1996-1997 合格確率2%の壁を突破した高校受験

中学2年にあがってすぐあった学力テストで数学8点という惨憺たる成績をたたき出し、親にへこまされるほど怒られた

それまで俺は、勉強をするという習慣が全くなく、中2になったというのに、方程式の原理すら全くわからず、英語は全くわからずという、ありえない状態で学年だけ上がっていた。

定期テストがあっても、勉強を全くしないので、当然成績は悪い。
100点中、50点に近ければ凄いといった点数で、大体20点から50点の間の点数ばかり取って親に怒られていた。
まあ、授業も真面目に聞かないし宿題もしない、テスト前日になっても一度も机に向かうことすら無い

という中学1年の生活習慣を考えると、ある意味ここまで点数取れるのが逆にすごいとも思えた

得意科目は国語だった。勉強しないでもアドリブで点数がとれたから。

☆しかし親に怒られてから
中2にあがってすぐ、そんな成績を出し、親に怒られてから、勉強するようになった。

中1の時、いじめられて一度不登校してから、人と関わることを避けるようになり、休み時間もボケーっと座っているだけで暇だし、授業中もゲームと漫画とその日の夜あるテレビ番組のこと考えて終わるのをただ待っている退屈な状態だった。

それだったら、勉強ぐらい真面目にやろうという考えに至った。

真面目に勉強してみると、意外と面白かった。
ゲーム感覚で、成績が上がっていくことに喜びを感じた


数学の方程式がわからない問題はなんとかなった
2年生の最初の単元が、2次方程式で、1年の応用編みたいな感じだったからだ。
その後、x軸y軸の正比例とかも、1年の応用。図形の証明までは基本的に数学は1年の応用編だったおかげでカバーできた。

それどころか、仕組みを理解してからは楽しんでさえいた。
図形/証明/文章問題には苦しめられたが、数学という学問は当時の俺にとってまさにゲームそのものの世界だった。


社会科
1年で学んだ、江戸時代以前の日本史、世界の地理は、のちの高校受験時に苦労する羽目になった
なにせ、1年生の時に1年かけて勉強することを、まったくやっていないのだ。数学の時みたいなリカバリーも効かなかった。
しかし、俺には追い風が吹いていた。

ちょうど、2年になってからの社会は、中世西洋史を学習するようになっていた。
日清戦争とかアヘン戦争、イギリス解放運動とか、そういった話である。

これが俺の興味を引いた

しかもちょうど、中2の5月26日。

1995年5月26日
PCエンジン 空想科学世界ガリバーボーイ 発売


中世ヨーロッパを舞台にしたRPGで、イギリスのロンドン、花の都パリ、商人の町ベニスなどが登場する!!

学校で勉強している世界が、ゲームにも出てくる。
これが効果的に作用しないはずがなかった。

自慢じゃないが、日本地理はPC-Eスーパー桃太郎電鉄IIで全て覚えた。
時に小学校4年のことであった。

だが困ったことに、英語だけはどうしても挽回できなかった。
英語の文法がどうやっても理解できない。これは当時の担当教員がよくなかったのもあるらしい(本来は音楽教員だった人が英語を教えていた)
まず1年の時の基礎が抜け落ちているのだ。それでも暗記で定期テストは乗り越えていた


☆ゲーム感覚で成績がドンドン上昇する!
定期テストで五教科、合計200点とかそんなんだった成績が、右肩上がりで上がっていく。

当たり前の話だ。
勉強を全くしていなかったのだから


やればやるほどディスクシステム点数が上がる。嬉しくなる。
2学期の中間テストで社会96点をとった(誤答は2問だけ)。クラス1番の人と同じ点数だった。

嫌でもテンションが上がるのを感じていた

勉強しようと思い立って僅か半年弱で、学級No.1と渡り合えるまで到達するとは…
あの、勉強何もわからなかったはなたれ小僧だった俺が…!!

俺は必死で勉強した。
必死というのはふさわしくない言葉かもしれない。
俺は勉強を頑張っていた。


だが、限界というものは驚くほど簡単にやってくる

残念ながら俺はRPGの主人公のように、無尽蔵に経験値を蓄積して成長を続ける生き物ではない

俺の成績は1年間で、200点上昇した。
五教科で200点とかだったのが、400点前後をマークするようになった。

ここが、俺の人間的性能の限界点のようだった…

中学3年に上がろうとしていた頃だった。
俺は努力しても努力しても、成績が頭打ちになった。
それどころか、努力を怠ると成績が簡単に落ちる位置にいることに気づいた

☆一年前と状況が違っていた
そもそも、頑張れば成績が上がるから面白かったのだ。勉強自体が好きだったわけじゃない

一年間努力して、俺はそろそろ遊びたくなっていた。
前とは違う、興味のないことでも勉強しなければならない強迫観念
成績を落とすわけに行かないというプレッシャーに嫌気が差していた


新聞配達も始めたし、2年生のときと違って色々忙しくなっていた。

1996年6月23日(日)
ニンテンドウ64 発売
スーパーマリオ64 発売


まさかのテスト前日に、ニンテンドウ64が発売された。
近くのローソンで予約をし、23日午前0時に親父と一緒に受け取りに行った。

そして深夜2時近くまで、そのまま夢中になって遊ぶのだ。

新聞配達始めてから、色々ゲーム買ったし、プレステ1もサターンも買った。
ゲームが楽しくなってきていた。

畳み掛けるようにテスト前に新ゲーム機が出る。まさかのマリオ64。
歴史的には1997年1月のFF7のが衝撃だったようだが、俺は完全3D空間を自由に動かせるマリオ64のほうが遥かに衝撃的だった。

そしてまた、俺の

このゲームはどうやって動かしてるんだ?

という興味が炸裂する。N64専門誌のその手のコラムを読みまくった。

マリオ64は、その後も2ヶ月以上にわたって、飽きずに遊び倒した。

これは当時劣勢だったN64を発売日に買った人ならわかる感覚だと思う。
クラスでN64を買う物好きは俺一人だったし、他に買ったのは親しいゲーム友達一人ぐらいだった。
しかし、その友達も、夏休みが終わり9月のサクラ大戦が出るまで、マリオ64をずっとやり続けるぐらいハマっていた


頑張っても頭打ちになってしまった成績
そのことで、俺は勉強に対する情熱が冷め、ただ義務的にやるだけになりつつあった


そんな時だった。

☆塾の夏期講習会に参加する
クラスの人に誘われて俺は塾の夏期講習会に行くことになった。
誘われるというキッカケはあるものの、自分から塾へ行くと言い出す奴は中々少ないと思う。

俺は焦っていたんだ
成績が上がらないことに。
出題範囲の狭い定期テストなら理解でないことも暗記で解決できるが
学力テスト、ひいては、中学生の最終目的である高校受験はその付け焼き刃で乗り越えられないことを悟っていた


3年生になると、志望校を決めるための学力テストも増え始める。
定期テストでは安定して400点前後をキープしていたが、それはとにかく成果を上げることに勉強の目的を向けていたからであって、
3年間のうち、最初の1年を遊んで過ごしていたために、出題範囲が広い学力テストは成績が安定せず鬼門だった。
300点中、160から190点という幅のある結果になっていた

わからないところは、なんでも暗記でごまかしていた。
当然、当時は理解しようとしたが、基本的に性能が低い俺には難しい部分も多く残っていた。

それに、ハイスコアを叩き出すためだけに勉強していたわけで、普段の成績がいいから頭がいいとはちょっと事情が違っていた。

その問題を払拭させるために、俺は夏期講習会へいくことにした

毎日、月から金まで午前中は塾で勉強
午後からはゲーム(マリオ64)
15時からは新聞配達


goの過去形がwentだというのがわかったのが実はこの時期だった。
それだけ英語は俺にとってわからないことだらけだった。

そんな夏休みだった。

夏期講習会のあと、俺はこの塾の塾生になった。
伸び悩む成績を上げるためと、受験を成功させるためだった

当たり前の話だが、塾は本人さえやる気があれば、そのやる気の分だけ効果が出る
放課後決まった時間に塾へ勉強しに行くのだから。
しかし、一つ落とし穴があり、塾は点数を上げるための勉強法を教えてくれるがそれ以上のものは教えてくれない

どういうことかというと、定期テストでは徹底して点数の取れる教え方をする。
塾に来る生徒が通っている学校の、教師が作る試験問題の傾向を蓄積・分析した上で、授業をする。
(だから試験が終わったら問題用紙を生徒から借りてコピーして会社にデータとして残そうとする)


塾では成績順に席が決まっていて、下位組と上位組の2つのクラスがあった。

塾に入った頃は、下位組では1番2番を争う席だった。
そこから頑張って、上位組に入ることが出来た。
上位では下の成績だったが(一番前の席)、ひたすら頑張った結果だった。

塾に通うことになって、新聞配達も辞めざるを得なくなった。

最初は19時30分から21時30分といった時間割だったが、10月から17時30分から19時30分という時間に変更になったためだった。

どっちみち受験が近づいてきたら辞めなくてはならないので、いいタイミングだった。
1996年9月いっぱいで俺は新聞配達をやめた。
正式には夕刊配達をやめて、日曜朝刊のみの代配配達員になった。

とはいえ、塾は月・水・金だけ
3年生ということもあって、日曜に模試なども入ってくるが、新聞配達してた時よりずいぶんと暇になった。

実働時間たった1時間とはいえ、毎日放課後は夕刊配達へと慌ただしかった。
休みの土曜日でも、15時からは仕事に行かなければならなかった。

それがなくなったのである。

この頃になると、学校では人付き合いを避けていたのに遊ぶ友達ができていたり、
毎日が充実していた。

新聞配達をやめてからは、放課後、友達と買い食いしたり本屋に立ち読みしにいったりダラダラ過ごすことができるようになった。塾のない日には友達の家に遊びに行ったりということも増えていた。

☆志望校の選択
俺の場合、学習点と学力点がアンバランスで、自分にあった進学校がなかった。

真面目に勉強しはじめたのが2年になってから。さらに3年生からは塾というブーストが掛かる

1年の通知表では、5段階で、2が多くたまに3という成績だったがの、
2年に上がってからは、3と4が多く並ぶ成績になった。うちの学校は相対評価だったので5を取るのは大変だった。
4の上位にいるという印が付くことはよくあったが、5になることはなかなかなかった。

テストの点数である学力点は大体170から180ぐらい。
しかし、学習点については、1年の成績が足を引っ張っており、最終結果もGランクだった。
(後1点多くとれればFランクに上がれるという状態だった)

Gランクで学力点170から180というのは、当時の中学校の査定評価では異質なイレギュラーな存在だった。

一言で言えばいない、ありえないというところだ。

数値上だけで見れば、俺という生徒は

テストの点を取れる頭の良さなんだろうが、
学校で授業中の態度が悪く、学習点が低い


という見られ方をした位置にあったのだと思う。
(勿論現場の、俺と接している教師はそうは思ってなく、あくまで机上の評価方法としてはという意味だ。)

これを踏まえてた上で、志望校を決める。
Gランクで180点以上をボーダーラインにしている進学校を選択する

何度か書いているが、学力点の安定しない俺にとって
この時点でも、合格率はフィフティーフィフティという状態だった。
ランクを下げるなり、工業高校にするなりすればよかったのだろう。
そうすると、俺がここまで一生懸命頑張ったのは何だったのだろうという気持ちが強かった


志望校は3年生の夏休み後に決めなければいけなかった。
一回決めてしまったら、もう簡単に変更することは出来ない。

その後も、学校で学力テスト(総合A、総合B、総合Cというやつだ)や、塾では模試があった。

合格率は2%を指し示していた

さすがに塾側もヤバイと思ったのか、1997年2月。1月の模試結果を見て、俺を呼び出し

「志望校のグレードを落としてくれないか」

という打診があった。

この受験本番ギリギリの時期。
学校ではもう志望校の変更は無理と言われていた。

俺自身も2%続きはさすがにヤバイと思っていたが学校では無理と言われていたので、半ば諦めの境地に達していた。

言えば、なんとかして学校側で変更の手続きをしてくれただろうと思う
しかし俺は、それを言い出すことが出来なかった。


すなわちもう後戻りができないと思っていた。

☆奇跡が起こった!!
1997年1月。
サターンで天外魔境第四の黙示録が出たり1月31日にはファイナルファンタジーVIIが出たり
受験をほっぽり出して遊びたいゲームが相変わらず出続けていた。

俺は我慢をした。

FF7の発売日は、よりにもよって3学期の期末テストの最終日。
なぜだかわからないが、クラスの友達の家に朝早くに行って、一緒に登校前にセブンへFF7を買いに行ったりした。


だけど、買っただけ!!
テストが終わって、学校も早く終わったので、その開放感から2,3時間プレイしたと思うが、基本的には封印せざるを得なかった。

1997年2月以降
学校の授業は、受験前ということで、ひたすら予想問題のプリントをこなすばかりになっていた。
2月も終わり、3月に入る頃になると、専願の人はとっくに受験も終わっていてそのプリントをやる意味すら無い状態の人もいた

そうなると、先生も授業時間にもかかわらず「勉強しろ」と強く怒る理由もなく、非常に気の緩んだ空間が広がっていた。
プリントを配られても、遊ぶ人が増えていた。

俺にとっての本番は3月5日(水)。
俺と親しい友達は、何度も出てくるゲーム友達、同じクラスの友達は勉強嫌いでみんな専願
とっくに受験は終わっていた。

1996年3月3日(月)のことだった。

もう、ここまで直前になると、逆に緊張の糸が切れている人のほうが多くなっていた
授業に来る先生もかなり甘くなってて、プリントを配るだけで後は女子としゃべちらかすなど、だらしなくなっていた。
教室で紙飛行機が飛ぶなどが日常茶飯事になっていた。

別に学校が荒れていたわけじゃない。

国語の授業。
見慣れた予想問題集をコピーしたプリントが2枚配られる。

俺と同様に3月5日が本番の人も、真面目にこれをこなす人は少数派になりつつあった
でも俺は、基本的に真面目だったので、楽しく騒いでいる教室の中、黙々とこれをやっていた。

古文と漢文の問題集だった。

2日後の3月5日。

受験当日。

国語の時間。

2日前にやった国語の予想問題
こんなの今更マジにやっても無駄とも思われた予想問題のプリント
古文と漢文のところでまるっきり同じ問題が出題されたのだ


しかもなぜだかわからないが、俺はその問題と対峙した時、答えもしっかり覚えていた。
家に帰って確認してみて俺は開いた口が塞がらなかったほどだ。

これに気づいていたのはどうやらクラスで俺たったひとりだったようだった。

こうして俺は、国語でほぼ満点をとった(ザコ採点)
現代文で何問か落としただけで、古文・漢文は直前の予想問題のおかげで全問正解していた。
この出来事が決め手となり、俺は合格を勝ち取った。

俺は合格確率2%の壁をぶち破った

結局のところ、塾まで行って沢山努力をしたものの、決め手になったのは運だった。
山のように努力してきたが、運がなければ受かることはなかった。
もっとも、そこまでしてあの高校に入ることが重要だったかというと甚だ疑問が残るが。

当時から常軌を逸するゲーム好きだった俺
工業高校も選択肢にあった。
しかし、この時代の工業高校にはまだ、情報処理科みたいなのはなかった。
まあ入ってみたらカリキュラムにプログラムの勉強するところはあったのだろうが
パンフレット見る限りではどう見ても、電子回路の勉強が主だった感じだった。

それに、まだ14、15歳といった時のこと、
いくらゲーム好きといっても、具体的にPCを触ったことなど数えるほどしか無い
そんな人間が、もうプログラマーとか進路に決めるべきか悩んでいたのだ(これは本当に)


同じクラスの知り合いで、ゲーム会社に就職したいと、高専に進む奴はいたが。
そのために、色々ゲームの研究?(自称)などもしていたらしいが、どう見ても間違っているし無理だと思ってた。

俺から見て、その人は、小中学生とかがドラクエやFFあたりで感動してゲーム会社で同じようなの作りたいという範疇を抜けないというか、
悪い言い方をすると勘違い野郎に見えた。
ゲームを作ることに対しての知識が足りないというか、逆に言うと、俺が中学生のくせに持ってる知識が異常な方とも言えるのだが、そう感じた。

ノートに手書きで、ドラクエだかFFの台詞を写してたり、アイテムのデータや敵のデータとかそういうの、書き写してレポートにして、見せてくれたりした。
本人はそれで、ゲームを研究して分析したと思っているのだろうが、全く無意味だなーと思いながら見てた。

案の定、高専に進んだはいいが、卒業後の進路に『ゲーム会社』が求人になく、その場に泣き崩れたという話をのちの同窓会で会った時に聞いた。
コンピュータを勉強することとゲームを作ることだけをイコールにしちゃうと駄目なんだよなと俺は思っていた。
(まあこのへんのエピソードは結構、今の俺にもブーメランとして突き刺さっているというのはおいといて)



※この記事は以前途中まで書かれていたものに加筆修正して完成させたものです
スポンサーサイト
プロフィール

安西爆弾

Author:安西爆弾
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR