13年続けた新聞配達

1995年。中学2年生の頃のことだった。

当時、私はどうしても欲しいゲームソフトがあった。

しかし、私の家はお小遣いを一銭ももらえない家庭だったので、小遣いを貯めて買うということが出来なかった。
それどころか、他の友達が学校帰りに小遣いを使って買い食いとかをしているのに、私は親から一銭もお金をもらえないので、自分のお金というものがなく、肩身の狭い思いをしていた。

何度かねだったことはある。親の返答はきまって同じだった。

「おまえに小遣いやったって無駄遣いするだけだからあげれない」

親の言うことは道理が通ってなくても絶対服従しなければならなかった私は、親には逆らえなかった。
そのせいで反抗期がなかったのが、今の落ちぶれた人生に関係している気がしないでもないが、因果関係を証明することは不可能だ。

その、欲しかったゲームソフトというのは、スーパーファミコンの聖剣伝説3というものだった。

親父が買ってくる「ファミリーコンピュータマガジン」というゲーム雑誌で、ひときわ大きく取り上げられていた。
画面がとにかく綺麗で、登場するキャラクターも魅力的だった。中学生を夢中にさせるには十分な夢に満ち溢れたゲームソフトであった。

しかし当時のゲームソフトは1本一万円が相場で、安い買い物ではなかった。
実際このゲームも、店頭価格で割引されても1万を超えていた。

1995年というと、ちょうどプレイステーションやセガサターンが出てきて、ゲーム1本の値段が5000円ぐらいになったものもではじめていたが、まだゲームとしては実験段階のものが多く、遊べたものではなかった。

だから、金額的に親に簡単にねだれる代物ではなかったのだった。

余談になるが、いっぽう、当時唯一よく遊んでいた大親友のKは、親が優しかったので、発売日にゲームを毎月何本も買ってくれる羨ましい環境にあった。

すごいなあと思っていたのは、毎年訪れる年末商戦である。
ゲームも大量にその時期に発売されるが、毎年12月になると、新作ゲームを一ヶ月だけで7本とか買ってもらったりしていた(1993年の話)。

そんな恵まれた環境にあるKは当然この私が欲しがっているゲームを予約済みであった。

私は悩んだ。

そして、悩んだ末、近所の新聞販売店に新聞配達のバイトを申し込みに行った。

緊張しっぱなしで中に入り、キョドりながら私はこう言った。

「新聞配達がしたいんですけど、どうすればいいですか?」

スキンヘッドでメガネをかけた親父がこう答えた。

「いま空きがないから。そしたら、ここに名前と連絡先書いて。目処がついたら連絡するから」

ぶっきらぼうにそう言われ、差し出されたノートに自分の名前、住所、電話番号を書いてその日は帰った。

7月初めの土曜日、まだ蒸し暑くなるには早い午前中の出来事であった。

欲しいゲームの発売は9月。新聞販売店から連絡が来ないまま暇な夏休みは終わり、私はやきもきしていた。

これじゃ間に合わないじゃないか。内心そう思いながら最後の何も無い長期休暇を満喫していた。

自分がバイトを申し込んだことを忘れた頃、9月はじめのことだった。学校から帰ると、販売店から電話が入った。

「あんたの希望する配達地区で空きが出たから、明日の夕方から早速見習いで入ってもらっていいか?」

待ち焦がれていたバイトの連絡がついに来た!と同時に、いきなり明日からと言われ私は焦っていた。

「……いや、ちょっと……」
「なんかあるのか?」

特になにかあるわけではないが、心の準備が出来ていなかったのだ。

「それじゃ明日の16:30。ちゃんときてよ」

ガチャッと乱雑に電話を切られた。

次の日から、毎日学校を終え、家に帰ってすぐに夕刊配達という日々が始まった。

最初の3日間は見習いで、配る家を教えてもらいながら配達をした。

2日目までは優しいおばあちゃんに教えてもらっていたが、3日目は気の強そうな高校生の兄ちゃんが来た。
その人は、それまでこの地区を配っていた人で、受験があるとかで辞めるのだそうだ。

その兄ちゃんは、2区域(2人分)配っていて、とにかく効率的に素早く配っていた。

だが私はよくわからないので、2日間やってきたように一件ごとに自転車を止めて配達地図を確認しながらのろのろと配っていたら。

「そんなのんびりしてたら、何時まで経ってもおわんないよ」
「まだ配る家覚えてねーの?」
「お前体育の成績いくつ?走って配らないと間に合わないぞ」

そんな罵声を浴びたのだった。

「これじゃあ不安だな。もう一日ついてみてやらないと。全然地図も頭に入ってないし」

次の日は土曜日で学校は休みだった。
午前中、配達地図を見ながら、配る家を復習していった。夕方に訪れる、にーちゃんの厳しいチェックをクリアするためだった。

そしてなんとか地図に頼らずに配達できそうなところまで暗記出来たと確信して、夕刊配達に望んだ。

昨日言われたとおり、自転車で配達区域にきたら、降りてガバっと新聞の束をつかんで、走りながら一件一件てきぱきと配達していった。

午前中にやった予習の効果はてきめんだった。一々地図をみずに配ることが出来た。

そうしてなんとか厳しい兄ちゃんの最終テストに合格し、晴れて独り立ちすることになった。

厳しい監視の目がなくなってからは、こんな疲れることをする必要はなく、自転車を配達区域の真ん中にとめて、
歩いて住宅街を周り新聞を配っていた。

配る部数は100部前後で、歩いて配達すると、だいたい1時間程度で終わる。

仕事自体は別にきつくない。夕刊だから新聞も重たくなかった。
給料も、友達の小遣いよりはるかに高額だった。

欲しいゲームを買ったから、すぐ辞めますとは中々言い出せないものだ。
特に辞める理由がなかったので、その後もずっと新聞配達を続けていた。

自転車を使える夏場は良かったが、雪の降り積もる冬場は寒いことも手伝って、かなり大変だった。
かといって新聞配達は自転車を使うことが前提になっているので、雪がつもろうが自転車に無理矢理乗って配達していた。
前が何も見えない吹雪の日や、1月の氷点下まで気温が下がる時期が最も辛かった。

ただ…、放課後、1時間程度とはいえ、仕事に拘束されるというのは、年頃の遊び盛りの身分の人間には辛いものだった。

学校が終わって家につくのが16時過ぎ。そして着替えてすぐ新聞を取りに販売店へ出勤する。
配達が終わって家に帰れるのが18時前だ。なので自由時間が訪れるのが18時からとなる。

これでは平日は友達とは全く遊べない。また、土曜日も配達の仕事があるので、夕方の15時30分頃から遊べなくなる。

中学生の頃は遊ぶ友達がいなかったのでそれほど苦痛ではなかったが、高校生になってからカラオケなど遊びに誘われるようになってからは、放課後自由に時間が使えないのが物凄く辛かった。

かといって新聞配達をしていることを公言するのも、向こうが気を遣って遊びに誘ってくれなくなるんじゃないか…とか、貧乏な家なんだな…とか思われるのが嫌で言い出せず、隠していた。

しょうがないので不自然に用事があるなどとうそぶき、途中で抜けだしていたのだが、アレはかなり辛かった。

こんな経験をしたこともあり、私にもし子供が出来たとしたら、お金にだけは絶対不自由はさせたくないと思っている。

この方針について、高校時代に知り合ったYさんと銭湯に行ったときなどに未だに意見が対立している。

「子供が出来たら、小遣いはやらない。バイトさせる」

というYさんの意見に、激しく反発し

「俺は少なくとも学生時代は自分の子供にバイトさせたくない。遊べる時期にお金の不自由はできればさせたくない」

とでかい声でいつも反論している。

これは、(Yさんがまだここを見ているか知らないが)私の人生経験を踏まえた上での結論なのだ。

中学生の頃からバイトをしていた私に対し、周りの大人達はみな同じ反応をしていた。

「若いのにえらいね」

勤勉で良い子。
これが私の中2の時の周りからの印象だった。

以前のエントリで中1の時の私を書いたが、その時とは正反対の人間になっていた。

しかし、若い頃から働いていたからといって、将来素晴らしい人間になるかというと話が別だった。
その末路が今の人生につまずいた無職ひきこもりニートの私である(別に好きでやっているわけではないがな)。

そんなわけで私は中学2年の9月から新聞配達を始めたわけだが、金にはあまり困らなくなったが、正直失敗したと思っている。

というのもバイトをはじめてからの学生生活はなんだか慌ただしい毎日になり、自分の時間をじっくり取ることが出来なくなっていった。

この歳になって思い返すと、10代の大事な時期にバイトで時間をつぶすというのはもったいないものだと感じていた。

一日のうち、放課後のたかが一時間。たったそれだけだが、その一時間すらも、10代にとっては貴重で尊い時間だと今では思う。

毎日、新聞配達の時間を気にする日々。放課後に委員会の仕事など用事が出来たらマズイのでビクビクしながら過ごしていた。
学校が休みでも、夏休みや土曜日でも配達があるので午後からは時間を気にしなければならなかった。

そんながんじがらめの生活がいつしか窮屈になっていた。

新聞配達をする前は、もっと伸びやかに何も気にすること無く毎日を過ごすことが出来ていたのに、大切な何かを失ってしまったかのようだった。

ずっと夕刊配達をしていたわけではない。
受験の時期や都合のつかない時期は夕刊配達を断念していた。
そのかわり、日曜代配という、日曜日の朝刊だけ、もしくは、普段平日担当している配達員が休んだ時の代わりに配達するというポジションで仕事を続けていた。
基本的に一ヶ月4、5回の出勤だが、それでも結構な金がもらえた。

実は多くの同級生はこの日曜代配で小遣いを稼いでいた。私は欲が出てしまって夕刊配達をやっていた。
もちろん夕刊の配達をやっていた同級生は私だけではなく他にも何人かいた。

高校に入ってからも、3年間ほとんどの期間、夕刊の配達をやっていた。
高2の冬頃、MDウォークマンを買って、毎日ウォークマンを聴きながら配達したりしていた。
今思うと、なんとも楽な仕事である。

学生の頃から熱心にバイトしていたとはいえ、楽して金をもらっていたわけだから、決していいことではない。
人と話すこともない、きっちり決められた時間に行くわけでもない、仕事は一人だけでやって文句をいう人もいない。

大学に入ってからはまた授業の時間が重なるため、夕刊の配達ができなくなり、大学4年間は日曜代配をやっていた。
このころになってくると配達員の中でも古株になってきてて、色々な区域を配達したことがあるということで、時間が合えば、欠勤で穴の開いた区域の配達を代わりに受け持つことが増え、結構な金額稼がせてもらった。

その後、私はというと大学を卒業したものの就職浪人で無職となり、何ヶ月もバイトすら決まらず困っていたら、
その冬に朝刊と夕刊を配達していた主婦が突然やめるということで、私にそこの配達をやらないかと話が来て正式にその2つを担当することになった。

初めて朝夕刊の両方をやることになったが、思っていた以上に大変だった。
毎朝4時に起きて、朝刊の配達。終わったら今度は15時過ぎから夕刊の配達。
一日の労働時間は両方合わせても2時間にしかならないが、なんだか一日中拘束されている感じで大変だった。

まず、早朝4時起きで、配達終わって家に帰るのが朝6時前。で、7時過ぎにもなると眠くなってきて寝てしまう。
で、再び起きるのが昼過ぎ。2時間もしたらまた仕事。
毎日がこの繰り返しである。
おまけに、日曜代配も続けていたので、本来休みである日曜の朝も起きて仕事。

労働時間の割に給料は良いのだが、このヘビーローテーションに疲れはててしまい8ヶ月でギブアップ。

「仕事を探したい」という理由で夕刊だけ辞めた。
給料は減ってしまったが、自由に使える時間がかなり増えて、私としては満足だった。
実際いつまでも新聞配達などという腐った仕事をやっているわけにもいかないと当時は思っていた。

その後何年も、朝刊配達と日曜代配をずっと続けてながら、正社員の仕事を探したり別のバイトとかけもちしたりしていたが、
2008年の秋、転機が訪れる。

新聞販売店の経営者が変わることになったのだ。

わからない人へ向けて解説するが、新聞販売店というのは、個人経営の会社である(必ずしもそうではないが、大半がそういう業態をとっている)。
新聞社と販売契約を結んで、戸別配達や営業を行なっている。なので、実は新聞社とは基本的に無関係な組織だ。

私がバイトしていた販売店の社長が高齢となり、手の付けられない従業員や、新聞離れからくる不況による新聞社からの突き上げ(年一回開かれる慰労会でいじめられているのをチラッと見てしまったことがある)、
こういった面倒事を片付けるのに疲れたらしく、会社を9月いっぱいで手放すことにしたようだった。

で、買いあげたのが、ここからまた話がややこしくなるのだが、新聞社の100%子会社の販売店を管理する会社だった。
要するに、新聞離れで部数が落ち込んでいることに頭を抱えていた新聞社は、なんとかして見かけの数字だけでも回復したいと思っていた。
しかし、実際の販売は個人経営の販売店がやっているので、本社の営業部が直接口出ししづらい環境にあった。

そこで、販売店を子会社化し、他の販売店もどんどん取り込んで、本社の意向に沿った経営を出来るようにしている最中というわけだ。

ただし、直営店というわけではない。実態は子会社だが、あくまで別会社という体裁をとっている。
求人や会社案内を出す際も、新聞社とは違う会社名を名乗っている。
会社を買い取ってからというもの、本社の営業部の人間が頻繁に販売店に来ていたが、この販売店を管理する会社の幹部は別にいて、そっちはガラの悪いヤクザのような連中だった。

私がバイトしていた会社も、そんな時代の波に飲み込まれてしまったのだった。

これに激しく困ったのは私だった。
というのも、何年もここにしがみついていたのは、コネで就職できないかな?というしたたかな考えを持っていたからだった。
じっさい、買収される2008年の1月、私は販売店のスキンヘッドの社員にほだされて、社長の家に直接行き、頭を下げてこう言った。

「正社員になりたいんです。お願いします」

社長だけあって立派な家に住んでいた。
広い玄関で、私の声だけが響きわたっていた。
その一声を聞いて社長は苦笑いを繰り返すだけだった。

この時既に、会社を手放す考えがあったから、若い私に頼まれても困っていたのだろう。

そして9月末、社長は引退することを従業員全員へ発表し、お礼として社長の娘が経営している店の商品(プリン)を全員に配って挨拶していた。
勿論私も受け取った。

10月、新しい所長がきて、挨拶の書面を手渡された。

その文面を要約するとこうだった。

「突然会社が変わって戸惑ってる方も多いかと存じます。
 業務内容はなるべくこれまでと変わらないようにしたいと思っています」

一瞬で嘘だと見破った。
だいたい、それだとわざわざ会社を高額な金を出して買取る意味が無いのだ。

私は直感で、このままここにいると厄介なことになりそうだと悟った。
大学時代バイトしていた所に声をかけて、すぐさまこの販売店から離れようと思った。

そんなことを考えていた矢先だった。

私がいつも通り早朝出勤してくると、例のスキンヘッドの社員が不意に声をかけてきた。

「安西爆弾くん、ちょっといいか」

そして販売店の求人広告を持ってきて

「いまウチで募集かけてるんだよ。安西爆弾くん、応募してみないかね」

その求人広告の内容はこうだ。

1.早朝の電話応対(クレーム処理)
2.昼間のチラシ折込の仕事
3.朝刊の新聞仕分け

どれもバイトの募集で、時給はかなり高かった。

それでも、私はもうここにとどまるのは嫌だった。
適当に受け答えして、受けるだけ受けて後は逃げることを考えていた。

その日のうちに履歴書を作って、スキンヘッドの社員に提出した。
私はもう早起きが嫌だったので、よくわからないが昼間のチラシ折込に応募するつもりだった。

が、すっかり老けてシワだらけの事務員のババアに

「安西爆弾くん、チラシ折り込みなんてわからないじゃない、朝の電話応対やるんだよね!」

と、私の意思など無視して強引に朝のクレーム処理に応募させられた。

ありえねえと思った。だから関わりたくなかった、というわけだ。

数日後、面接に呼ばれた。
私はスーツ姿で通い慣れた販売店へと向かった。

応接室で初めて顔合わせする所長と、もう一人顔なじみの温厚で物静かな社員の2人相手に面接が始まった。

面接は実に2時間にも及ぶ長期戦になった。

その間に、バイトの面接だったものが、所長の鶴の一声で

「せっかくだから、朝の電話応対と昼のチラシ折込両方やって契約社員やってみるのはどうだ?」

という話になった。

この所長は、失礼だが、メガネを掛けてて、雰囲気的には、典型的な根暗で性格が悪そうな人に見えた。
実際そのとおりの人間だったのは後に働いてみてわかったことだ。

たいしたことを喋った記憶はないのだが、どうにも長い面接の間に、私のことを気に入ってしまったようだった。

面接が終わって帰り際にこんなことを言われた。

「彼、いいキャラしてるね!!」

それは悪い印象を持たれないように演じているからなんだよ…と言いたくて仕方がなかった。

こうして、受けるつもりのなかった会社の面接を成り行き上うけて、不幸にも受かってしまったのだった。

決まったらこちらの返事を聞く間も与えず、即座に仕事が始まった。

会社の中に入ってみて、初めて新聞販売店がいかに劣悪な職場であるかということが身に染みてわかった。
そして、10数年正社員に誘われたことがなかったのに、このタイミングで私を誘ってきたのは何故かも理解できた。

それまで新聞業界という不況知らずの寡占状態である特殊な世界に身を置き、時間的な縛りが厳しい以外は大した苦労もせず高い給料をもらい続け、社長が甘いので上から文句言われることもなく、各々が好き放題やり続けていた。
ところが、社長が引退して会社が買収されると一転して、上司も変わり、好き勝手出来なくなった。

自然と空気も悪くなり、長年顔見知りだった私を取り込もうとしたわけだ。
勿論、所長としても、この手の付けられない会社に染まってない仲間を入れたくて私を採用したのは言うまでもなくわかることだった。

まず、有り得ないと思うが、業務でPCを全く使っていなかった。
唯一使っていたのは、事務員の女性2人が金勘定に使っている程度だった。

顧客管理をやっていた営業の6人の中年親父たちは揃って全くPCが使えない状態だったのである。

しかし、新会社の連中からすれば、長年勤めてるものにしかわからないような非効率で古い体質を続けるわけにはいかない。
業務形態を1から見直し、新しいやり方を取り入れてる最中に私が入社したというわけだ。

もともと人間関係が悪いとチラシ折込のおばちゃん連中に教えられていたが、新しく入ってきた連中と古くから働いている使えない中年連中との対立が一番激しい時期に私が入社して、雰囲気は最高に悪かった。

私への八つ当たりや新しい所長への愚痴なんかが日常茶飯事だった。

まず、給料を減らされたことを私に愚痴っていたが、いまどきPCも使えない、大した営業成果を挙げているわけでもないのに、もらいすぎという印象を受けた。

今はどうか知らないが、とにかく金だけが欲しいというなら私は新聞業界へ入るのをおすすめする。
不況知らずだったテレビラジオの放送業界すら経費削減の風が吹いているというのに、この業界の人間は金の感覚が未だにおかしい。バブル時代の価値観を引きずっている。
だが、私の体験談を読んで、魂まで捧げたくないのなら素直に引き下がったほうがいい。

PCを仕事道具にしていた事務員の女も、私から言わせれば仕事で使っている割にはPCを使いこなせてないようにみえた。

新しい所長から、今まで言われたことのない作業を指示されて、PCを操作するのだが、簡単な印刷すら出来ない。
一例を挙げると。
仕事が終わり帰ろうとしたら、あるお宅に封書を投函して欲しいと言われたので、その封筒が出来上がるまで待たされていた。
ところが30分経っても何も言ってこない。
何時まで経っても呼ばれないので事務室へ行ったら、封筒の宛名印刷が思ったとおりに出来ず泣きそうになっている事務員の女がうるさくわめき散らしていた。

私も普段からビジネスソフトなんか触っているわけではないので、アドリブで助け舟を出してやったら、一発で完了した。

こんな簡単な操作すら出来ないなんて…と呆れたものだ。

このような理不尽なことが毎日のようにあった。

こうして、入りたくて入ったわけではないが、希望通りコネで就職という夢がかなったわけだが、内部の(会社が変わったばっかりで)ガタガタの空気や人間関係や職場の雰囲気の悪さに嫌気が刺して、わずか半年でこの会社を去ったのである。

私が辞めた後、立派な新社屋が完成し、今もその販売店は営業を続けている(当然だが)。

今は、私がいたとき既に定年間近だった古株の使えない親父連中も定年退職で首を切られ、従業員が入れ替わって、だいぶ事情も変わったのではないだろうか。
いつの間にか根暗の所長も異動になったのか、違う人間に名前が変わっていた。

後半は新聞配達とは関係ない話になってしまったが、私が新聞販売店と縁を切ったのは職場環境の悪さに呆れ返り我慢できなかったからだ。

みんな、(バイト連中も含めて)高額な給料に目がくらみ、かたくなに居座り続ける性格の悪いやつらばかりだった。
それに、会社を買い取られる前は話に聞く限りでは大した苦労もせず高給取りを続けていて、甘い汁を何十年も吸い続けていたようだった。
私はそれが許せなかった。

勿論彼らが楽しっぱなしだったとは言わないが、あの程度の改革で機嫌を損ねるようなら、やはり甘い会社だったのだなあと思えてならない。

最後に私からのアドバイス。
新聞配達は楽に金を稼げるバイトだが、私はオススメしない。
少しでもいいから、人と関わりを持つような仕事をしたほうが自分のためにもなる。
こんな腐った仕事は、候補に上がったとしても候補の最後にやむなくやらざるを得なくなった時以外やるべきではない。
長年働いてコネ入社を狙っても私のような悲惨な末路をたどることになる。いいことは何も無い。以上だ。
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