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中学時代に受けたいじめ

1994年、中学一年生だった私は、幼なじみのHから執拗な嫌がらせを受けていた。

あの頃、嫌なことも多かったが、楽しいことも同じぐらいあって、私の人生ではまだ輝かしかった時代の話だ。

私とHのいた小学校は、半端な場所にあり、中学の校区がまっぷたつに割れるので、進学先が2つにわかれてしまう。
なので、仲よかった友達とも離れ離れになってしまい、卒業式は本当に寂しい思いをしたものだった。
人数が綺麗に二分するのではなく、私の通う中学は少数派で、その中に仲良く遊んでいた友達はほぼまったくいなかった。

なぜ校区が分かれているのかというと、その小学校の校区が大きな橋をまたいで存在していたからだ。
私が親しくしていた友達は、ほとんどがその橋を渡った先に住んでいる人ばかり。

おかげで、放課後遊びに行くのに、小学生としては結構な遠出になるため、行き帰りは苦労したものだった。
日が落ちるのが早かった冬場は雪が積もるため自転車も使えず、真っ暗な中を歩いて帰るので、寂しかったり怖かったりしたものだ。

友達が全くいない中学に進学するのは、人見知りが激しい私には不安がいっぱいだった。
唯一知り合いで親しくしていたのは、幼稚園時代からの腐れ縁で幼なじみのHだけである。
幸い、Hとは同じクラスとなり、知り合いが誰もいない最悪の状況だけは免れることは出来た。

中学生になってから一番変わったのは、周りが成績を意識し始めたことだ。
しかし私は小学校時代と変わらず、勉強そっちのけで遊び呆けていた。

Hは私と正反対で優等生だったので、親からも先生からも信頼が置かれていた。
逆に私といえば、忘れ物は多く、テストの点数も悪く、よくHと比べられたものだった。

当時は私も周りの評価なんか気にもせず、今が楽しければいいという精神で、とにかく遊びまわっていた。
人見知りで人付き合いが下手だったけれども、当時は天真爛漫さが色濃く出ていたのか、Hよりクラスメイトと打ち解けるのも早かった。

ところが、それに不快感を示したのがHだった。
全てにおいて私より優れていたHが何よりも気に入らない状況、それは、私に負けることである。
そこから陰湿な嫌がらせが、そして、それが徒党を組んだいじめへと発展するのだった。

うちは父親はゲームジャンキーで、今の時代では珍しくないだろうが、1994年としては親がゲームをやっているというのは珍しい家庭だった。
そして当然家の中にはゲームがたくさんあり、私のような子供には恵まれた環境である(決してお金持ちというわけではない。寧ろ貧しいほうだろう。クラスの中では数少ないアパート住まいだ)。

ファミコン、スーパーファミコンは当然ながら、PCエンジンDuo-RX、メガドライブなどゲーム機も複数所持していた。

友達の間で、話題の一つにゲームが入ってくるのは当然の流れで、しかも知り合って日が浅いので、当たり障りの無い話題をするようお互い暗黙のルールがあって、当時は一般的でないゲームの話題は避けていたものだった。

それも、中学生になって3ヶ月ぐらいすると、打ち解けてきて、しだいにゲームの話も気を使わずに話して盛り上がるようになっていった。親がゲームジャンキーだったから、当然私もゲームオタクになっていたわけで。
家にはゲームだけでなく、ゲーム情報誌もたくさんあって、それをなんともなしに読んでいて知識だけは蓄えていた。

が、この流れについていけなかったのがHであった。
Hの親は厳しく、勉強の邪魔になるファミコンはなかなか買ってもらえなかった。
みんながもうスーパーファミコンを持ち出した頃にようやくファミコンを買ってもらえたぐらいだ。
しかもアパート住まいの私と違って、自室も与えられていたが、部屋にテレビを置いてもらえないので、
買ってもらったファミコンも親の監視つきで自由に遊べなかったのである。

そして、学校でゲームの話をしだすと、Hは不機嫌になり、私にこうプレッシャーを与えてきたのだった。

「中学にもなってゲームの話なんかするなよ。ガキじゃねえんだから」

こういわれて私は、Hの家の事情を馬鹿なりに理解していたので、Hはゲームの話についてこれないのが辛いんだと思い、いないときにだけゲームの話をしようという行動に出た。

しかしそれがHを逆に怒らせることになったのは言うまでもない。

Hがいない時を見計らって友達とゲームの話をする。
Hが戻ってきたら、強引に話を打ち切るが、急に冷めた空気になる。
そんなやりとりが何回か続いた。

視点をH側に変えてもう一度この状況を考えて欲しい。

教室に入ってくるまで、私と友達でわいわい盛り上がっていた。
しかしHが近づいてきたとたん、話が途切れ、ばつがわるくなって離れたりする。

テレビでよくある、いじめられっ子の光景に似ていないだろうか?

当時の私は馬鹿なので、そこまで配慮ができなかった。
友達とゲームの話はしたい。でも、Hがいたら嫌がる。となると、こういうやり方しか考えられなかったのだ。
決して悪意を持ってやっていたのではない。

これはほんの前置きで、当時のHと私の人間関係の一例を挙げただけだ。

学校でゲームの話をするな!という言いがかりで、私とHの力関係がわかるだろう。
Hは、あらゆる面で私より秀でており、またHは、劣っている私を見て、優越感に浸っていた。
ところが、友達を作るのが自分より早かったりといった、自分より秀でた部分を見せると、とたんに腹がたつのだ。

学力、運動、人間関係、親や先生との信頼関係。全てが私より常に勝っていなければならない。
一種の対抗意識のようなものがHにはあったのだろう。

Hとしては残念なことに友達付き合いは、小学校時代に関しては、変にマセていたHは逆に浮いていて、頭は悪いけど歳相応の振る舞いをしていた私の方が、にぎやかであった(中学時代もそうなる予定であったが、一年生の時のいじめによって潰されることになる)。

そうしてHは、私を普段のうっぷんを晴らす道具として扱うようになっていった。
この兆候は、小学校低学年のころから既にあった。が、知恵が働くようになった中学に入ってから周りも無視できないほどに悪化していったのである(小学校時代の出来事はまた別の機会に話す)。

それでは、具体的な嫌がらせ・いじめの出来事を軽く振り返っていくことにする。

●仲の良い友達から遠ざける(1994年春)
小学校時代は、私が親しい友達を沢山作ってしまったせいで手を出しづらくなってしまった。
この失敗を踏まえて、中学入学後すぐに、Hは私を孤立させようと企んだ。
私が作った友達を奪いとって、私より親しくなり、邪魔者を排除しようと先回りをしたのだ。

例えば休みの日に遊ぼうと誘われても、断るように影で私を操る。
自分より成績が良く優等生だったこともあり、Hの言いなりだった私は素直に従う。
こうやって、より自分が操りやすい環境へ私を誘導していったのだった。

●自転車パンク事件(1994年春?秋)
Hと私の家は、中学校の校区の端にあったので、学校まで非常に遠かった。
家から学校まで歩いて45分はかかっていた。
そのため、自転車の使えない冬場以外は、自転車登校であった。

幼なじみで家も近かったHと一緒に学校へいくのは当然の流れで、Hの家の方が私の家より、さらに学校が遠かったので、Hが私の家に迎えに来て一緒に行くことになる。

この時、画鋲を持って私の家に来て、チャイムを鳴らす前に私の自転車をパンクさせ、その後何食わぬ顔で私の家のドアの前に立ち、インターホンを鳴らす。

パンクは、毎日のように起こっていた。

直さないと乗れない。乗れないと困るので、学校が終わってからすぐに自転車屋に修理に持っていく。
すると次の日なり、近い日に必ずまたパンクする。その繰り返しだった。

最初はパンクの穴をふさぐだけだったが、あまりにも毎日のようにパンクするので、チューブが良くないのではないかと、自転車のチューブ自体を何度も取り替えたりもした。

ちなみにパンク修理は500円だったが、チューブの取り換えは2000円もする。
自転車屋の腕が悪いと疑って、店を変えたりもした。
一番近くの自転車屋は、値段も高く尋常じゃないペースで修理しに行くので、怪訝な顔をし始め(いたずらではないのかと)、
仕方なく、徒歩20分の自転車屋が、温厚な店主で修理代も安いということで、そこへ乗り換えた。

とにかく修理代がかかってしょうがないってことになって、次は自転車を買ったホームセンターへクレームという形で持って行って直してもらっていた。

このホームセンターでも、最後の最後はあまりの頻度の高さに「いいかげんにしろ」と言う露骨な対応を取り始め、
最後は、徒歩30分歩いたところにある遠い自転車屋が修理代は高いけど、機材は揃っていて信頼できるということで、そこに直してもらいに行っていた(ちなみにここのパンク修理は一回1000円だった記憶がある。高い理由は、なにせ全部機械を使って修理するからだ)。

わずか1シーズン(1994年4月?10月)のパンク修理だけで、計算してみたら約20000円にもなっていた。
誰かが故意にパンクさせてるとしか思えないだろう。
しかし、当時の周りの大人達(うちの親や学校の担任)は、証拠がないの一点張りで誰かの嫌がらせの疑いはまったく持とうとしなかった。

当時の私はというと、さすがにこう何十回もやられると、薄々Hがやっているのではないかということに気付き始めていた。
ただし、そこまで頭の切れる人間ではなかったので、気づいたのは冬になる頃だった。

結局、みんなの間では、私がデブだからパンクしたのだということになり、自転車を使わず徒歩で通学するはめになった。
毎日、自転車通学せずにみんなより早起きし、とぼとぼと45分かけて学校へ歩いていき、帰りも一人で帰る。
なんとも孤独な毎日であった。

確かに中一の私は、デブと言われても仕方のないほど太っていた。
しかし、この出来事やいじめによって精神的に追い詰められたことで、わずか一年で驚くほど身がしまったのだった。
私自身、中一の時の写真と中二の時の写真を見比べて、あ然とするぐらいであった。体つきが全く違うのだ。

●安西爆弾(1994年夏ごろ)
私の今使っているハンドルネームの由来はここにある。
デブだったので、当時流行っていた漫画「スラムダンク」の安西先生に似ているとからかわれていた。

そして、いつしか、私を人の集まっている場所にぶつけるという遊びが流行り始めた。
勿論、思いついたのはHである。
私をおもいっきり人に向けてぶつける。これを安西爆弾と名づけ、いい遊び道具にされた。
ぶつけられた方も痛いだろうが、当然ぶつかる私も痛いのである。

よく、同じクラスでも、不良っぽい怖い感じの人達の所に向けて発射して、怒られる私を見てみんなが楽しむのである。
発射する人間はぶつかる瞬間は隠れて楽しむので、相手は私がわざとぶつかってきたようにしか見えない。
だから、私が怒られる。そして目をつけられる。
私は悪くないのに、だんだんクラスに居場所がなくなってくる。

●教科書、宿題ノート盗難(1994年春?夏)
当時の私は遊ぶことしか考えておらず、身の回りのことがきちんと出来ていなかった。
忘れ物も多く、いわゆる先生からしたら手のかかる問題児である。

そのだらしなさに付け込んだのが、次の嫌がらせだ。

中学に入ってから、教科書の他に副教材など、持ち物が一気に増えた。
Hはその副教材を何冊か盗み、授業に支障が出るようにした。

勿論最初は自分でも本当になくしてしまったのかと思ったぐらいで、
先生たちからは、とうぜん物をなくしたことになった。勿論このことは成績書の内申点にもがっちり響いてくるのだった。

これも、Hがやったという証拠はない。しかし今になって振り返ってみれば、物をなくしたなら、いつかは出てくるはずだし(仮に外で落としたとしても学年名前を書いているぐらいだ)、
そう何冊も物が短期間にポンポンなくなるのもおかしい。
大体授業以外では全く使わなかった(テスト前勉強すら一切していなかった)し、家も狭いのに、なくなってそれっきり出てこないってのがおかしい。
誰かが盗んだとしか考えられない。

また、夏休みの宿題で、英語の書き取りの宿題が出た。
いくら勉強しない私でも、怒られるのは嫌なので、さすがに宿題ぐらいはしっかりやっていた。

夏休み最終日、いつものようにHと遊ぶことになり、家にあそびに来た。
この時のことはあまり覚えていないのだが、確か英語の書き取りをしたノートがなくなったのをHがきっかけで気づいて
最終日に新しくノートを書い、必死に書き取りの宿題をやり直したのを覚えている。

もっと鮮明にこの日の出来事を覚えていれば良いのだが、パンクの件といい、教科書窃盗の疑いといい、Hを怪しむようになったのは、こういう説明のつかない出来事が当時、連発していたからだと思う。

●脅迫の手紙(1994年秋)
二学期に入って、Hの嫌がらせはエスカレートしていった。
あくまで一学期まではH一人の嫌がらせの範疇にとどまっていた。

しかし、2学期に入ってからは、友達を使って「無視しよう」「悪口を言う」レベルに発展していった。

たとえば、同じ掃除の班で私とHともう一人の男3人で掃除をする。
このとき、私をハブって、2人だけで盛り上がり、孤独にさせるように仕向ける。
さらに、「あいつキモイよな」など陰口を聞こえないように喋ってるように見せて、わざと悪口を聞かせたり、といった手口だ。

こうして、一学期は近所の祭りに2人きりで行くぐらいべったり仲良しだったのが、Hは距離をおくことになる。

トドメは、脅迫状だった。
これもHから手渡された“自称怖い先輩からの手紙”だった。

そこに書かれたのは、「お前最近調子乗ってるんだよ、目障りだ。痛い目に遭いたくなければ隅っこで黙ってろ」といった内容だった。

確か10月半ばの出来事であった。

一学期の頃は一緒に学校へ通っていたが、このころはもう完全に別々に通っていたのだった。

●本格的ないじめへ(1994年秋)
先輩からの脅迫状はHの書いた物ではないかということは薄々感づいていたが、恐らく当時の私はそういう敵意を剥き出しにした行動を目の当たりにして、どうしたらいいかわからず、落ち込んでいたのだと思う。

元気がなくなり、教室で一人たそがれていることが増えていた。

ここぞとばかりにHはたたみかけてきた。

かつて仲の良かった友達を取り込んで、徒党を組んで、私をいじめはじめたのだ。

悪口だけではない、音楽の時間に一番前に座っていた私に向かってシャーペンの芯をぶつけてきたり、
仲間全員で私をハブったり、どんどんHの嫌がらせは大胆になってきた。

ちなみに、音楽の時間はちょうど参観日に割り当たっていて、家の母親がちょうどそのいじめられている光景を見ているのだった。

しかし、後から母親から聞いたところ、いじめられている光景は、じゃれあってるようにしか見えなかったようだった。

恐らく参観日にちょうど、露骨ないじめを繰り広げたのは、Hの計算通りだろう。
私だけでなく家の親すらも馬鹿にしているということだ。

この日の夜、親に向かって、私は涙目でいままで学校で何をされてきたか、どういう気持ちで通っているか訴えたのだった。

10月30日の出来事だった。

10月31日の朝、外は吹雪だった。

私は学校に行きたくなかった。

いつもは疑問を感じること無く、何も考えること無く、学校へ行っていた。

親に学校へ行きたくないと言った。

普段はズル休みを許さない母親だったが、昨日のこともあり、何も言わなかった。

そうして、登校拒否が始まった。

親は休むときに電話で何も言わなかったが、何故かその日の夜、担任の先生が家にやってきた。

この時のこともあまりはっきり覚えていない。

親どうしで話していたような気もするし、私も同席して3人で事情を聞かれたような気もする。

でも、一つだけはっきり覚えているのは、そこで話していたことは、上っ面のことばかりで、

Hの親が厳しく優等生を演じることにストレスを感じていること
私への嫌がらせはそのストレスが発端になっていること
証拠がないとはいうものの、この半年間あった不自然な出来事は全てHが関係していること

肝心の部分に関しては触れてこなかったし、私も触れなかった。

登校拒否2日目。

脳天気な私は、学校に行かなくていい生活をすっかりエンジョイしていた。
日中は親がいなくて、私一人なので、ゲームをやったり、テレビやビデオを見たりしていた。
そうやって嫌な学校のことは忘れて家で楽しく過ごしていたら、16時前に学校帰りらしきHが家にやってきた。

家庭科で使う私の裁縫セットを何故か持ってきて渡しに来た。
どう見ても、適当な理由をこじつけて私の様子を見に来たようだった。
すっかり仲が悪くなっていたので、お互いほとんど喋らず、Hも特に何も言わず、ばつが悪そうに帰っていった。

登校拒否3日目。
話が少し逸れるが。
週末は毎週、小学校時代から趣味が合って仲良しのKと遊んでいた。しかしKとは家が離れていたので、別々の中学になり、
遊べる日と言ったら、土日祝日しかなかったのだった。
しかもKは9月10日にさらに遠くへ、自転車で片道30分かかるところに新居を立てて引っ越したため、お互いの家に遊びにいくのすら一苦労になっていた。

だからか、この時期、週末はどちらかの家でお泊り会をすることが増えていた。
この日、次の日が文化の日で学校が休みだったので、たまたま私の家でお泊り会をしたのだった。

Kと私は、1994年当時としては少なかったヘビーゲーマーだったので、いつも通り夜通し楽しくゲームをして過ごしていた。

次の日の早朝、8時ぐらいだったと思う。またHが家に来た。
私を外に呼び出し、家の前の道路でしばらく話し込むことになった。

Hはそれまでの敵意を剥き出しにした態度を豹変させて、ぶっきらぼうに理由も言わず一度だけ謝って、
後は具体的なことには一切触れず、休んでいる間の学校の話や、もう嫌がらせはしないから学校に来いよというようなことを遠まわしに言っていた。
当時の私は、お人好しで馬鹿だったので、これまで受けた酷い仕打ちをこの程度で許してしまったのだった。

11月4日(金)、こうして短い登校拒否は終わり、また学校へ通うことになった。
担任が、私の休んでいる理由をクラスメイトに聞いて回っていたらしく、みんな妙に優しくて逆に気持ち悪かった。
特に女子の態度が全然違っていて、私なんかデブで全く相手にもされていなかったのが、一人でいるときに優しく声をかけてきたり、たった3日間休んでいた間に何があったのか気になってしまうほどであった。

実はこのころ、同じく中一の生徒が陰惨ないじめを受けて自殺したというニュースが話題となり、学校側も生徒側もみんなやたらと「いじめ」について過敏になっていた時期だった(確か私のいじめの少し後だった記憶がある)。

wikipediaより
愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件



この日の夜(厳密には放課後には具合が悪かった)、私は体調を崩し、風邪を引き寝こむことになる。
次の日、土曜日。学校を休み、寝込んでいたが、Kが遊びに来て、遊んだ。

日曜になってさらに風邪は悪化し、39度の高熱を出した。
翌週から丸一週間学校を休むこととなった。
この週には、学力テストもあって、親も担任も無理矢理にでも出席させようとしていたが、私は休んだ。
内申書に直接響くテストじゃないし、当時勉強なんてどうでも良かったので、私はどうでも良かった。



この出来事があってから、私の引っ込み思案は加速していった。
人を信じれなくなったからだ。
心を許した相手以外には、距離を取り、以前のように積極的にかかわろうとはしなくなった。

教室でも、休み時間は自分の席に黙って座っていることがほとんどになった。

よりいっそうゲームにのめり込むようになり、人付き合いからは逃れようとするようになった。



2年生になり、最初の学力テストで、数学で100点中8点を取ったことで、親から猛烈に怒られた。
1年の頃は、何一つ勉強をしていなかったし、テスト前ですら勉強もしなかった結果だった。
2年生の時点で、方程式というものがわからなかった。方程式のxって何?ってレベルだった。

少々話が逸れるが、1年生のカリキュラムが全く頭に入っていない(やっていない)状態だったので、
そこから授業についていくのはかなり大変だった。
国語は全く問題なし。数学は、1年生の応用レベルだったので、その時に一気に理解させることで対応できた。
社会は、1年生の部分の知識が欠落している。例えば歴史で江戸時代までで知ってて当然ということがクイズ番組で出題されても全く答えられない。
理科も、第一分野しょっぱなの化学分野が全くダメ。
英語は丸暗記で何とかした。文法とかはもう手遅れだった。だから、未だにそこらの中学生より英文は読めない。

そこで2年になって、心機一転して、どうせ休み時間一人でぼーっとしているのだから最低限の勉強はしようと、
机に向かって勉強するようになった。
成績はグングン上昇していったが、私は所謂ガリ勉になっていった。
2年に上がって当然クラス替えがあるが、私は人と関わろうとしなかったので、8月の宿泊研修が終わるまで、
新しい友達が誰一人として出来なかった。


私の雰囲気の変わりっぷりに一番驚いたのは、1年生の時の担任の先生であった。
この先生の担当科目は技術で、2年の技術の時間(10月?3月)に、久しぶりに顔を合わせることになった。
勿論向こうも私ばかり見てるわけにはいかないので、授業が始まって話しかけられるなんてことはなかったが。

2年の技術の時間は、いわゆる日曜大工をやっていて、私は木製の飾り棚を作っていた。
授業時間では出来上がらないので、放課後残って作業をすることになるのだが、その時に声をかけられた。

物は無くし(正確には盗まれていたんだが)、休み時間どころか授業中も騒ぎまくり、いつも落ち着きがなくウロウロ。
成績も悪く、典型的な問題児だった。

それが、物静かになり、課題にも一生懸命に取り組もうとする。
話しかけられたときは、期末テストが終わって結果も出た後だったはずで、
50点満点中、ほぼ満点(技術のテストは簡単である)をとっていた。

そりゃ、手のかかる子がわずか一年で、ここまで変わるとは、いい大人なら誰もがびっくりするだろう。



しかし、今振り返ってみると、これでよかったのか疑問が残るところだ。
天真爛漫で人懐っこかった私は、不幸な出来事で粛清され、どこにでもいるような寡黙で真面目な少年になってしまった。
勉強なんて、やれば一定のラインまでの成績は確実に取れるものだ。
やらなくても100点取れる子が凄いわけで、
時間かけてやっと80点とれる私のような凡人なんて別に凄くもなんでもない。当たり前の話だ。

先生は「勉強しろ!」「勉強しろ!」と言うけど、やらなくても取れる人とやらないと取れない人ははっきり存在する。
ついでにいえば、勉強ができるから将来が保証されるわけでもない。才能があるかないかの違いがわかるだけ。




Hとは、2009年末の中学の同窓会(厳密にはただの飲み会)で、12年ぶりに顔を合わせた。
同窓会はちょくちょく開かれていたが、そんな嫌な出来事があったので、私は出たくなかった。
定職にも就けていないのに、どのツラ下げてでれば良いのかわからなかったからだ。

大体、直接誘ってくるんじゃなくて、人をまたいで誘ってくる態度が気に入らなかった。
この同窓会に出る気が出たのは、直接電話をよこしてきたのと、もう年齢的に昔のことを気にしなくなったからだった。



Hは、田舎の学校で夢だった中学教師をやっているそうだ。
久しぶりにあったが、雰囲気は全く変わっていなかった。

同窓会では楽しそうに現状を話していて、人生を謳歌しているようだった。

ちなみに、Hの両親は4年前に離婚したそうだ。
まぁ、私の家と一緒で、家族仲も元々良くなかったのだろう。
私が今、中学時代のいじめの根本の原因が、Hの両親にあるんじゃないかと確信を得たのは、この事実を知った時であった。

きっと、Hは優等生を演じなくてはならない状況にあったのだろう。
そのプレッシャーからくるストレスを、反対に親が生やさしくて馬鹿ばっかりやってる私が羨ましくて
私にぶつけていたのだろう(外からはそう見えるだろうが、私の家だって結構いびつな関係にある)。



だが、私は同情するつもりは一切無い。



色々辛い思いをしたのだろうが、結果的にHは、自分の夢を実現させ、楽しい毎日を送っている。
それに比べて、私はどうだ?


ろくに思ったように仕事に就けず、未だに辛い日々は終わってはいない。



あの出来事から17年経っても、私の心の傷は未だに癒えていない。
現状うまくいっていないことを全てHのせいにするつもりはないが、結構でかい傷跡を残してくれたのは事実だ。



今思い返せば。

私こそ教師にふさわしかったのではないか?と、あの同窓会からたびたび考えることがある。
大学生の時に教員免許をとろうなんて全く考えたことがないので、もう無理だが。

底辺の問題児から、いじめを経て、仮面優等生へ…。

Hの教師という仕事に対してのポリシーを聞きたくもないのに聞かされたが、浅いし幼いなと感じてしまった。

勉強とはなんなのか?成績とはなんなのか?教室、クラスメイトはどうあるべきか?

あいつは私ほど濃い学校生活を送ってきただろうか?

あいつが、教師になったというのを聞いたとき、「ああやっぱりな」と直感的に思った。
なぜなら、学生時代から“人を管理する”ことに喜びを感じているようにみえたからだ。

きっと、ガッコの先生になりたかったのも、そんな軽い理由からに違いない。



同窓会といっても、大それたものではなく、7,8人の気の合う人間が集まって飲み屋をはしごをする程度のものだ。

その気の合う仲間は、もともと私が最初に仲良くしていた人達ばかりだ。
しかし、1年生の途中で、Hが私から友達を奪って、私より仲良くしだした。

逆に私は、かつて仲良くしていた人達から遠ざかり、人付き合いをしなくなったので、疎遠になっていった。

12年ぶりに会っても、その図式は全く変わっていなかった。
あまり話に入れなかったのである。

こうやって、もう時効だと思っていても、思わぬところでその傷跡が痛み出す。
電話では、結構話がはずんだから大丈夫だろうと思っても、感じてしまう劣等感。



これが、私の30年の人生の中で味わった最も屈辱的な出来事だ。


あのとき、私がいじめられず、人格が変わっていなかったらどういう人生を歩んでいたのか、
未だにその“もし”を考えてしまうことがある。
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