているドラマ脚本家がクドカンこと宮藤官九郎
とはいえ、接点はあまりなく、タイガー&ドラゴンぐらいしかまともに見たことがないのだが。

他にも好きで尊敬している作家はいるが、クドカンの何が凄いって引き出しの多さ

去年NHK朝ドラのあまちゃんが話題になったが、俺は作業所に働きに行ってたし、見ることが出来なかった。

若者向けドラマで成功しつつ、年配の主婦相手にNHK朝ドラも成功させるってのは中々出来ないことだ

どんなに面白いドラマを書ける脚本家がいても、大体得意分野があって、その成功体験から抜けることが出来ない。

クドカンのドラマをまともに見るのは久々なのだが、とにかく情報量の密度の濃さ
たった1シーンの台詞の掛け合い一つとっても、細かいところに誰が気づくんだっていうほどの小ネタを仕込んでくる

ごめんね青春は、最初こそ、登場人物の顔合わせと、世界観の説明で30分以上、何が何やらわからないシーンが延々と続くとんでもない暴挙に出ているが、クライマックスに入ってくると、一気に重く確信に迫る展開に入ってくる。

それでいてシリアスでありながらも、必ず笑いを忘れずにいれてくる。

あまちゃんでも相当すごかったらしいが、とにかくタイガー&ドラゴンとは比べ物にならないぐらい実力が上がっていて、
見てて何度ものめり込んでいった。

俺は普段ゲームゲームばかりの典型的なクズオタクだが、テレビドラマへの感心も非常に強かったりする
最近は自分の好みのドラマがめっきりなくなりみることがなくなったが、このドラマは久々にヒットした

関心したシーンは山ほどあって、それを一つ一ついちいち書けるような分量じゃない。
人によっては、ドラマとして脚本として、わざと王道を外してくる、決まり事を外してくることを平気でやってくるから
そういう伝統を大事にする人には好きになれない作風だと思うが、俺にとっては全然あり。

台詞回しというか単語が、若々しくて、古臭い文化になるつつあるテレビの連続ドラマの枠組みの中では新鮮に映る
LINEやツイッターだのそんな今時のツールが、わざとらしくなく普通に出てきたり
生徒手帳をわざわざiPadのカメラで撮影して見せたり、「普通そんなことするか!?」みたいなことが面白い。

過去の回想シーンだと、ちゃんと昔のケータイが出てきて、着信音とかも単音だったりケータイのロゴがJ-PHONE(ソフトバンクの前身)になってたり、そういうところのこだわりがちゃんとしてていい。

とにかく、凄まじい内容の濃さとテンポの早いドラマで、普段ドラマなんて見ない人(ゲーム、アニメがホームグラウンドの人)に、ぜひともオススメしたいドラマだ。

メタっぽい軽いところも多いのでチャラい雰囲気が強めで、好き嫌いは出ると思うが、間違いなく面白い。

これを踏まえて、今俺が考えてたどうしても完成したい小説、とかそういうことも書きたいが、
今このブログにそれほど力を注ぐ気が失せてきたら今日は適当に乱文を書いて終わる

2004-2014 ゲームレビューサイトを運用した10年間を振り返る #2

こうやって2ページ目を作ったが、実のところ、ゲームレビュー運用を振り返ると言っても、当たり前のことながらゲームばかりやっている話しかないので、書くことなんてない。
漠然と書きたいと思っていることはあっても、ぼんやりとしているだけで、具体的な展開が思い浮かばないのだ。
というか俺以外の人にとって、ゲームレビューとかゲームに対する考え方を書いた所で、大半の人間がどうでもいいことであって、それを時間を掛けてわざわざ文章にする意味があるのかと言うところで心の葛藤が生まれている。




前回のエントリで、元々俺はヌルゲーマーで、攻略とか普通に見ながら進めるような人間だという話を書いた。
それに加えて、コンプリート欲が強くて、無駄なやりこみ要素に徹底して時間を使うような人間だった。

あまりにも完璧主義者で、くだらないことに途方も無い労力を昔は使っていた。
例えば、FF7で全員LV99、マスターマテリア全種全員分作成、ドーピングアイテム集めまくって全キャラ全ステータス255とか、そこまで極めようとする人間だった(全ステータスマックスはさすがに断念した)。

DQ3(SFC)で、4キャラ、全特技取得、全アイテムコンプ、LV99をやったりもした(2011年にデータが消えやがった)
DQ4(PS1)でもやったし、DQ7(PS1)でもやろうとしたが、メタル狩りと熟練度上げがだるすぎて途中でやめた

今もこの辺は、自制しないと、PSのトロフィーコンプとか、そういうの際限なく手をつけていく人間である。
キリがないので、クリアしたらそのゲームは終わりというふうに決めている(まだ遊びたいと思っても基本的には辞める)。

ゲームレビューをはじめてから、攻略見ながらゲームをすることをやめた。
後はクリアしたらそのゲームは辞めて、別のゲームへと移るようにした。
2004年当時は、やりこみ要素は無駄なものと言う傾向が強く、今みたいに定着していなかった。
(トロフィーとかアチーブみたいな機能は当然なかったし、やりこんだデータを自慢するみたいな文化は少数派だった)

この頃のやりこみ要素というと、もっぱら、今で言う縛りプレイやタイムアタック、リアルタイムアタック、お馬鹿プレイを意味していた。
逆に、データをコンプリートするとかカンストさせる、今の時代で言うやりこみ要素は、馬鹿がやるものという意味合いがあった
(断っておくと、少数でも、好きなゲームをやりこんでデータフルコンプを目指す人プレイスタイルはあった)


2004年から、攻略を見ないで自力でクリアするようにしていったら、ゲームが面白くなっていった。
自分で試行錯誤して進め方を探したり、探索して隠しアイテムを発見する。これが楽しかった。

ドラクエの話ばかりで申し訳ないが、ちょうど2004年11月にはドラクエ8がでた。
想定レベルより低いレベルで先へ進めると戦歴画面でトロデ王が「低レベルでボスを倒したって何も出ないぞ」みたいなことを言ってくる。

意識してなかったが、今の俺は低レベルで無理矢理進めようとしてたんだということに気づく。
(思い返すと、DQ8自体、そのメッセージが出やすい作りだったのだろうがそこまでのあざとさに気づかなかったわけだ)



そうやって、自力でクリアまで到達した時点で思ったことをコメントするのが、俺のやってきたゲームレビューのやり方だった。
自力でやるというのは、先入観をなくすために、未プレイのゲームに対する情報収集も避けることも含まれている。

2005年とかそれぐらいの時期にはまだなかったが、他人のゲームプレイ動画も見ないようにするし、他人のレビューも読まない(レビュー済みのゲームなどは読む)
世間の評判とかそういうのも、よほど社会現象で嫌でも目に付くようなものじゃなければ、基本的には見ない。
自分がプレイするときには、出来る限り新鮮な状態にしておきたいから、紹介記事とかも極力見ない。

ある種ここまで尖ったゲームレビューのやり方をしていたから、クリアまでプレイ済みであっても、情報収集不足で、間違ったことを書いてしまったり、踏み込みが甘いところがあったり、どうしてもそういう部分が出てきてしまう。
(幾つか痛恨のミスがあったのだが、すぐ思いつくのがスターオーシャン4で、ディスク入れ替えの問題は、俺のプレイスタイルでは一切確認できなかった)

自分の感性だけに頼ってコメントするというやり方をどうしても貫き通したかった。
俺のやっていることに対してクライアントがいるわけでもないし、金とか立場、損得勘定が一切入らない場所である。
そういう場所でやれることを突き詰めてやっていったのがあのゲームレビューのホームページだ。

例えばの話になるが、知り合いや顔見知りがゲーム作っていて、そのゲームをレビューするとなったら、
仮にゲーム自体に苦言を言いたいところがあっても、絶対本音を書けないだろうと思う。
俺の同級生がゲーム会社でゲームを作っているが、同窓会でそのゲームをもし紹介されたら、それを悪く言うなんてなかなか出来ない。





こんな極端なやり方をしていたから、はっきりいって叩かれることのほうが多かった。
まず、このやり方で一番気をつけなくてはならないのは、プレイヤー本人がある程度ゲームが上手でなくてはならないということだ。

ゲームレビューを始めるまで、激ヌルのゆとりゲーマーだった俺としては、初期の2,3年は、ゲームが下手くそで、難しめのゲームにもれなくキツ目のコメントをしているのが、今となっては悔やまれるところだ。
時間と機会があればぜひ直したいと思っていた。

それと、RPGばかりプレイしてて、PS2以降、三國無双など3Dアクションを全然プレイしてないので、研究不足っぷりが目立っていたのも苦しかった。

個人的には、レトロゲームが好みというか、平面処理のスプライトメインのゲーム機が好みだったため、ポリゴン主体の時代のゲームにあまり興味を持ってなかったのが痛かった。

テイルズシリーズとか、なんであんなにキツイ書き方をしているのか、今思うと結構恥ずかしいところだ。
デスティニー2の敷居の高さは今も評価は揺るがないが、テイルズオブリバースなんかは結構楽しんでたと思うのだが。
当時の俺はアクションがヘタクソで、特に3Dタイプのアクションが苦手で、ドラッグオンドラグーンとかキングダムーハツーごときでヌルめのアクションですら苦しんでいたから、俺が気持ちよくクリアできないみたいな言い方をしていて、改めて読み返すと直したくなる。

ゲームが下手だと、難しいゲームを避けたくなるし、やってみても、うまくいかなくて、冷静にゲームを見れなくなる。
これは俺が、初期の頃自分で味わったからこそ、そう感じているのである。

レビュアーはゲームが上手でなくてはならないとまでは言わないが、普通の人より少しぐらい場馴れしてるぐらいでないと、叩かれる対象になる。



クリアした時点でコメント(レビュー)を書くというスタンスだったが、もはや今の時代では、そのやり方は通用しないように思い始めていた。

今のゲームはクリアして終わりという概念が絶対ではなくなってきている。
古いゲームだとポケモンなんかエンディング時点で終わりというとちょっと違うゲームだし(俺は便宜上そこを最後としたが)
昔は、ゲームをコンプリートする(すべてのコンテンツを遊びきる)というスタイル自体が確立してなかった。

いわゆる当時のゲーマーに言わせると、不毛な作業をやって何が楽しいだ?的な
勿論ゲームの方でも、やりこみ自体が浸透してなくて、十分な面白さを提供できていなかった。だから水増しと言われていた。

今は、プレステ系だとトロフィーをコンプするとか、そういう遊び方が標準とまではいわないが、そこまでやって初めてゲームクリアしたと言えるような感じになってきている。

2013年の秋ごろからPCエンジンのゲームをやりだしたが、本体メモリ(セーブ領域)が少ないこともあって、クリアしたゲームは、別のゲームで使うために、躊躇なくデータ削除していた。
ゲームのセーブデータなんてのは、クリアまでの補助機能みたいなもので、クリア直前のデータを残しておいたってあまり意味が無いからだ。

こういう考え方が、今は通用しないように思っている。
サエーブデータを破損しないように、サーバーにアップロードしてまで保存するというプレステネットワークには、今やそんなサービスまである。

ゲームに対する考え方が大きく変わってきたように思う。

他にもゲームレビューのやり方で細かい決め事があったのだが、
・シリーズや関連作は一作目から必ず順番いプレイする
・ゲームジャンルを公平な目で見るために、古い作品から体系立てて見ていく

そんなへんてこな決まり事を色々定めながらやっていた。



それとこれまで俺は、俺のゲームレビューは人に見せるためにやってるんじゃなくて自分のためにやってるみたいな言い訳がましいことを言い続けていた。

しかしやはり、こうやって予防線を張るのではなくて、価値は読み手が決めるものだと今年になって実感した。

こういうものは、支持者がいてなんぼなのである
ありきたりなレビューだなと俺が思っても、そこに読者や支持者が沢山ついていれば、価値のあるものとなっている。

俺はこのへんの考え方が甘かったように思う。

じゃあ支持されるように努力しなかったのか?というと、最初に書いたように、俺は自分のやりたいようにやりたかったから
こびるのは絶対嫌だった。

仮にこの10年のどこかで、結果を求めて読者に媚びようと方針転換したら、今の俺はなかったと思う。
成長したかどうかはわからないが、ストイックにやり続けた結果の今の俺と、成果を求めて媚びていった俺では全く違うものになっていったと思う。



2007年4月に俺は、ゲーム配信を始めた。
最初の数回はびっくりするほど見る人がいなかったが、ある日を境に夜中の2時3時に100人を超える人が見に来て盛り上がるゲーム配信ができるようになった。

俺はこの時、ゲームレビュー開始から3年が過ぎたこの時、
ゲーム配信があまりに面白かったために、ゲームレビューをやめようと何度も思った。

御存知の通り、ゲームレビュー続けてたって文句言われるばかりだし、閲覧者が沢山いたわけでもない
お察し状態の有様だ。

そんなものを意固地に持ち続けるより、ゲームやりながらみんなで楽しく盛り上がる動画配信をしている方がずっと建設的で有意義だと思い始めていた。

この時もまだフリーターで実家ぐらしだったから、親が寝静まる夜中の1時過ぎとかにならないと動画配信はやれずつらい生活だった。
それでも週2,3回は完徹してゲーム配信をやって楽しんでいた。

俺自身、根暗で暗い人間だったから、俺の配信で人が集まってきて盛り上がるなんてことがあるとは思わなかった。

しかし、こんな成果のあった動画配信も、俺は最終的に手放してしまった。

まあもう動画配信を今更戻ってきてやった所で、競争率の凄まじく高い世界で俺はやっていける自信はない。
だからやるつもりもない。



最後になる。

ゲームレビューのページを見せて、ライターの仕事の誘いなんかも頂いたが、なんだかんだいって全部ダメになった。

前にちらっと書いたが、欲しがる人が誰もいなかろうと、俺は自分のゲームレビューのページを記念に自費出版で書籍化したいとか言う夢を諦めてない。

本屋で売りだすとかそういうんじゃなくて、単純に記念に製本して自分の手元に置くという意味だ。

まああとは、このまんまただ野垂れ死ぬか、その前に、色んな所に手当たり次第、ゲームレビューのページとこのブログを送りつけて、自分を売名することを考えてる

どうせ、もう失うものは何もない身だ。
最後に暴れるだけ暴れて消えていこうと思っている。

もう俺の貯金は40万を切った
9月末で終わった寿命
まだ生き続けることはできるが、ここらへんが潮時だと思っている
貯金が0になるまでは生きれるだろうが、自分が定めた締め切りを優先すべきだと考えている

2004-2014 ゲームレビューサイトを運用した10年間を振り返る

2004年4月からはじめ、2014年4月で終了したゲームレビューのHP。
運用してきた10年間の歴史を思い出して行きたい

その前にまず、俺のゲームの買い方とか価値観的な話を書く。
俺のゲームの買い方というのは非常に義理堅くて、特にスクウェアソフトのゲームは発売日に全部買っていた。
後は独立直後から注目してたトライエースのゲームも。
面白そうなものをホイホイ買うのではなく、作っている人に興味があった。

これは特別、俺だけではないと思っているが、
高校に入ってからは学校やバイトで忙しくなり、ゲーム以外のことにも興味を持ち始めたため、
ゲームを馬鹿みたいにクリアまでやり込むというよりは、どういうふうに動かしているのか?という技術的なところへの興味が強かった。
だから、発売日に買ってきてもクリアまで一心不乱に夢中になるというより、ロードのシークタイムとかテクスチャの貼り方
そういうのを間近で見れればいい程度のプレイスタイルで、熱心にゲーム自体をやることは減っていた。

中学時代、俺をいじめてきた友達もそんな感じだったし、別に特別なことだとは思ってない。
ただその友達はソニー信者過ぎるところがあって、ものを公平に見れてないところがあったが。
その友達はナムコのゲームに目がなくて、やたらナムコゲーを買いあさっていた。

ちょうど西暦に直すと1997年-2000年といったところだ。
PS1の全盛期で、コンシューマ機自体が技術の頂点にあった時代だから、別に珍しいことじゃない。

中学校時代ほど、力入れてゲームやる余力も無かったから、雑誌の攻略ページや攻略本見ながら、クリアするみたいな完璧なヌルゲーマーだった。

スクウェアのゲームを全部買っていたという理由を合理的に説明しろと言われても、未だに自分でもよくわかっていない。
行為自体は信者そのものだが、信仰心が強かったわけでもないし、
どちらかと言うと、ゲーム自体の質は、当時は任天堂が圧倒的に上だと思ってたから、純粋に欲しいと思っていたゲームも64のゲームに集中してた。
ただ、64のゲームは高かったから、中々手を出しづらいところがあった(PS1の相場が5800円で、64が6800円で1000円高かった)

SFC時代のスクウェアは最強のRPG屋だったからかもしれない。
FF6の映像と見せ方に感動し、ライブアライブのストーリーテリングに酔狂した。
フロントミッション、クロノトリガー、聖剣伝説3、ロマサガ3、と出すもの出すものが百発百中という感じだった
(その後のバハムートラグーンやガンハザードなどからガクッと質が落ちるのだが)

スクウェアがPS1に参入してから、今では信じられないだろうがマニアを中心に途端に評判が悪くなった。
任天堂信者が暴れてたとかじゃなくて、PS1時代に入ってから、会社の規模を急拡大し始めて、色んな事に手を出したことで、『文句を言われるような隙のある製品』が増えてきたからだ。

FFTなんて、クエストからチームを引きぬいた!とかで偉い言われようだった。
後にチョコボの不思議なダンジョンを出したことで、他社のゲームを平気でパクる最低企業とか言われてた。

今でこそ名作扱いされているが、サガフロンティアの1と2も不評の嵐だった。
1は『フリーシナリオじゃないサガはサガと名乗るな!』と前評判が悪く、内臓フォントの色付きテキストが安っぽく見えたのか、つまんなそうとか平気で言われてた(本屋のゲーム雑誌コーナーにて)。
2も2で、『イトケンのBGMじゃない!!』とか、ロード長い、ストーリー重視がサガっぽくないとか、さんざん叩かれていた。

クロノクロスも名作を汚すな!!とか発売前から凄い言われようだった。

まあ、それでもPS1のスクウェアといえるほど、質の高い時代だったと思う。
8割以上のタイトルが有名で、今挙げたゲームも大半が名作扱いを受けている。

UIがいいっていうよりも、ゲームを面白そうに見せる絵作りがうまかった。
だからそれに騙されて買うというか、釣られて買ったら好みの内容じゃなくて「売り逃げ企業」とか言われるのだが。

例えば、1997年当時、まだ少なかったフルポリゴンのフィールドとスプライトキャラのRPG。
有名所だと「ゼノギアス」と「ブレスオブファイア3」それと、「グランディア」があった。
「ブレス3」は自分でプレーしたことがないので省くとして、
「グランディア」は、ゲームアーツの大作RPGで、スプライトのドットやマップのテクスチャーなんかがすごく丁寧に作りこまれていた。
しかし、テキストのフォントが実にゲームっぽくてダサくていかにもゲーム好き向けの「セガサターン」みたいな空気を出してた(好きな人には申し訳ない物言いだが)
戦闘シーンも面白いが、ごちゃついてて小さい文字フォントが潰れてたり、まあゲームが面白いつまらないは別としてそういうところが弱かった。

「ゼノギアス」はこの辺の絵作りがうまかった。
メッセージフォントは白抜きの青縁取りで横に顔グラをつけていて見栄えがよく、陳腐にうつりがちな半透明ウィンドウを綺麗に料理していた。

たかがゲームのフォントデザインだの画面設計に細かいことをごちゃごちゃ言うなって話だが、
結局ゲームを買う、興味をもつきっかけになるのは、雑誌やサイトで見れるゲーム画面で第一印象が決まるわけで、
そういうのが得意か下手かというのは結構重要な線となる。
1999年3月に出たコナミのサイレントヒルなんて、字幕がPS1の内蔵フォントだったせいで俺は完全に興味をなくした。たったそれだけで。
そのスクショを雑誌で見た時に、反射的に『ホラーゲームなのに雰囲気作りに力入れてないんだな』と感じ取ってしまったからだ。

そこまで勝手に思い込む奴は俺ぐらいなのだが、画面見て印象悪くさせるような絵作りしかできないのも、それはまずい。
(フォローするわけじゃなく名誉のために断っておくが、発売から10年後にやってみたらサイレントヒルはしっかり面白かった)

反対に、フロントミッション2とFFTの2つは、本当に同じ会社から同時期に作ってたSLGか!?とおもうほど落差がひどかった。

それはともかく、「アインハンダー」「デュープリズム」「アナザー・マインド」「双界儀」「レーシングラグーン」等
どちらかと言うと無名でマイナーなゲームのほうが面白いものが多かった。

そんなスクウェアだが、PS2に入った途端、一気に凋落する。
レースゲームやら、野球ゲーム、プロレスゲームで食いつなごうとしたのだが、どれも本当にひどい出来
そのあとエニックスと合併してスクエニになるが、俺から言わせると合併する前からスクウェアという会社は終わっていた。

FF10にはまだPS1時代の技術の片鱗が見えていたが、それ以降は突出した部分のないただの大手企業になってしまった。

FF11は技術的にはすごさを感じたが、当時のMMORPGはマゾが当たり前で、とてもじゃないがついていけるレベルじゃなかった。
お気に入りの第三開発(クロノトリガー/ゼノギアス/デュープリズム/クロノクロス)のスタッフ制作だから付き合っていただけで、そうじゃなかったらすぐやめていた。

スクエニという会社になってからのことは、もう俺がここでわざわざ1から語るほどのことはない。

すっかりFFとDQとキングダムハーツだけの会社になってしまったなあということだ。

2009年12月にFF13を買ってやった時、一企業としての作風とか技術ノウハウみたいなものはほとんど消滅してしまったんだと肌で感じた。

どうしようもないクソゲーもあったが、コールオブデューティとかヒットマンとか洋ゲーの接点のなかった俺が色々面白さに触れる機会があった
FFXIでネットゲームに拒絶反応を示して、絶対やるまいと思っていたが、DQXやFFXIVをしぶしぶでもやってみて、
今のMMORPGは昔みたいなマゾ仕様ではないことがわかった。

ここまでの話は、実は公表しようかどうか、書いてる途中も書き終えてからも、存分に迷った話だ。
まあでも、ゲームレビューのホームページやってるときに「どうしてスクエニのゲームばかり取り上げるの?」と言う
質問も来たことがあるし、それについて明確な回答が以上のとおりとなる。

一言で言うなら「特にはっきりとした理由はない」という回答になる。
別にスクエニからリベートもらってるわけでもなんか契約してるわけでもなんでもないし、本当に何も意味は無い。
意味を付けようとこれを見た人が、あと付けでごちゃごちゃ理由をつけようとしたがるかもしれないが、それには責任は持てないということで、公表することにした。

他のRPG屋だと、日本ファルコムとか、アトラスは、ゲーム業界内では大手だけど、
会社をここまで巨大化しようとはしなかったから、今もほそぼそと老舗のRPG屋として続いていて
こういう根強いファンがいるだろうとおもう。
たまにウィキペディアなんかみたら、ファルコムゲーは、内製のやつしか認めないみたいな執筆者が露骨にいて
他社の移植作品ばかりやってた俺は「ファルコムって愛されてるなあ」って笑ってしまう。
ファルコムブランドで内製か、ファルコムが公式に認めたもの以外は亜種扱いされてるのが凄い。
というか亜種扱い出来るのが凄い。

で。
金がなくなってゲームレビューをやめた時点で、俺はゲームを買うこともやめた。

それが2014年4月。
ちょうどゲームレビューを初めて10年経った時であった。




2004年4月から俺はゲームレビューのホームページをはじめた。
大学を卒業して就職浪人になり、焦った俺はなにかやらないとと思って始めたのがゲームレビューだった。

この時おれは、あまりに悩みすぎて円形脱毛症にまでなっていた。

最初の2,3年は、ちゃんとしたレビューすら書けていなかった。
まあ10年やってもって感じだが。

まず、自分でゲームレビュー始める前に、とても感銘を受けたゲームレビューのページがあった。
ネット上の大半のゲームレビューが、自分の好きなことを書いているだけなのに対し、
ゲーム雑誌とかでも最近はめったに見られない、ゲームそのものを真剣に、真っ向から分析しているレビューであった。
その人は、絵もかき、ゲームも作り、プログラムなどの知識もある。
だから、技術面での言及もきちんと説得力があり、ゲームレビュー以外の、ゲームに関するコラム、考察なども書いており、非常に納得させられる内容となっていた。
俺はこの人を目指して、手本として頑張ってきたが、10年頑張っても、足元にも及ばない。

だが俺には、この時点で、物を教えてくれる師匠のような存在がいなくて、全部自分の力でやらなければならなかった。
逆に言うと、自分の力でやれるところまでやるしかなかったのである。

ゲームレビューをはじめて1年後の2005年4月。
適当に書いた駄文ではなく、時間を掛けてしっかりゲームレビューを書いていこうと決める。
それともう一つ、発売日に買ったゲームは投げ出さずにクリアと位置づけられてるところまではしっかりやろうと決めた。

たかがゲームの遊びといっても、投げ出さずしっかりやり切るというのも、簡単なようで案外難しいことで。
フリーターだから金銭的にも辛くて、そこから新作ゲームを買う資金を捻出することも大変だった。




後、今だから、こういうことをさらけ出そうと思うが。
なぜここまでゲームに入れこむか、決定的な出来事があったりもした。

PS2とPS3
発売日に入手するのは本当に困難だった。
この2つに関しては、努力すれば手に入るという次元を超えていた。

PS2。予約すらできなかった。
しかし2000年3月4日の朝。電話がかかってくる。
いつもゲームを買いに行っている近くのゲーム屋からだった。

「PS2入荷したのでご来店お待ちしてます。」

わけが分からなかった。

予約しようとして、無理ですと言われて素直に諦めた
なのに、当日になって俺のぶんを確保してくれたというのだ。

高校生の分際で、ゲームショップでVIP待遇を受ける俺は何なのだろうという感じだ。

PS3。
PS2の時、粋なはからいをしてくれたゲームショップはもう潰れてて無い。だからサプライズも期待できない。
PS2の時以上に、発売日購入は無理そうだった。
どこいっても、予約すら拒否しますという張り紙が貼っていた。
2006年11月11日。予約できずに発売日を迎えた。
近所のとあるゲームショップでは、入荷台数の目安と当日販売のみという張り紙がされていて、
発売日の朝、朝刊配達を終わらせた朝5時半にそこへ並びに向かった。
しかしもう、11月上旬の糞寒い中、入口の前を占拠して毛布にくるまってるいかにもオタクっぽい集団が既にいた。

近寄ると
「あーあーもう無理ですPS3はここの人たちで」

先頭の人が俺を止めに入ってきた。

その後も、まだ暗い早朝に色々回ってみるが、当日抽選販売をするというヤマダ電機以外は脈がなさそうだった。

しょうがないので、そこのヤマダ電機で、抽選販売にダメ元で応募しに行く。
そしたら、抽選販売に申し込みする人だけでも、山のような人だかりで、俺はもう無理だなと思った。
どうせ駄目だから倍率の高い60GのPS3にしようと、半ば投げやりな状態で応募した。

そして抽選発表が貼りだされる夕方17時過ぎに一応確認しに行く。
この日のことは未だに覚えていて、どうせ当たらないから腹いせに近くのリサイクルショップでレトロゲームでも買おう、そのついでに見に行こうというノリだった。

そしたら、なんとあたっていた・・・・!!!

60GのPS3の購入権を見事引き当てていた!!!

とはいえ、この頃も相変わらず極貧フリーター生活。
近くの郵便局のATMで7万円を引き出し、PS3とリッジレーサー7で6万4千円を現金一括払いで買った。

なんというゲーム運と当時は運命を感じたものだが。
まあ種を明かせば、このヤマダ電機で一番新作ゲームを買ってて、ポイントカードも登録して購入してたから、
お得意様から優先的に当たるような抽選方法を取っていたんだろうと思われる。
(この時どうやって抽選してたのかの方法は今となってはわからない。
ただ、店側としても購入権を抽選するといっても、確実に買ってくれる人を当てたいはずだから、顧客情報を見て当選を決めてた可能性は高い)

そんなわけで、こんなくだらない出来事があって、俺はゲームに関して何か運命線のようなものを当時感じた。
今思うと、馬鹿馬鹿しい思考性でしかないのだが、当時は、そうやって勘違いして舞い上がってしまうような出来事だった。

他のゲーム機も発売日購入はそれなりに難しかったのだが
基本的に予約解禁日をマメにチェックしてれば、まあそんなに大変なものではなかった




久しぶりに長文を書いて疲れてしまった
このテーマの話は次回に回したいとおもう

おれはもうだめだ

どうしてもあらゆることにやる気がでない
俺はもう死ぬしか無い

俺の人生はもう長くない2014 ~終焉~

もう時間もなくなってきたので、一つ一つのエピソードを丁寧に書いている暇もなく、
とりあえず書こうと思っていたエピソードを略式で書いていく。

☆幼少期について
親の影響で物心ついた時からゲームやってた。
けっきょく南極大冒険、ロードファイター、F1レースなど。

愛読書はゲーム雑誌。主だった2誌
ファミマガ(ファミリーコンピュータマガジン)
月刊PCエンジン
ほか多数

小さい時からゲーム漬けだったというわけではない。
親父がいる時間、平日夜、日曜などはゲームが出来ない。
小遣いをもらえなかったし、自分が欲しいゲーム、ものを買ってもらったことも殆ど無い。

その反動で、ゲーム雑誌を読みなくって、ゲームやった気分になったりしてた。
小学生の頃から大手ゲームメーカーとその特徴を答えれたし、雑誌に取り上げられるような開発者は覚えた。

ただ、子供の時は、ゲームよりも外で遊ぶほうが好きだった。
家にゲームあっても、自由に遊べないから人の家に行くことが多く、ゲーム:外遊びが半々ぐらい

☆俺の親父について
そもそも俺がろくでもない人間だし、自分の親だからあまり悪くいいたくはないのだが、なるべく事実に沿った話にする。

現在の俺の立場から見ても、うちの親父は、精神的に子供すぎると思う。

自分に甘くて他人に厳しい。

典型的な家弁慶で、外と家では別人格
外)気が小さく、物静か。猫かぶり。
家)外での態度が嘘のように本性を発揮。怒号や怒鳴り声が飛ぶ。横暴。自分のわがままを何が何でも通そうとする。

自分が楽しければ家族であっても他はどうでもよく、やらなければいけないこともほぼほとんどを人任せにしていた。
趣味は絵描き→ゲーム→PC→DVD鑑賞

その異常性を示す出来事を明かす。

小学4年生とかそれぐらいの頃、親父にPCエンジンのアダルトゲームを買いに行かされた。
(ハッカーインターナショナルのボディコンクエスト2とか完全な18禁ゲーム。昔は色々ゆるかったから子供でも売ってもらえた)
自分で買うのが恥ずかしいからと、まだ分別の付かない年齢の子供を使って、買いに行かせる(実話)

親父には兄弟が2人いるが、兄弟でさえも、絡みにくいからと異常なほど避けられている。

こういう父親と過ごしてきて、俺の場合。
何考えてるかわからないのと、家だとヤクザのような威圧感のある雰囲気のため、言いたいことも言えない萎縮した状態で過ごしていた。
親父の物言いに何か口答えすれば、物凄い勢いで怒号が帰ってくるため、次第に何も言えなくなる。

今も昔も居心地が悪かった。
だから仕事とか、なんとかして家を離れたいと思っていた。
地元の身の丈にあった会社に入るみたいな地に足についた考えを持てず、大都市志向になっていたのはそのため。

こういう性格だから、仕事も嫌々やっていたというか、基本的には働きたくなかったのだろうと思う。
幸い表沙汰になることはなかったが、そのストレスを家で爆発させていたのだと思う。

俺が新聞販売店に就職した頃、親父は物凄く「仕事を辞めたがっていた」。
辞めて、隠居して、俺の収入で食っていきたいようなことをすごくいっていたようだった。
俺の本心は、そうさせてやりたいという気持ちと、死んでも親孝行なんてしてやりたくないという気持ちが半々だった。

こう思うに至ったのは、なんだかんだ言って総合的に魅力があり頼りがいのある父親であればよかったが、そうではなかったからだ。
外での猫をかぶった親父の姿が、あまりに、情けなすぎた。
俺には良い年してゲームやめろとか聞き飽きるぐらい説教するが、自分は高性能PC買ってそれでゲームやっている(それもトゥームレイダーとかいまどきのやつ。しかも余裕で60フレーム動作するようなPCでやってる)。

そういう理不尽からさっさと逃れたかった。
これは、親父だけでなく俺の母親の方も言い続けている。

この年齢にもなって、父親の、それも悪いところばかり書き上げるというのも、気が進まないというか、やりたくなかったことなのだが、
良い部分というのを、いくら考えても、出てこなかった。

☆その他仕事の問題などについて
動けなくなってきた理由の一つとして、職を転々とするのが辛くなってきた
諦めて開き直ったとはいえ、求人情報を見るぐらいのことはやったりする
非正規の仕事、もう若いころほどアグレッシブに動けなくなってきた
これ終わったら、また次を探さないとならない、新しい仕事の度に、単調さ業だろうが仕事をその都度覚えなければならない
これの繰り返し。疲れた。給料も安い。出口が見えないことを繰り返して何になるのか

俺の住んでるところを公開しても、あまりメリットはないのだろうが、北の地の都会でもない田舎でもない町
移住は間違ってもオススメしない。俺だけじゃない、周りも職付くために過酷に苦しんでる。
コネで入ったとか、ほんとうに多い。俺はそのコネすらもない。

そんな所
(さらっと書いたので、加筆修正する可能性あり)

1996-1997 合格確率2%の壁を突破した高校受験

中学2年にあがってすぐあった学力テストで数学8点という惨憺たる成績をたたき出し、親にへこまされるほど怒られた

それまで俺は、勉強をするという習慣が全くなく、中2になったというのに、方程式の原理すら全くわからず、英語は全くわからずという、ありえない状態で学年だけ上がっていた。

定期テストがあっても、勉強を全くしないので、当然成績は悪い。
100点中、50点に近ければ凄いといった点数で、大体20点から50点の間の点数ばかり取って親に怒られていた。
まあ、授業も真面目に聞かないし宿題もしない、テスト前日になっても一度も机に向かうことすら無い

という中学1年の生活習慣を考えると、ある意味ここまで点数取れるのが逆にすごいとも思えた

得意科目は国語だった。勉強しないでもアドリブで点数がとれたから。

☆しかし親に怒られてから
中2にあがってすぐ、そんな成績を出し、親に怒られてから、勉強するようになった。

中1の時、いじめられて一度不登校してから、人と関わることを避けるようになり、休み時間もボケーっと座っているだけで暇だし、授業中もゲームと漫画とその日の夜あるテレビ番組のこと考えて終わるのをただ待っている退屈な状態だった。

それだったら、勉強ぐらい真面目にやろうという考えに至った。

真面目に勉強してみると、意外と面白かった。
ゲーム感覚で、成績が上がっていくことに喜びを感じた


数学の方程式がわからない問題はなんとかなった
2年生の最初の単元が、2次方程式で、1年の応用編みたいな感じだったからだ。
その後、x軸y軸の正比例とかも、1年の応用。図形の証明までは基本的に数学は1年の応用編だったおかげでカバーできた。

それどころか、仕組みを理解してからは楽しんでさえいた。
図形/証明/文章問題には苦しめられたが、数学という学問は当時の俺にとってまさにゲームそのものの世界だった。


社会科
1年で学んだ、江戸時代以前の日本史、世界の地理は、のちの高校受験時に苦労する羽目になった
なにせ、1年生の時に1年かけて勉強することを、まったくやっていないのだ。数学の時みたいなリカバリーも効かなかった。
しかし、俺には追い風が吹いていた。

ちょうど、2年になってからの社会は、中世西洋史を学習するようになっていた。
日清戦争とかアヘン戦争、イギリス解放運動とか、そういった話である。

これが俺の興味を引いた

しかもちょうど、中2の5月26日。

1995年5月26日
PCエンジン 空想科学世界ガリバーボーイ 発売


中世ヨーロッパを舞台にしたRPGで、イギリスのロンドン、花の都パリ、商人の町ベニスなどが登場する!!

学校で勉強している世界が、ゲームにも出てくる。
これが効果的に作用しないはずがなかった。

自慢じゃないが、日本地理はPC-Eスーパー桃太郎電鉄IIで全て覚えた。
時に小学校4年のことであった。

だが困ったことに、英語だけはどうしても挽回できなかった。
英語の文法がどうやっても理解できない。これは当時の担当教員がよくなかったのもあるらしい(本来は音楽教員だった人が英語を教えていた)
まず1年の時の基礎が抜け落ちているのだ。それでも暗記で定期テストは乗り越えていた


☆ゲーム感覚で成績がドンドン上昇する!
定期テストで五教科、合計200点とかそんなんだった成績が、右肩上がりで上がっていく。

当たり前の話だ。
勉強を全くしていなかったのだから


やればやるほどディスクシステム点数が上がる。嬉しくなる。
2学期の中間テストで社会96点をとった(誤答は2問だけ)。クラス1番の人と同じ点数だった。

嫌でもテンションが上がるのを感じていた

勉強しようと思い立って僅か半年弱で、学級No.1と渡り合えるまで到達するとは…
あの、勉強何もわからなかったはなたれ小僧だった俺が…!!

俺は必死で勉強した。
必死というのはふさわしくない言葉かもしれない。
俺は勉強を頑張っていた。


だが、限界というものは驚くほど簡単にやってくる

残念ながら俺はRPGの主人公のように、無尽蔵に経験値を蓄積して成長を続ける生き物ではない

俺の成績は1年間で、200点上昇した。
五教科で200点とかだったのが、400点前後をマークするようになった。

ここが、俺の人間的性能の限界点のようだった…

中学3年に上がろうとしていた頃だった。
俺は努力しても努力しても、成績が頭打ちになった。
それどころか、努力を怠ると成績が簡単に落ちる位置にいることに気づいた

☆一年前と状況が違っていた
そもそも、頑張れば成績が上がるから面白かったのだ。勉強自体が好きだったわけじゃない

一年間努力して、俺はそろそろ遊びたくなっていた。
前とは違う、興味のないことでも勉強しなければならない強迫観念
成績を落とすわけに行かないというプレッシャーに嫌気が差していた


新聞配達も始めたし、2年生のときと違って色々忙しくなっていた。

1996年6月23日(日)
ニンテンドウ64 発売
スーパーマリオ64 発売


まさかのテスト前日に、ニンテンドウ64が発売された。
近くのローソンで予約をし、23日午前0時に親父と一緒に受け取りに行った。

そして深夜2時近くまで、そのまま夢中になって遊ぶのだ。

新聞配達始めてから、色々ゲーム買ったし、プレステ1もサターンも買った。
ゲームが楽しくなってきていた。

畳み掛けるようにテスト前に新ゲーム機が出る。まさかのマリオ64。
歴史的には1997年1月のFF7のが衝撃だったようだが、俺は完全3D空間を自由に動かせるマリオ64のほうが遥かに衝撃的だった。

そしてまた、俺の

このゲームはどうやって動かしてるんだ?

という興味が炸裂する。N64専門誌のその手のコラムを読みまくった。

マリオ64は、その後も2ヶ月以上にわたって、飽きずに遊び倒した。

これは当時劣勢だったN64を発売日に買った人ならわかる感覚だと思う。
クラスでN64を買う物好きは俺一人だったし、他に買ったのは親しいゲーム友達一人ぐらいだった。
しかし、その友達も、夏休みが終わり9月のサクラ大戦が出るまで、マリオ64をずっとやり続けるぐらいハマっていた


頑張っても頭打ちになってしまった成績
そのことで、俺は勉強に対する情熱が冷め、ただ義務的にやるだけになりつつあった


そんな時だった。

☆塾の夏期講習会に参加する
クラスの人に誘われて俺は塾の夏期講習会に行くことになった。
誘われるというキッカケはあるものの、自分から塾へ行くと言い出す奴は中々少ないと思う。

俺は焦っていたんだ
成績が上がらないことに。
出題範囲の狭い定期テストなら理解でないことも暗記で解決できるが
学力テスト、ひいては、中学生の最終目的である高校受験はその付け焼き刃で乗り越えられないことを悟っていた


3年生になると、志望校を決めるための学力テストも増え始める。
定期テストでは安定して400点前後をキープしていたが、それはとにかく成果を上げることに勉強の目的を向けていたからであって、
3年間のうち、最初の1年を遊んで過ごしていたために、出題範囲が広い学力テストは成績が安定せず鬼門だった。
300点中、160から190点という幅のある結果になっていた

わからないところは、なんでも暗記でごまかしていた。
当然、当時は理解しようとしたが、基本的に性能が低い俺には難しい部分も多く残っていた。

それに、ハイスコアを叩き出すためだけに勉強していたわけで、普段の成績がいいから頭がいいとはちょっと事情が違っていた。

その問題を払拭させるために、俺は夏期講習会へいくことにした

毎日、月から金まで午前中は塾で勉強
午後からはゲーム(マリオ64)
15時からは新聞配達


goの過去形がwentだというのがわかったのが実はこの時期だった。
それだけ英語は俺にとってわからないことだらけだった。

そんな夏休みだった。

夏期講習会のあと、俺はこの塾の塾生になった。
伸び悩む成績を上げるためと、受験を成功させるためだった

当たり前の話だが、塾は本人さえやる気があれば、そのやる気の分だけ効果が出る
放課後決まった時間に塾へ勉強しに行くのだから。
しかし、一つ落とし穴があり、塾は点数を上げるための勉強法を教えてくれるがそれ以上のものは教えてくれない

どういうことかというと、定期テストでは徹底して点数の取れる教え方をする。
塾に来る生徒が通っている学校の、教師が作る試験問題の傾向を蓄積・分析した上で、授業をする。
(だから試験が終わったら問題用紙を生徒から借りてコピーして会社にデータとして残そうとする)


塾では成績順に席が決まっていて、下位組と上位組の2つのクラスがあった。

塾に入った頃は、下位組では1番2番を争う席だった。
そこから頑張って、上位組に入ることが出来た。
上位では下の成績だったが(一番前の席)、ひたすら頑張った結果だった。

塾に通うことになって、新聞配達も辞めざるを得なくなった。

最初は19時30分から21時30分といった時間割だったが、10月から17時30分から19時30分という時間に変更になったためだった。

どっちみち受験が近づいてきたら辞めなくてはならないので、いいタイミングだった。
1996年9月いっぱいで俺は新聞配達をやめた。
正式には夕刊配達をやめて、日曜朝刊のみの代配配達員になった。

とはいえ、塾は月・水・金だけ
3年生ということもあって、日曜に模試なども入ってくるが、新聞配達してた時よりずいぶんと暇になった。

実働時間たった1時間とはいえ、毎日放課後は夕刊配達へと慌ただしかった。
休みの土曜日でも、15時からは仕事に行かなければならなかった。

それがなくなったのである。

この頃になると、学校では人付き合いを避けていたのに遊ぶ友達ができていたり、
毎日が充実していた。

新聞配達をやめてからは、放課後、友達と買い食いしたり本屋に立ち読みしにいったりダラダラ過ごすことができるようになった。塾のない日には友達の家に遊びに行ったりということも増えていた。

☆志望校の選択
俺の場合、学習点と学力点がアンバランスで、自分にあった進学校がなかった。

真面目に勉強しはじめたのが2年になってから。さらに3年生からは塾というブーストが掛かる

1年の通知表では、5段階で、2が多くたまに3という成績だったがの、
2年に上がってからは、3と4が多く並ぶ成績になった。うちの学校は相対評価だったので5を取るのは大変だった。
4の上位にいるという印が付くことはよくあったが、5になることはなかなかなかった。

テストの点数である学力点は大体170から180ぐらい。
しかし、学習点については、1年の成績が足を引っ張っており、最終結果もGランクだった。
(後1点多くとれればFランクに上がれるという状態だった)

Gランクで学力点170から180というのは、当時の中学校の査定評価では異質なイレギュラーな存在だった。

一言で言えばいない、ありえないというところだ。

数値上だけで見れば、俺という生徒は

テストの点を取れる頭の良さなんだろうが、
学校で授業中の態度が悪く、学習点が低い


という見られ方をした位置にあったのだと思う。
(勿論現場の、俺と接している教師はそうは思ってなく、あくまで机上の評価方法としてはという意味だ。)

これを踏まえてた上で、志望校を決める。
Gランクで180点以上をボーダーラインにしている進学校を選択する

何度か書いているが、学力点の安定しない俺にとって
この時点でも、合格率はフィフティーフィフティという状態だった。
ランクを下げるなり、工業高校にするなりすればよかったのだろう。
そうすると、俺がここまで一生懸命頑張ったのは何だったのだろうという気持ちが強かった


志望校は3年生の夏休み後に決めなければいけなかった。
一回決めてしまったら、もう簡単に変更することは出来ない。

その後も、学校で学力テスト(総合A、総合B、総合Cというやつだ)や、塾では模試があった。

合格率は2%を指し示していた

さすがに塾側もヤバイと思ったのか、1997年2月。1月の模試結果を見て、俺を呼び出し

「志望校のグレードを落としてくれないか」

という打診があった。

この受験本番ギリギリの時期。
学校ではもう志望校の変更は無理と言われていた。

俺自身も2%続きはさすがにヤバイと思っていたが学校では無理と言われていたので、半ば諦めの境地に達していた。

言えば、なんとかして学校側で変更の手続きをしてくれただろうと思う
しかし俺は、それを言い出すことが出来なかった。


すなわちもう後戻りができないと思っていた。

☆奇跡が起こった!!
1997年1月。
サターンで天外魔境第四の黙示録が出たり1月31日にはファイナルファンタジーVIIが出たり
受験をほっぽり出して遊びたいゲームが相変わらず出続けていた。

俺は我慢をした。

FF7の発売日は、よりにもよって3学期の期末テストの最終日。
なぜだかわからないが、クラスの友達の家に朝早くに行って、一緒に登校前にセブンへFF7を買いに行ったりした。


だけど、買っただけ!!
テストが終わって、学校も早く終わったので、その開放感から2,3時間プレイしたと思うが、基本的には封印せざるを得なかった。

1997年2月以降
学校の授業は、受験前ということで、ひたすら予想問題のプリントをこなすばかりになっていた。
2月も終わり、3月に入る頃になると、専願の人はとっくに受験も終わっていてそのプリントをやる意味すら無い状態の人もいた

そうなると、先生も授業時間にもかかわらず「勉強しろ」と強く怒る理由もなく、非常に気の緩んだ空間が広がっていた。
プリントを配られても、遊ぶ人が増えていた。

俺にとっての本番は3月5日(水)。
俺と親しい友達は、何度も出てくるゲーム友達、同じクラスの友達は勉強嫌いでみんな専願
とっくに受験は終わっていた。

1996年3月3日(月)のことだった。

もう、ここまで直前になると、逆に緊張の糸が切れている人のほうが多くなっていた
授業に来る先生もかなり甘くなってて、プリントを配るだけで後は女子としゃべちらかすなど、だらしなくなっていた。
教室で紙飛行機が飛ぶなどが日常茶飯事になっていた。

別に学校が荒れていたわけじゃない。

国語の授業。
見慣れた予想問題集をコピーしたプリントが2枚配られる。

俺と同様に3月5日が本番の人も、真面目にこれをこなす人は少数派になりつつあった
でも俺は、基本的に真面目だったので、楽しく騒いでいる教室の中、黙々とこれをやっていた。

古文と漢文の問題集だった。

2日後の3月5日。

受験当日。

国語の時間。

2日前にやった国語の予想問題
こんなの今更マジにやっても無駄とも思われた予想問題のプリント
古文と漢文のところでまるっきり同じ問題が出題されたのだ


しかもなぜだかわからないが、俺はその問題と対峙した時、答えもしっかり覚えていた。
家に帰って確認してみて俺は開いた口が塞がらなかったほどだ。

これに気づいていたのはどうやらクラスで俺たったひとりだったようだった。

こうして俺は、国語でほぼ満点をとった(ザコ採点)
現代文で何問か落としただけで、古文・漢文は直前の予想問題のおかげで全問正解していた。
この出来事が決め手となり、俺は合格を勝ち取った。

俺は合格確率2%の壁をぶち破った

結局のところ、塾まで行って沢山努力をしたものの、決め手になったのは運だった。
山のように努力してきたが、運がなければ受かることはなかった。
もっとも、そこまでしてあの高校に入ることが重要だったかというと甚だ疑問が残るが。

当時から常軌を逸するゲーム好きだった俺
工業高校も選択肢にあった。
しかし、この時代の工業高校にはまだ、情報処理科みたいなのはなかった。
まあ入ってみたらカリキュラムにプログラムの勉強するところはあったのだろうが
パンフレット見る限りではどう見ても、電子回路の勉強が主だった感じだった。

それに、まだ14、15歳といった時のこと、
いくらゲーム好きといっても、具体的にPCを触ったことなど数えるほどしか無い
そんな人間が、もうプログラマーとか進路に決めるべきか悩んでいたのだ(これは本当に)


同じクラスの知り合いで、ゲーム会社に就職したいと、高専に進む奴はいたが。
そのために、色々ゲームの研究?(自称)などもしていたらしいが、どう見ても間違っているし無理だと思ってた。

俺から見て、その人は、小中学生とかがドラクエやFFあたりで感動してゲーム会社で同じようなの作りたいという範疇を抜けないというか、
悪い言い方をすると勘違い野郎に見えた。
ゲームを作ることに対しての知識が足りないというか、逆に言うと、俺が中学生のくせに持ってる知識が異常な方とも言えるのだが、そう感じた。

ノートに手書きで、ドラクエだかFFの台詞を写してたり、アイテムのデータや敵のデータとかそういうの、書き写してレポートにして、見せてくれたりした。
本人はそれで、ゲームを研究して分析したと思っているのだろうが、全く無意味だなーと思いながら見てた。

案の定、高専に進んだはいいが、卒業後の進路に『ゲーム会社』が求人になく、その場に泣き崩れたという話をのちの同窓会で会った時に聞いた。
コンピュータを勉強することとゲームを作ることだけをイコールにしちゃうと駄目なんだよなと俺は思っていた。
(まあこのへんのエピソードは結構、今の俺にもブーメランとして突き刺さっているというのはおいといて)



※この記事は以前途中まで書かれていたものに加筆修正して完成させたものです
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