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ゲームへ強い興味をもった原因を紐解いていく!!

俺はいわゆるファミコン世代だ。
俺が生まれた翌年に、あの任天堂のファミリーコンピュータが発売され、日本でゲームという文化が確立した。

そして、家の親父は俺の世代では珍しくゲーム好きで、ほかと比べると比較的ゲームを持っている環境にあった。

今まで、自分はそれが原因で、ゲームへ異常に執着し強い興味を持っていたと思い込んでいた。

だが、よくよく考えると、これだけでゲーム狂になるのは少々こじつけが過ぎるのではないだろうか?
それこそ、マスコミのレッテル貼りと同レベルではないだろうか?
子供の頃からゲームを与え続けた結果、良くない方向に進んでいった。。
結果だけ見れば、ゲームは害悪と言い張るに十分の材料になる。

俺は親にゲームを買い与えられていたというより、親父がゲーム好きでゲームを買ってきてたってだけで、厳密には俺に買い与えられて育ったわけじゃない。

家に豊富にゲームがある、だから親の立ち振舞が悪い。
1990年代なら、その一言で一蹴される時代だった。

だから俺も今まで、そういう世間の暗黙の了解に知らず知らずに従っていて、価値観に染まっていて、自分のことなのにどこか短絡的になっていたところがある。

繰り返しになるが

俺は親にゲームを買い与えられていたというより、親父がゲーム好きでゲームを買ってきてたってだけで、厳密には俺に買い与えられて育ったわけじゃない。


同じことじゃないかと思われるだろうがぜんぜん違う。

自分の欲しいゲームを買ってもらえるわけじゃなく、親が買ったもののおこぼれを頂いているだけ。
今では考えられない伝統かもしれないが、昔は、子供へのゲームの害悪論が強くて、ゲームは一日一時間とか厳しい制限時間を課せられる家庭がかなり多かった。
禁止されている家もあったぐらいだ(だいたい1980年代)。

幸い俺は、厳しい時間制限を付けられたりはなかったが、親父が仕事から帰ってくる夕方以降とか日曜祝日の休みは
全くゲームは遊ばせてもらえなかった(なぜなら親父がやるから)
休みの日になったら一日中ゲーム三昧どころか、外で遊べって一喝されて
やることなくても暗くなるまで外で過ごしていることがおおくかった。
遊び相手がいる日は退屈しなかったが、いない日も多く、そういう時は近所の道路を自転車でジグザグ走行して何周もしてみたり、
公園のブランコでまっ暗くなるまで1時間2時間単位で、延々とブランコを漕ぎ続けるみたいな無意味なことをして過ごしてた。
そんなことをする時間が多いと、不思議と馬鹿な妄想遊びを出来るようになる

見慣れた近所の風景
しかし妄想遊びが始まると世界が変わる
入っちゃいけないようなところや、普段行かないような所
まあ言うなら敢えて行っても何も面白く無いような場所
そういったところを探検家気取りで入って行ったり、色々くだらない外での一人遊びを沢山やっていた。




話が壮大に逸れていってしまった。

俺が言いたいのは、小さい頃から家にゲームが沢山あったからって、ゲームが即、子供に悪影響を与えるわけじゃないということ。

子供にも個体差があるわけで、ゲームに特別興味がなかったら、そんなものに簡単に影響を受けることはないと思うね。

というかここでは、万人にとってどうだこうだって言うことは一切関係ない
俺がどうなのかっていう話が重要なのだ。

※それでも俺の考えを述べると、子どもという生き物は良い意味で正直だから、自分にとってつまんなかったり飽きたりしたら
残酷なぐらいすぐ放り出して、別のものに興味が目移りしていく
※体を動かすのが好きで放課後野球ばっかやってたからって、誕生日に高いグローブをもらっても、すぐにJリーグが開幕して
「つぎはサッカーだ!!」って言って高いグローブを簡単に捨てて、サッカーに鞍替えしたり、そういう非情さが子供にはある。

その点を踏まえると
俺という人間は、本当にゲームが好きなんだと思うね
それがいいか悪いかじゃなく、その事実を認めて、なぜなのかということを考える。

子供が夢中になるものって他にもたくさんあると思う。
俺が子供の頃、
というかファミコン世代と色眼鏡で見られるが、
俺らの世代は少なくとも、実態としてはまだゲームへの風当たりが強くて、満足にゲームを遊べる環境とはいえなかった。
親がうるさくない友達の家に行ってゲームをやったりとかそんなの日常茶飯事で、隠れながらイケないことをしてるような世界。

※ゲームやってると目が悪くなるとか、いくらでも言いがかりをかけられるところが山のようにあった。
同じテレビなのに、なぜかファミコンゲームが映し出す電子映像は目を悪くするとか、それらしい根拠を書いてきて
その眩しい光線から目を守る、テレビに貼り付けて光度を下げる製品とか、雑誌広告によく載せられてた。

※上手い単語が出てこなくて抽象的で申し訳ないが、今で言うと、グレア液晶の眩しさをノングレアにかえるだけのようなのを
売るために、ゲーム害悪論を使って、これを使えば目にやさしい映像になる!!とか言うのが平然と売られてた。

だから逆に、ゲーム以外のものに興味を持っていく人のほうが多かった。

ゲーム以外だと
漫画、アニメ、ミニ四駆、野球、サッカー、テレビ、ビックリマンシール/カードダス集め(今で言うとトレーディングカード)
切手集めてるやつはさすがにいなかった…。ああいうのはもっと上の世代だ。

ビックリマンシールは、よく机やタンスの側面に貼り付けて、後で後悔している人が多かった。
俺は買ってもらえなくて、友達が買ったやつのチョコの方ばかりもらってありがたがって食っていた。

…ってそんなことはどうでもよいろしい


夢中になれるマンガやアニメがたくさんあった。テレビも面白かった。
なんでみんなとおんなじように、同じものに熱狂してバランスよく楽しまず、ゲームへ強い興味を抱いていったのかって話だ。


それは、逆説的に考えると、俺はゲームじゃなきゃ欲求が満たされなかったからだと思うね。
昔のゲーム事情
漫画、アニメ、テレビとかのほうが娯楽としては成熟してて、乗りに乗ってる時期で、そういうものに相対的に負けていたと思う
だから、マンガやアニメと比べて、ゲームに異常に固執している人間がおかしな奴としょうがないような感じだった。




マンガやアニメや映画やドラマ、テレビ
何でもいいが、どれもが一方通行

どれだけ面白くても所詮一方通行

まあ、それが娯楽だって考え方だ。

大人になってくるとわかってくる。

だが、子供の自分

正直に考えると、見てるだけのそれらが物足りなかった、満足できなかったというのが感想としてあった。

ドラゴンボールがリアルタイムに連載されていた
学校のクラスメイト、同じ男たちは、みんな、毎週ジャンプで連載されるドラゴンボールに熱狂していた。

「オッス!オラ悟空!」

その一言に、みんなしびれていた、酔いしれていた。

正直、俺は理解できなかった。

普通の家はゲームがない代わりに、親がジャンプを買ってくるとか、兄貴が面白いマンガ本を買って読ませてもらってるとかがあったからなのだろう。
マンガ・アニメへの接点があったのだろうが、俺の家はそういうのがなかった。

だから代わりにアニメで体験してて、ドラゴンボールも見てたが、どうしても素直に熱中できない俺がいた。

何か、物凄い形相で、とてつもない怪物と必死になって戦っている姿
男の本能が刺激されるのだろう、みんな来週はどうなるとかいって盛り上がっていた


だが、俺は物足りなかった

喫茶店とか友達の家で漫画の方も読ませてもらったこともあるが、やっぱりアニメだけでなく、マンガ本の原作の方も物足りなかった。

なぜか???

戦ってるのは俺じゃない悟空という他人
ナメック星とか言う訳のわからない世界で、突然変な侵略者が襲ってきて、そういうのと戦っていても、俺は外野からそれを眺めるしか出来ない

ドラゴンボールがいかに優れたすごい漫画であったとしても、子供の俺には、物足りなくて楽しめなかった。その視点が重要ではないか??

子供時代の俺は、漫画という娯楽の全てを否定していたわけではないのだが。
ドラゴンボールのちょい前に十二支編の黄金期に入った聖闘士星矢のアニメは夢中になってみていたから。

まあこの頃のガキンチョの考えがどうだったのか今更正確に振り返ることは出来ないのだが…。
聖闘士星矢でもうバトル漫画には飽きていたのかもしれない。

こんなんだから、俺は、ドラゴンボールリアルタイム世代でありながら、この漫画を通しで読んだことも見たこともないから、
みんなが当たり前に知ってる登場人物も知らないし、あらすじだって殆ど知らない。ベジータの後すぐフリーザが出てきてまた似たようなこと始めたよなとか
そのあとセルだったな。でもその後は??とかこんな知識レベルだ。




☆俺がゲームに強い興味を惹かれた理由

この辺りだと思うね。。

ゲームなら、画面の中に入って、作り物の世界に参加することが出来る

俺は、そのことに、強く魅力を感じたんだと思うね。

「俺が頑張らないと、こいつらいつまでたっても勝てないんだよ」
「俺が動かさないと、ゲームの世界では何も進まないし何も生まれないし、何も動かない」


能動的に遊ぶ世界に俺は魅入られていったんだ

与えられた目的をただこなすだけじゃない、気になったところを自分で調べたり探したり、自分のやりたいようにやれる。
それは虚構の世界で、そんなところで頑張ってもしょうがないことだ
でも、一方通行の鑑賞するだけの娯楽に満足できなかった子供時代の俺は、そうやってゲームへ自然と気持ちが向かっていったんだ


でもこういう趣味?
何もゲームだけじゃないだろ

妙にゲームだけが、今も害悪である風潮があるが、別にゲームが特殊な性格を持っているわけじゃないだろ?

ミニ四駆改造したり、プラモ作ったりするのだって、ゲームと同じ能動的な趣味だ。
なのにゲームだけは、悪いと言う扱いをされる。

制作者の作った虚構の世界で踊っているだけだからか?
それはミニ四駆も、プラモだって同じじゃあないのか?
田宮模型の作った改造パーツを組み合わせるだけ、プラモはそのまま、バラバラのパーツを組み立てる過程を楽しむものだ

本人は作っている過程が楽しいんだから、そこはゲームと一緒じゃあないのか??

プラモ狂四郎はいたけど、ゲーム狂四郎がいてもよかったんじゃないのか??

ゲームにハマりこんだことが悪い、という結果論で考えるのではなくて、
そこは、分離して考えて、ゲームにそこまで魅入られた人間性、個性を考えたほうが建設的じゃあないのか??


俺は昔、自分のゲームレビューで書いた持論があって
ゲームをやること自体に、ものを作り出している、創造している生み出しているという考えがある。

最近ようやく“キャラビルド”という単語が生まれてきて、ゲームをやっていることは何かを作っている感覚であることが認知され始めている。

この先はもう、これらの事実から想像や予測を立てていくしか無い、ある種空想の世界に入る。




俺は多分、普通の人より自己主張が強いんじゃないかと思うね。
自己欲求というか、自己表現というか、うまく言えないがそういう気持ちやこだわりが強くあるんだろう。いまも。


その自我の強さが都合よく良いことにばかり作用せず、むしろ邪魔をして、悪い方向に向かっていってしまったことは否定出来ないだろう。

だからゲームなんてお前からはガキの時に規制させれば問題が単純化してこじれることはなかったんだ

何度も言うが、だからといって結果論で物事を考えてもだめだ

ゲームばかりやってるから屑になったんだ

他人はそうやって簡単に言える。なぜなら言うだけだから。



残念ながら、俺の内面的な話はここまでだ。

なぜなら俺の人生はここで止まっているから。

同じような境遇の人はきっといるはずだろうが、それがわかった上でどうすべきかという答えがない。

いや、基本的に決まった解答はないんだろう。

ただ俺は、それ自体が将来に繋がるとか何かに役立つことではないが、自分に好きなものがあって他人がどう思おうと退屈しない日々を送ってきた。それは確かだ。



☆俺が生きてきた人生で悟ったことと注意しなければならないことを記す

ゲームという趣味を正当化しようとしているが、たった一つだけ注意点がある。
それはゲームだけやっていても、決して人生は前に進むことはないというアタリマエのことだ。
だから、ゲーム=害悪だから遠ざける?それは問題のすり替えである。

いま俺は自分が駄目な人間だと認めて、本当に力尽きはてるまで、自分のやりたいようにやることを固く決心した。
付け加えると、その残された制限時間は本当に長くない。

シレン風に言うと満腹度30%以下で生き延びることができるアイテムは何もない。強いて言えば先延ばしの杖を持ってるからそれを危なくなった時に使っている状態
それも未識別で何回使えるかわからない。LV低くて周りの敵とも渡り合えない。戦ったら100%殺される。

ゲームをやって、それに触発されて何か行動を起こした。その流れが大事なのである。

だから今の俺は、ゲーム(遊び)以外のことをやる時間を必ず作っている。

自分は中学2年の時から新聞配達を始めて、自分で金を稼ぎ欲しい物を買っていた。
その頃から、自分が欲しい、発売日に買うと決めたゲームは、何が何でもお金を稼いで買おうと言う信念を貫き通していた。

そして大学を卒業した時、就職先が決まらなかった俺は、すぐにホームページを作ってゲームレビューを始めた。
まだブログサービスも一般的じゃない10年前2004年の4月のことだ。

10年後
俺はその信念を捨てた。ゲームレビューもやめた。
異様に将来のことを気にしながら、世間体を気にしながら、生きていくことをやめた。

働く、金を稼ぐ、買うと決めたものを絶対に買うために頑張る
そういういい歳した男が持ってなきゃいけない、あるいは、持っててもしょうがないプライドの全てを捨てた。
そしたら楽になった。色んな事をやめて、出来ないことや無理なことまで押し通そうとしたことをやめたからだった。

ここまでの項目で、俺の生き方とか価値観を稚拙だとか幼稚だとか言うイメージを持って、褒められないという人が大多数だと思う。
それに対して、否定する気は全くない。なぜなら自分は駄目なやつなんだと認めたからだ。









☆まとめ

この話に結論はないのだが、俺の経験としての最後だ。

世の中には、明確に自分はこれが好きだ!!とかすらわからず悶々としている人もいるなか、かなり幼い時から、ゲームが好きだということがわかって無自覚にそれを貪りつくしてきた。
そういう方向から見ると、今不幸せでも全体的には幸せだったと思う。

興味が強いから、色んなゲームをやるし、そしたら自然とどういう仕組みでゲームが動いているか知りたくなるし、どういう人間が作っているのか顔、名前、制作意図まで気になってくる。
アクション、RPG、シミュレーション、スポーツ、これらのゲームの歴史は?ルーツは??そんなのが嫌でも知りたくなってくる。

どうやればゲームが面白く感じるのか、そして面白いと感じた瞬間、逆にどういうゲームが駄目なのか、ただやるだけでは物足りなくなって、だんだんそれらを整理したくなってくる。

そういうことをやっていたのが、安西爆弾という落ちこぼれの、ゲーム廃人の正体だ。

これが世の中の役に立つことなのか?将来に繋がることなのか?と問われると俺はそんなこと考えて生きてきたわけじゃないから「なんにもならないですね」としか答えられない。

落ちとか結論は何もない。
だってこれを踏まえて(というかこの話を書いて)、この先どうするべきなのかなんて言うのは俺が逆に聞きたいぐらいなのだ。

まあ普通に働いてどうたらこうたらっていう話は、できたらとっくにやってると但し書きをしておきたい。
なんとなくフリーター生活、非正規労働、これが今できなくなった、動けなくなった。それじゃ駄目か?
また人生を動かせるきっかけが見つかればそれでいいと思ってる。

そのために自分を無理やり縛り付け、娯楽を断ち、社会復帰するために闇雲にデスマーチするのは、有効なやり方じゃないと肌で感じた。
だから戻ってきた。それじゃ駄目か?


終わります(かなり久々に終わりますってかいたきがする)。
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Author:安西爆弾
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